メッセージ
イエスは、「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らのなかの一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
(ヨハネ福音書11:47b-53)
イエス様を殺そうとする悪しき計画は、大祭司カイアファのお墨付きも得られて、公然とされていきました。墓に葬られたラザロが復活して、「それを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」(11:45)とあるように、この奇跡を見て信じた人々の動きは、時の宗教指導者を恐れさせるに十二分でした。ローマ人によって神殿も国民も滅ぼされてしまう!と危惧した訳です。しかし、そのなかで大祭司カイアファが預言内容を伝えました。
「一人の人間が民の代わりに死ぬ」と。これこそ、後の十字架上での死を指し示すものでした。それも国民ばかりでなく、神の子たちを一つに集めるためにも死ぬという意味でもありました。まさにイエス様が最後にどのような姿になられるのか、はっきりと示された訳です。以前にも説教でお話しましたが、マタイ・マルコ・ルカ三つの福音書では、「宮清め」がイエス様殺害計画の引き金となりましたけれど、ヨハネ福音書は「ラザロの復活」こそが引き金となっております。ファリサイ派のおそれを引き起こし、ここから十字架の道にイエス様は踏み出されて行くのです。
イエス様を憎み続けてきたファリサイ派の人々はついにイエス様を殺す決定を下しました。罪の思いを抱き続けていると、それが罪の行為になります。あなたの心に、主の前で解決が必要な罪の思いはありませんか。
御前で、御自分をさらけ出して祈ることが大切になります。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(詩編139:23-24)罪の思いから解放されるには、主の祈り「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく・・・」が決め手となります。
過ぎ越しの祭りが近づいてきました。祭司長たちはイエス様をとらえるために、人々にイエス様の居場所を知らせるよう命令を出します。人々の興味は、イエス様の行動範囲に向いています。すべてが十字架へとつながってきています。私たちもまた、何に対して興味や関心をもって生きているのか、が問われているようです。幸いな計画を立てられますように。
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
(ヨハネ福音書11:4-6)
イエス様がことのほか親しくしていたマルタとマリア。その兄弟ラザロが瀕死の病になっているとの知らせが届きます。しかし主はすぐに駆けつけようとはいたしません。「神の栄光のため」にあえて留まります。それはどういうことか、と言うとラザロの死が確定し、葬られてから墓へ赴き、死から命へ復活するさまを人々に見せるためでした。神様の死を打ち破り、復活させる全能の一端を現そうとなさったのです。
しかし、状況は予断をゆるしません。先だってもユダヤ人たちは、主イエスを「神を冒涜する者」だと決めつけ、石で打ち殺そうとしたほどですから。弟子たちはまたそこへ行かれるのですか?と引き止めようとします。
しかしイエス様は「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」(11:9)と言われました。これはどういうことを意味するのでしょう。それは、神様の御心を中心にすえて考えるとよく分かります。神様の御心であるならば、人はつまずきません。神様の御心は光のように人の歩みを守ります。逆に神様の御心がないところを歩めば、人はつまずきます。どこにも光がないからです。
信仰は信念ではありません。自分の中に何らかの光があって、それによって歩むのではありません。神様の御心、その光に照らして頂きながら、私たちクリスチャンは歩むのです。だから大丈夫なのです。
「神の栄光のため」そう。まさにステージが用意されています。昨日の聖書日課サムエル記上17章の前半を読んで、ダビデが王となる前段階でゴリアトとの対決というステージが用意されていることを知りました。ラザロの死から復活というしるしを弟子たちに見せて、信じるようになることを願ったわけです。弟子たちは主イエスの深謀遠慮など、何も分かってはいません。ただただ状況の困難さしか見えていません。だからトマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と発言しています。
私たちはややもすると神様の栄光に目をとめません。暗い中を歩んでしまう、つまずきやすい者です。その弱く、暗い中に閉じこもる私たちを愛し、導き、「私は世の光である」と言って、光の内を歩む者としてくださいました。主イエスは、ラザロの病気を通して、神様と御自分の栄光が現されることを見ていました。私たちの生活のどんなことを通して、主は栄光を現そうとしているか考えてみましょう。「主よ、こんな私の生活を通して、栄光を現してくださることを感謝します。」と祈る者でありたい。
