メッセージ
イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであ。た。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ベトロのところに来ると、ベトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」と言われた。
(ヨハネ福音書13:1-7)
イエス様は十字架にかかられる前に、弟子たちにしてあげようとしたのがこの「足を洗う」ことでした。食事の席から立ち上がり、行動に移しました。イエス様は弟子たちの足もとにひざまずきます。彼らの足を洗うために。そうしなければ足の汚れをぬぐうことが出来ないからです。その人の前にひざを屈しなければ、人の汚れをぬぐうことはできません。自分も汚れる覚悟なしに、人を変えることは出来ないのです。そしてこの後、イエス様を裏切るであろうユダのこともご承知で、その足を洗われたのです。
その後、いつものペトロとの会話が記されています。ペトロにとって、自分の先生がこの私の足を洗うなんて、とんでもないことだと思ったでしよう。イエス様は「今は分からないが、後で分かる。」と言います。愛は、それが深いものであるほど、「後で」わかるようになるのであります。後になればなるほど、それはわかってきます。
十字架の恵みは、生涯にわたってしだいに弟子たちの身にしみるものになりました。時間がかかります。だから「すぐにわかってもらえない」と、自分の働きに失望しないことです。
ベトロは畏れ多くて「主よ、わたしの足など、決して洗わないでください」と言います。しかしそれに対してイエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えます。するとベトロは、「主よ、足だけでなく、手も頭も。」とせがみます。
「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」と言われます。私たちはどうでしようか? 十字架の恵みにより全身清くされています。それなのに日々の歩みの中で、足は汚れてしまうのです。言ってはいけない言葉を口にし、してはいけないことをしてしまいます。心は萎えて、神様に顔を上げられなくなります。そのとき、忘れてはなりません。
わたしたちの汚れた足を洗ってくださる主イエスがおられるのです。
日々清められて、わたしたちは神の子とならせて頂いています。
イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」
(ヨハネ福音書12:44-47)
イエス様を中心として、左と右とに分けられる構図がここにもあります。多くの人がイエス様のなさった奇跡を目の当たりにして、イエス様を信じました。しかし、ラザロの復活以降、イエス様を生かしてはおけないと殺害の意図を抱いた人々もいました。中には、12:42に「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」とあるように日和った人もおりました。イエス様をめぐる構図は2千年前も現代も変わらないと言えましよう。その中で私たちはどう生きるか、何を選択するのか、今朝のみことばは問うているように思います。
実は、議員たちがイエス様の信仰を言い表さなかったことには意味があります。信仰を言い表さなければ、迫害を受けることはありません。迫害の中でイエス様により頼むことがなければ、イエス様が救い主であることを知ることもありはしないのです。私たちがクリスチャンであるがゆえに迫害を受けることがあれば、それもまた幸いなのです。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」 (マタイ5:10-12)私たちが迫害や白眼視されることで、より主に近くある者になるのであれば、それも幸いなのです。
主を信じる者は、暗闇の中にとどまることはありません。主は光として世に来てくださったのですから。また主は 「わたしの言うことを聞かない者は裁く」とか「滅ぼしてしまおう」とは考えておられませんでした。なぜなら、主は世を裁くためではなく、救うために来たからです。だから、急いで裁こうとはなさいませんでした。また主は、御自分の話した言葉の力を確信していました。なぜでしようか。それは父なる神様ご自身がお命じになった言葉だからでした。この地上に遣わされた者として、御自分の使命を果たされようとなさったのです。
私たちは裁きに耐えません。断罪におののくばかりです。しかし、主は弱く愚かな私たちを愛し通され、 恵みを注いでくださいました。「主よ、あなたは裁くのに遅く、恵みに富む方であることを感謝します。」
イエスは言われた。「光はいましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
(ヨハネ福音書12 : 35-36 )
イエス様の十字架におかかりになる前の発言は、聞いている人々を困惑させるものでした。それは、ふつうメシアに期待していたイメーシとかけ離れていたからでしょう。それに対し、イエス様は上記のような発言をします。御自分を「世の光」(ヨハネ9:5)と明言したイエス様です。光のあるうちに歩きなさい、と勧めているのです。光の子となるために、とイエス様は私たちの弱さを思いやり、道筋を明確になさっているのです。エフェソの信徒の手紙5:8以下の御言葉が思い起こされます。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。-光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです。-何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、ロにするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。」光の子として歩むように促されております。
