メッセージ
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。・・・イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
(ヨハネ12:3、7)
マルタとマリア、そして生き返ったラザロの家を訪れたイエス様。食事の席につかれた時に、マリアがイエス様の足に香油を塗り、自分の髪でその足をぬぐった、とあります。家は香油の香りで満ちたとのこと。そのかぐわしい様を想像してみてください。
しかし、この行為を非難する人もいました。それはイスカリオテのユダでした。高価な香油を無駄に(!)流すのでなくて、それを売って貧しい人々に施すのが有益だというのです。金銭感覚の鋭い、ユダならではの発言です。確かに三百デナリは、ざっと換算して三百万円ほどになります。しかし、良識とも思えるこの考えですが、実はその裏があることをヨハネは言及しています。ユダが会計をしながら、その中身をごまかしていたことです。そして、ユダは損得勘定をした結果、後にイエス様を銀貨30枚で裏切ります。優先順位がお金だという人あるあるですねぇ。
損得という天秤にかけて物事を考えてゆくならば、信仰の生活は、たぶん損ということになるでしょう。ささげながら、損をしながら得てゆくもの、それが信仰です。ささげることによって、あえて損をすることによってしか得られない豊かさがある、ということを味わい知らなければ、一切は無益でしょう。
一方、イエス様はこのマリアの行為を喜んで受け取りました。彼女がこの先、イエス様が十字架にかかられて命を落とし、葬られることをどれだけ予想していたか、明らかではありません。むしろイエス様を敬愛し、素晴らしいプレゼントとしてナルドの香油をささげたのです。今、この時に献げよう、そう思って行動に移したのです。千載一遇のチャンスを逃さなかった大胆な行為です。
十字架への道の途上にあったイエス様にとって、まさにご自身の埋葬の備えとなりました。貧しい人々への施しはいつでも出来ます。けれども主イエスに対する愛と献身を表明することは、先延ばしせずに、今すべきなのです。人それぞれにその表明方法は異なるでしょう。それがどんな方法であろうとも、決して無駄ではなく、主イエスの目には高価で尊く、喜びそのものなのです。
もう一度きちんと考えてみましょう。私が、イエス様のために、今、ささげることが出来るものは何だろうか、と。そしてそれが分かったら、喜んでささげたいと思います。「主よ、ささげて生きる幸いを感謝します。」
「・・・わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
(ヨハネ8:29-30)
イエス様を何とかして抹殺しようとする人々を相手に、イエス様は御自分がこれからなすべきこと、またイエス様を受け入れない人々が今後どうなっていくかをきっちりと語ります。主イエスは父なる神様が計画している贖罪のわざを終えたら、地上を去ります。そうなった時に捜してもイエス様は見つからない。そしてイエス様を信じなかったがゆえに、自分の罪の内に死ぬことになる、とまではっきりと言います。それから主が天に昇られてから、そこに来ることが出来ないことも。
それに対して、イエス様を受け入れることが出来ず、おっしゃっていることを理解することが出来ない人々は「自殺でもするつもりなのだろうか」と言います。ユダヤ人たちの不信仰と無理解はここに極まります。その行き着くところは死です。彼らはイエス様のことばを聞いて「それではどうしたらいいのか」と真剣に考えなければならなかったはずです。しかし、イエス様の真意を知ろうともしませんでした。
人間はその生き様において、「幸いな人」たりえるか、そうでないかが問われているようです。「この世に属している」限り、主を信じ、主と共にある喜びを味わうことは出来ません。損得勘定にとらわれてしまい、損する人生を「負け組」と思ってしまうからです。何ものにも代えがたい、主からの慰めと平安を受け取り損なってしまうのです。一見、損しているように見えるところに、実は主の憐れみが届き、主にある励ましを受けて立ち上がるという体験をしそこなってしまうのですねぇ。残念です。
ここで主の「わたしはある」(24節)という言葉に注目して頂きたい。
これはイエス様の神性を現す言葉です。だから、イエス様を神様と等しい方として信じることがなければ、罪のうちに死ぬことになるというのです。
それに対してユダヤ人たちは「あなたはいったいどなたですか」と言います。これはイエス様が誰であるか知りたくて尋ねている質問ではありません。イエス様を主として認めようとしない心情から出た言葉です。それほどまでにかたくなであったのです。
けれども、イエス様は御自分を主と認めず、受け入れようとしない人々の中にあっても、決してめげることなく御自身の使命を果たそうとしておられます。父なる神様が共にいてくださること。そして主ご自身が父なる神様の御心に適うことを行うことを明言しておられます。
私たちもまた、主が共にいてくださることを覚えましょう。そして、主の御心に適うことが何かを祈ってわかり、それを行うことが出来たら、なんと幸いなことでしょう。主は信じる私たちを決して見捨てず、愛し、助け導いてくださるお方です。主を信頼して歩んで参りましょう。
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
