メッセージ
イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
(ヨハネ福音書12:23-26)
過ぎ越しの祭りの最中に、イエス様はエルサレムに入ります。イエス様は戦に用いられる馬ではなく、ろばの子に乗って行きます。ゼカリヤ書9:9の御言葉が実現致します。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って。」そのままの光景が繰り広げられています。
ローマ帝国の属国であったユダヤが、この方をリーダーとして立ち上がる時が来た!と当時の民衆は願い、その熱狂がつたわってまいります。
しかし、その熱狂ぶりをよそに、この時イエス様がおっしゃられたことは、不思議な言葉でした。「人の子が栄光を受ける時が来た。」ん、ん。それは群衆の熱狂ぶりを反映しているかのようです。しかし、その後に続く言葉の意味はいったい何を?と思わせるものです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」
これは主がこれからどういう歩みをなさるか、を示したものです。十字架にかかって地上での命を全うする、それを言っております。もちろん、この時弟子たちですら、その意味をはっきりとわかった者はおりません。
けれども、イエス様は大熱狂で迎えられた後に、しっかりとご自分のこれからの姿を言葉で示されたのです。
一粒の麦は土の中に自分を埋めて、死んで、新たな生命を生み出します。多くの実りを生み出すために一粒が死ぬのです。自分自身を隠すことで、多くを生かします。それがイエス様の示す私たちのあるべき姿であるのかもしれません。しかし、私たちはどうでしょうか?「自分が自分が」と自己主張をして、うっかりすると神様は後回しにして、自分を隠すことが出来ないのです。それは信仰者としては不毛な姿です。実りを得られない姿になってはいないでしょうか?「自分の命を愛する」そう。自分がどう取り扱われるか、それが最重要な課題で、それを中心にぐるぐると生活が回っているのです。しかし、「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあるように、自分はどう扱われようともかまわない、しかし、神様につながることこそ最重要なことだと考えて行動できたら、永遠の命が約束されています。シニア世代であればこそ、この世での生き方を顧み、主が約束してくださる永遠の命を望みつつ喜んで生きましょう。
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
(ヨハネ福音書12:3-8)
千載一遇のチャンス、という言葉があります。またチャンスは前髪だけで、後ろ髪がないので、出会った時に掴まなければ後にはチャンスはない。
そういう意味で、ここでマリアがした行為はイエス様がほめていたように、後には出来ないことでした。それは度肝を抜く行為でありました。高価なナルドの香油でもってイエス様の足を塗り、自分の髪でその足をぬぐったのですから。家は香油の香りでいっぱいになったのです。
私たちクリスチャンはこの美しい話にうっとりします。マリアがその持てる最も高価な物を死に赴くイエス様に全て捧げて、愛と感謝と献身の一切を尽くしていますことに。この行為に見習いたいと憧れてしまいます。
だからこの香油でもって、貧しい者に施しが出来るのにとか、何百人もの命が救われるのに、というふうな業のあり方に心が向いてしまうことを警戒したいと思うのです。弱い私たちの罪を担って、十字架につかれた主を裏切ることになるのですから。
誤解しないでほしいのは、決して聖書は貧しい人々に施すことを禁じているのではないのです。貧しい者はいつもいるのですから、いつでもそうしようとすれば出来るのです。教会はそういう愛の業をいつもすべきなのです。しかしそれが「三百デナリで売れる」から貧しい人々を救える、という数字で置き換えてしまうのは避けたいのです。私たちを罪の奴隷から解放し、死から命へと復活させてくださる主イエス・キリストへの感謝、主イエス・キリストの十字架の死への感謝、この感謝をまず心に刻み込むように、と言っているのであります。
マリアはナルドの香油を、イエス様の葬りの日のために準備していたかもしれません。しかし、彼女は、イエス様が死んだ後にではなく、生きている今、捧げました。愛するイエス様の為に、長い時間をかけてためたお金で買い備えた香油。それを捧げる最後のチャンスを、マリアは逃さなかったのです。
あなたがイエス様の為に、今、使うことが出来るものは何ですか?
