日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

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喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。

(詩編100編2節)

           

 「賛美する」ことは喜ぶことにほかなりません。「ええ。大声張り上げて歌っているめぐみ牧師の姿を見ていればそう言えます。」常陸大宮チャペルメンバーならば、きっとそう答えるでしょう。しかし、喜び賛美しているのは、私一人でしょうか?「私も実は喜んでいます。」と後に続く方々がいらっしゃることを期待しています。音楽の授業ならいざ知らず、礼拝の賛美において私たちはもっと自由で活発に声をあげていったら良いのではないか、と思います。やれ、誰が作った曲か、どのように声を出すか、讃美歌のメロディーから逸脱しないように歌うにはどうしたらよいか、余りにも細部にこだわりすぎる傾向があるように感じます。私たちが心を留めたいのは、音楽的センスではなく、信仰の観点から賛美しようということです。賛美することで、心が主に近付くならば、その歌はその人にとって素晴らしい歌となります。主と私たちの間に、他のなにものも入ってくる余地はありません。

 賛美は主にささげるものですから、へたであろうと、うまく歌おうと、何の問題もないのです。主の霊に導かれて心から歌えることこそ、大切なのです。時にはなじみのあるメロディーに歌詞をのせて歌うようになった讃美歌があります。有名なところでは、宗教改革者マルティン・ルターが時の流行歌にのせて歌うようにした「神はわが砦」(讃美歌21-377)があります。またシベリウスのフィンランディアのメロディーで、歌われる「やすかれ、わがこころよ」(讃美歌21-532)もあります。さらに自由な発想で若い人々がとりあげるプレイズソングがあります。もともと賛美という言葉には「心の中で神さまを大きくする」という意味があります。賛美する中で、神さまとの交わりを深め、心の中を神さまに占領していただくのです。それこそが礼拝そのものになるのです。

 

 私たちの肉の思い(自分の欲求や、衣食住の心配、人間関係の気まずさ)は、私たちと神さまとの間に壁を作ってしまいがちです。祈ることで考えてみましょう。祈り始めの最初は、なかなかうまく進まないのに、5分ほど祈っていくうちに段々と主の助けを得て、祈りがスムーズに出来るようになります。この肉の思いが作り出した壁を越える手段が賛美です。賛美の特徴はメロディーがあることです。メロディーに信仰の言葉をのせていきますと、前にお話ししたように耳がキャッチし、それを受け取って信仰を言い表すことが出来るようになります。肉の思いに囚われているうちは、重苦しい気分に支配されがちです。しかし、賛美によってそれは打ち破られるのです。第一週の礼拝で歌われる賛美はその典型かもしれません。

♪大いなる方に♪ の中で「いま弱い者よ 叫べ勇士だと 勝利の主がともにおられる いま貧しい者よ 叫べ富んでいると めぐみの主がともにおられる」と歌い上げています。決め手は主。この私ではないのです。 

 

 

サウルが牛を追って畑から戻って来た。彼は尋ねた。「民が泣いているが、何事か起こったのか。」彼らはヤベシュの人々の言葉を伝えた。それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。」民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した。     (サムエル記上11:5-7)

          

 アンモン人によって攻め込まれたヤベシュの人々は、和平を結ぼうとしたら、無理難題を押しつけられました。敗北した捕虜が受ける残酷な仕打ち以外に道はないとのこと。ヤベシュの長老たちはイスラエル全土にこの悪い知らせを伝え、救いを求めました。この知らせを受けて、ギブアの人々は声をあげて泣き出しました。王に選出されたといえ、当時ごく普通の農夫として生活していたサウルは、事の次第を聞いて、神の霊の注ぎを受けて激しく怒りました。そして、受け取ったすべての者がショックを受ける品物(切り裂かれた牛の死体の一部)を各部族に送りつけて、非常招集をかけました。民も主への恐れにかられ、一丸となって出陣しました。援軍が来ると聞いたヤベシュの人々は喜びます。

 

 サウルによってアンモン人は打ち負かされ、脅威は取り払われました。主が救いのわざをなしてくださいました。この勝利を受けて、サウルを王とみなさなかった人々を殺そうという声が出ました。しかし、サウルは「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。」と言いました。ここにサウルの寛大さと謙遜を見ることが出来ます。そして「さあ、ギルガルに行こう。そこで王国を興そう。」そして民は全員でギルガル(約束の地に入った民が割礼の儀式を行った記念の地)に向かい、サウルを王として主の御前に立てました。人々は主の前に礼拝をささげ、大いに喜び祝いました。

 

 ここのポイントは、

①非力な民に救いを与える神さま

②その働きは、神さまから選ばれた指導者によって実現する。

③神さまに用いられた指導者も、決して高慢にならず謙遜である。

④神さまに栄光を帰し、礼拝をささげる。

 私たちの人生にも、ヤベシュの人々が陥ったような危機的状況が起こるかもしれません。(Ⅰペトロ4:12)その時、すぐに主に頼るか否かが決め手になります。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。」(Iペトロ5:7)