(ヨハネ8:12)
あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネ8:7b-11)
イエス様を陥れようと、姦通した女性が引っ張られてきました。モーセの律法においては「石打ちせよ」と定められていました。だから、「石で打ってはならない」とイエス様が言えば、律法に反するかどで告発できるでしょう。逆に「石で打て」と言えば、罪人に対する神様の憐れみを説いてきた教えと矛盾します。また石打=死刑を宣言することは、ローマ帝国が死刑の権限を持つという状況下では、ローマ帝国の権威に立ち向かうことになるわけです。いずれにせよ、イエス様は苦境におかれたのです。
彼らの意図を知るイエス様は、最初関わろうとしないで、地面に書き物をしておりました。しかし、人々はしつこく迫ります。イエス様は身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。罪を犯した人に石を投げることはたやすいことかもしれません。正義感にかられて石を投げるのです。特に群衆心理が働くと、余計にそうなります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
けれども、イエス様はあえて一人一人に問うています。石を投げる前に、自分はそうした罪に本当に無関係かどうか吟味しなさいと。
その結果、年長者から始まって、一人また一人と立ち去りました。最後にイエス様とこの女性とが残りました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、だれも」この会話の後で、主は宣言なさいます。「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」主はこの女性の罪を見て見ぬふりをなさったのでしょうか。いいえ。主はこの女性の罪を御自分で引き受けられたのです。そして、罪の赦しを宣言なさったのです。もう罪を犯すな、と言って解放なさったのです。これは、私たちにも向けられている主の憐れみに裏打ちされた言葉です。罪にふける生活に後戻りするな、と言われています。
かえりみれば、私たちもまた罪に足をすくわれる愚かで弱い人間です。「罪に定めない」はまさに私たちに向けられています。「主よ、あなたが私たちの罪を引き受けて十字架にかかられたことを覚えます。主の深い恵みを味わい知ることが出来ますように。主の恵みに応えて生きていきます。」と日々祈ってまいりましょう。
こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はいなかった。さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。
(ヨハネ 7:43-46)
イエス様をめぐっては、人々の間でいろんなことが言われました。「あの預言者だ」とか「この人はメシアだ」とか。また「メシアはガリラヤから出るだろうか。」と疑問が出され、人々の間で対立が生じた、とあります。
イエス様が何者か、ということは主イエスの復活と昇天を経て、初代教会の群れが信じて仰ぎ、またペンテコステの出来事を通して確信が与えられ、伝道が展開されていったことにより、2千年の時を経た私たちには、自明のことであります。使徒信条によって信仰する内容が明確に現され、復活の主イエスに対しては「わが主よ、わが神よ」という信仰告白がなされています。
しかし、生前のイエス様に出会った人たちには「この人はいったい誰なのか?」という疑問がわきおこっていました。福音書を読み進めていきますと、イエス様を中心として同心円で現されるような人間模様があることがわかってきます。中心にイエス様、その周りに弟子達、またその周りに群衆といった人々の構図があります。それに対して、イエス様を快く思わない祭司長・ファリサイ派という集団があります。それはイエス様を中心とする円には組みこまれない人たちです。イエス様が人々を驚嘆させるような知恵ある教えを語ったり、奇跡を行ったりすることで、その対立の構図はいちだんと激しさを増します。「悔い改めよ、神の国は近づいた」と促されても、耳を閉じて聞こうとしない宗教者、それも特権階級に属する人たちがいたんですね。自分を保持して、神様の働きかけに対して心組みを変えようとしない人たち。主イエスはそれらの人々の捕縛しようとする策略をかいくぐって来ました。まだ「主イエスの時」が来ていないから。
一方において祭司長やファリサイ派の下役たちは、むしろ心が柔軟であったようです。「イエスを捕らえる」という目的を託されて来てみたけれど、???手をかけることは出来ませんでした。むしろ、イエス様のそば近くに来て、話を聞くに及ぶと「ひょっとしてこの人がメシアかも」という思いに変えられていきます。それは彼らの祭司長たちへの答えの中に現れています。「今まで、あの人のように話した人はいません」イエス様を知れば知るほど、心が砕かれ、メシアかと思うほどになったのです。これはすごいことです。律法を守っていると豪語していたファリサイ派の学者たちよりも、純粋にイエス様の語ったことに心砕かれ、手をかけることをしなかった下役たちに柔軟な姿勢があります。「打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)とある通り。