「主よ、今生きているあなたに仕えることが出来ることを感謝します。」
イエスは、「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らのなかの一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
(ヨハネ福音書11:47b-53)
イエス様を殺そうとする悪しき計画は、大祭司カイアファのお墨付きも得られて、公然とされていきました。墓に葬られたラザロが復活して、「それを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」(11:45)とあるように、この奇跡を見て信じた人々の動きは、時の宗教指導者を恐れさせるに十二分でした。ローマ人によって神殿も国民も滅ぼされてしまう!と危惧した訳です。しかし、そのなかで大祭司カイアファが預言内容を伝えました。
「一人の人間が民の代わりに死ぬ」と。これこそ、後の十字架上での死を指し示すものでした。それも国民ばかりでなく、神の子たちを一つに集めるためにも死ぬという意味でもありました。まさにイエス様が最後にどのような姿になられるのか、はっきりと示された訳です。以前にも説教でお話しましたが、マタイ・マルコ・ルカ三つの福音書では、「宮清め」がイエス様殺害計画の引き金となりましたけれど、ヨハネ福音書は「ラザロの復活」こそが引き金となっております。ファリサイ派のおそれを引き起こし、ここから十字架の道にイエス様は踏み出されて行くのです。
イエス様を憎み続けてきたファリサイ派の人々はついにイエス様を殺す決定を下しました。罪の思いを抱き続けていると、それが罪の行為になります。あなたの心に、主の前で解決が必要な罪の思いはありませんか。
御前で、御自分をさらけ出して祈ることが大切になります。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(詩編139:23-24)罪の思いから解放されるには、主の祈り「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく・・・」が決め手となります。
過ぎ越しの祭りが近づいてきました。祭司長たちはイエス様をとらえるために、人々にイエス様の居場所を知らせるよう命令を出します。人々の興味は、イエス様の行動範囲に向いています。すべてが十字架へとつながってきています。私たちもまた、何に対して興味や関心をもって生きているのか、が問われているようです。幸いな計画を立てられますように。
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
(ヨハネ福音書11:4-6)
イエス様がことのほか親しくしていたマルタとマリア。その兄弟ラザロが瀕死の病になっているとの知らせが届きます。しかし主はすぐに駆けつけようとはいたしません。「神の栄光のため」にあえて留まります。それはどういうことか、と言うとラザロの死が確定し、葬られてから墓へ赴き、死から命へ復活するさまを人々に見せるためでした。神様の死を打ち破り、復活させる全能の一端を現そうとなさったのです。
しかし、状況は予断をゆるしません。先だってもユダヤ人たちは、主イエスを「神を冒涜する者」だと決めつけ、石で打ち殺そうとしたほどですから。弟子たちはまたそこへ行かれるのですか?と引き止めようとします。
しかしイエス様は「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」(11:9)と言われました。これはどういうことを意味するのでしょう。それは、神様の御心を中心にすえて考えるとよく分かります。神様の御心であるならば、人はつまずきません。神様の御心は光のように人の歩みを守ります。逆に神様の御心がないところを歩めば、人はつまずきます。どこにも光がないからです。
信仰は信念ではありません。自分の中に何らかの光があって、それによって歩むのではありません。神様の御心、その光に照らして頂きながら、私たちクリスチャンは歩むのです。だから大丈夫なのです。
「神の栄光のため」そう。まさにステージが用意されています。昨日の聖書日課サムエル記上17章の前半を読んで、ダビデが王となる前段階でゴリアトとの対決というステージが用意されていることを知りました。ラザロの死から復活というしるしを弟子たちに見せて、信じるようになることを願ったわけです。弟子たちは主イエスの深謀遠慮など、何も分かってはいません。ただただ状況の困難さしか見えていません。だからトマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と発言しています。
私たちはややもすると神様の栄光に目をとめません。暗い中を歩んでしまう、つまずきやすい者です。その弱く、暗い中に閉じこもる私たちを愛し、導き、「私は世の光である」と言って、光の内を歩む者としてくださいました。主イエスは、ラザロの病気を通して、神様と御自分の栄光が現されることを見ていました。私たちの生活のどんなことを通して、主は栄光を現そうとしているか考えてみましょう。「主よ、こんな私の生活を通して、栄光を現してくださることを感謝します。」と祈る者でありたい。