現代は悪い時代なのかもしれません。絶対者を畏れ敬うことを忘れている方々に私たちは囲まれています。信仰深そうなお盆行事ですら、自分の体裁体面を保つために行っているように見えてしまいます。自らに利益を誘導する為の行事に化しているのかもしれません。ですからクリスチャンとして違和感を覚えても、じっと我慢の子であることに徹さざるを得ません。常陸大宮の土地柄は勝田と全然違う、と夏が来るたび感じます。勝田は全国から人が集まる所で、お盆は連休となり、皆さんふるさとへ向かって散ります。街は閑散とします。ところが、この常陸大宮こそ、その「ふるさと」なんですね。だから、普段は帰省しない子どもとその家族が集まり賑やかになります。ですから、そこでクリスチャンとして生きるのは、「いったん横に置いて」となるワケです。接待に忙殺されるかもしれません。しかし、日々の御言葉と祈りの生活習慣は忘れないでください。そして、主にご自分の心持ちを正直に言い表し、重荷を軽くしてください。
せめて教会の礼拝に出席した時に喜びを現わしましよう。
ゴスペル曲「パラダイス」に こういう歌詞があります。
♪パラダイス、ここはパラダイス。神様の愛で満ちている。♪パラダイス、ここはパラダイス。光が降り注いでいる。♪さあとびらを開けて 歌おう 踊ろう 心合わせて一緒に歌おう♪ 重い荷物はここに下ろして 上を見上げて 一緒に賛美しよう♪ 光が満ちてる この地に満ちてる さあ行こう♪ バラダイスのとびらはもう開いている♪
イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
(ヨハネ福音書12:23-26)
過ぎ越しの祭りの最中に、イエス様はエルサレムに入ります。イエス様は戦に用いられる馬ではなく、ろばの子に乗って行きます。ゼカリヤ書9:9の御言葉が実現致します。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って。」そのままの光景が繰り広げられています。
ローマ帝国の属国であったユダヤが、この方をリーダーとして立ち上がる時が来た!と当時の民衆は願い、その熱狂がつたわってまいります。
しかし、その熱狂ぶりをよそに、この時イエス様がおっしゃられたことは、不思議な言葉でした。「人の子が栄光を受ける時が来た。」ん、ん。それは群衆の熱狂ぶりを反映しているかのようです。しかし、その後に続く言葉の意味はいったい何を?と思わせるものです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」
これは主がこれからどういう歩みをなさるか、を示したものです。十字架にかかって地上での命を全うする、それを言っております。もちろん、この時弟子たちですら、その意味をはっきりとわかった者はおりません。
けれども、イエス様は大熱狂で迎えられた後に、しっかりとご自分のこれからの姿を言葉で示されたのです。
一粒の麦は土の中に自分を埋めて、死んで、新たな生命を生み出します。多くの実りを生み出すために一粒が死ぬのです。自分自身を隠すことで、多くを生かします。それがイエス様の示す私たちのあるべき姿であるのかもしれません。しかし、私たちはどうでしょうか?「自分が自分が」と自己主張をして、うっかりすると神様は後回しにして、自分を隠すことが出来ないのです。それは信仰者としては不毛な姿です。実りを得られない姿になってはいないでしょうか?「自分の命を愛する」そう。自分がどう取り扱われるか、それが最重要な課題で、それを中心にぐるぐると生活が回っているのです。しかし、「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあるように、自分はどう扱われようともかまわない、しかし、神様につながることこそ最重要なことだと考えて行動できたら、永遠の命が約束されています。シニア世代であればこそ、この世での生き方を顧み、主が約束してくださる永遠の命を望みつつ喜んで生きましょう。
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
(ヨハネ福音書12:3-8)
千載一遇のチャンス、という言葉があります。またチャンスは前髪だけで、後ろ髪がないので、出会った時に掴まなければ後にはチャンスはない。
そういう意味で、ここでマリアがした行為はイエス様がほめていたように、後には出来ないことでした。それは度肝を抜く行為でありました。高価なナルドの香油でもってイエス様の足を塗り、自分の髪でその足をぬぐったのですから。家は香油の香りでいっぱいになったのです。
私たちクリスチャンはこの美しい話にうっとりします。マリアがその持てる最も高価な物を死に赴くイエス様に全て捧げて、愛と感謝と献身の一切を尽くしていますことに。この行為に見習いたいと憧れてしまいます。
だからこの香油でもって、貧しい者に施しが出来るのにとか、何百人もの命が救われるのに、というふうな業のあり方に心が向いてしまうことを警戒したいと思うのです。弱い私たちの罪を担って、十字架につかれた主を裏切ることになるのですから。
誤解しないでほしいのは、決して聖書は貧しい人々に施すことを禁じているのではないのです。貧しい者はいつもいるのですから、いつでもそうしようとすれば出来るのです。教会はそういう愛の業をいつもすべきなのです。しかしそれが「三百デナリで売れる」から貧しい人々を救える、という数字で置き換えてしまうのは避けたいのです。私たちを罪の奴隷から解放し、死から命へと復活させてくださる主イエス・キリストへの感謝、主イエス・キリストの十字架の死への感謝、この感謝をまず心に刻み込むように、と言っているのであります。
マリアはナルドの香油を、イエス様の葬りの日のために準備していたかもしれません。しかし、彼女は、イエス様が死んだ後にではなく、生きている今、捧げました。愛するイエス様の為に、長い時間をかけてためたお金で買い備えた香油。それを捧げる最後のチャンスを、マリアは逃さなかったのです。
あなたがイエス様の為に、今、使うことが出来るものは何ですか?
「主よ、今生きているあなたに仕えることが出来ることを感謝します。」