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。
(ヨハネ福音書10:27-30)
イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とおっしゃいました。命をはってくださる主に従う幸いを覚えます。それに対し「わたしの羊ではない」ユダヤ人たちから拒絶されます。
たしかに当時のユダヤ人たちからすれば、イエス様のおっしゃることはことごとく「神を冒涜している」としか思えませんでした。「あなたは人間なのに、自分を神としているからだ。」と言います。実は問題点は明らかです。ヨハネ福音書は最初の書き始めから、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)と記しております。また、イエス様は神様だ、という書き方を様々な所でしております。ですから冒頭で引用した聖句も、それを明らかにしています。
しかし当時の宗教的指導者層にあたるファリサイ派や上流のサドカイ派は、この発言をゆるしがたいものとしてとらえます。イエス様に対して「もしメシアなら、はっきり言いなさい。」と詰め寄ります。彼らは自分たちが納得する答えを得ようとしているだけで、信じるつもりはありません。
彼らは「目が見える」と自認する罪に気づいておりません。
羊が声を聞き分ける、ということではヨハネ20:11のマグダラのマリアに現れたイエス様との会話を思い起こします。イエス様のご遺体が見当たらなく泣いていたマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と訊きます。園丁かと思ってかくかくしかじかと彼女は訴えます。その時イエス様が「マリア」と声をかけられます。彼女はすぐにその方がイエス様であることを悟ります。マリアの頑なな思い、生ける主ではなく、遺体となった主を求めるこだわりが打ち破られたのは、ただ「マリア」という愛に満ちた主の呼びかけによってでした。その一言がマリアを振り返らせたのです。主はご自分の羊の名を呼んで、彼女を死の絶望から命の希望へと導き出してくださったのです。死から命へ。墓の中の死者から復活者イエスへと。
イエス様を拒絶するユダヤ人たちがいる一方で、ヨルダンの向こう側に行った際には、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。(10:41-42)とあります。主イエスを信じ、主に従う者の生活とは? それはいかなる時でも、イエス様のことを聖書に記されている通り、忠実に話す者になることです。聖霊が助けてくださいます
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
(ヨハネ福音書10:7-11)
イエス様は御自分を羊飼い、私たちを羊になぞらえ、「私は良い羊飼い」であると宣言なさっています。なんという幸い、なんという嬉しさ!!
それも、イエス様がいらしたことを通して、羊が豊かな命を受けるとおっしゃられています。私たちは主を知らなかった時、みじめで自己嫌悪のかたまりだったかもしれません。もしくは、主にあって初めて真理を知るまでは、この世の知恵に支配されたり、しがらみでがんじがらめになっていたかも知れません。しかし、「罪の奴隷状態」でありながら、それに気づかず生きてきた私たちに、主は出会ってくださり、永遠の命にあずからせてくださいました。私たち自身を養う牧草や水を見つけさせてくださいました。今日のみことばから、まずは私たち自身が受けている恵みを味わい知って、喜んでいきたいと思います。
そういう私たちの姿を見て、周りの方々は「クリスチャンって不思議な人たちねぇ」と言うかもしれません。そんな喜べない状況にあっても、ほほえんでいるし、愚痴らずに「神様ありがとう」と言えるなんて!
そうなんです。私たち自身も不思議に思います。「クリスチャンとして喜んで一日一日を精一杯生きていける」ということを。それには秘訣があるんですね。それぞれが祈りの生活、神様と格闘する生活を通してそれが可能になります。祈ることは綺麗事を並べることではありません。自分の思いをさらけ出して、主に吟味して頂くのです。時には悔い改めるばかりの時もあります。また不条理なことにもだえながら訴えることもあります。主はそういう私たちを顧みてくださり、広く深い愛で包み込んでくださっています。私たちはただ主に頼り、養っていただくだけで良いのです。
幸雄牧師は「クリスチャンとは気楽な稼業ときたもんだ!」と良く言ってましたが、その通りなんですね。その幸雄牧師が修士論文で扱ったのがこのヨハネ福音書10章、そこで展開したのが「教会論」でした。
羊飼いは門を通って羊に近づきます。柵を乗り越えてくるのは羊を奪う盗人であり強盗です。羊は傷つけられたり、殺されたりします。
羊飼いは羊に出会うために来ます。羊飼いが羊に出会うためには、ひとつの門を通るほかありません。罪の赦しという門。十字架という門を通って、イエス・キリストはこの罪人である私たちのそばに来てくださったのです。「主よ、あなたの命がけの愛に感謝致します。」ハレルヤ!