主に委ね祈っていく。状況が好転したら素直に感謝する。或いはすぐに好転しないかもしれないけれど、「主は救ってくださる」の信仰を抱いて、希望をもって生きていく。私たちの生活の主軸に、神さまをおくことが一番大切です。事ある毎に「主よ、救ってください!」祈って生きましょう。

 

 サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたので…主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことを何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。 (サムエル記上1 0 : 1 、6-7 )

 サウル王は、旧約聖書を読んでいる私たちには、ダビデの命を付け狙う「悪い王」というイメージがあります。しかし、サウルが選ばれて初代の王となった経緯を知ると、むしろ「選ばれるべくして選ばれた王」ということが分かります。サムエル記を読み進めながら、サウルがいかに逸脱してしまったか、を知るのも興味深いことではないかと思います。

 さて、サムエルは王を求める民の願いに応えるべく、行動しておりました。それに該当したのが、キシュの子サウルでした。彼は、高身長の美男子で、父のもとで親孝行な息子として生活していました。父の所有するロバが数頭いなくなり、それを探して若者を連れてあちこち歩き回りました。けれども見つけることが出来ず、帰宅しようとしたときに従者だった若者から神の人(サムエル)に会いましょうと提案されます。このような下からの提案が思いもよらぬ効果をもたらすことになります。(シリアの将軍ナアマンの癒やしの時も家来のとりなしがありました。)なぜなら、この時、主がサムエルに明日、王の候補者に出会うことを告げたからです。

 そして、サウルに出会ったサムエルはろばの事は解決済みだと伝え、食事を共にして、翌朝心にかかったことを話し、油注ぎを実行します。それからサウルのこれからの行動を指示し、それがことごとく実行されます。その中で特筆すべきは、主の霊がサウルに降って預言者のようになったことです。まさに「新しく作り変えられる」経験をしました。

 同時にサムエルは王選出の為に、全部族を呼び寄せくじ引きをし、そして最終的にサウルがくじで選び出されます。けれどもそこでサウルの姿が見当たりません。なんと荷物の間に隠れていました。 こでもサウルが「私が私が」と自分を主張する性格でなく、謙遜な性格であることが分かります。「皆彑いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。」( Ⅰベトロ5 : 5 )の御言葉を思い起こします。彼が選出され、「王様万歳」と喜びの声があがる一方で、「こんな男に我々が救えるか」と侮った人達がいました。「だがサウルは何も言わなかった」とあり、サウルの性格の良さが分かります。

 サウルの選出を読むと、私たちも「こんな私」と自己卑下することはないんですね。主は必要な時に、必要な人を召し出し、使命を与えられます。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9 : 2 3 )と主イエスはおっしゃいました。主は私たちに自分の十字架(使命)を背負いなさいと。私の使命は何だろうか?祈って示され、主と共に、喜びつつ歩んでまいりましよう。

 

「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる」

詩編126編5節

 

(1)1~2節から、「偉大なことをなされる神を喜ぶという信仰」を学び取りましょう。

1節の「シオンの捕らわれ人」とは、何を示しているのでしようか。それは、紀元前5 8 6 年、隣国の強大な武力を持ったバビロニアが攻めてきて、多くのユダヤ人を首都のバビロンに捕虜として連れてゆきました。しかし、紀元前5 3 9年、ベルシャ王キュロスによって、捕囚となっていた人々は、ユダに帰国することを許可されます。これが、「シオンの捕らわれ人」の背景です。この詩人は、多分ユダ王国に残っていた人でしょう。傷ついた葦のような心となっている彼に、強烈なニュースが飛び込んできます。それが「主がシオンの捕われ人を連れ帰られる」と聞いたことです。モーセによってイスラエルの民が、突然、あのエジプトを脱出したのと同じことが今起きた。主が私たちを顧みて下さったという喜びに溢れ、声高らかに主を賛美したことでしょう。そして一度だけではなく、この出来事を思い起こす度に、何度も喜びに満たされたことでしょう。私たちは、心から喜べるのは、新しい楽しみや趣味ではなく、主の業であり主の御言葉です。このことを覚え偉大なことをなされる神を巡礼者のように繰り返し賛美したいと思うのです。

(2)3~ 4 節から、「ネゲブに川の流れをと祈りつつ待つ信仰」を学び取りましょう。

詩人は、今、落胆しています。「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いた」時、もうすぐ、バビロンから多くのユダヤ人が戻り、ユダの国は復興するとの喜びで心は膨らんでいたと思います。しかし、歴史をみると24年経過しても、エルサレムは復興せず、神殿も再建されません。この現実に詩人は立ち尽くすのです。そのような中で、「怒涛のようにユダの民を連れ帰って下さい」と祈るのです。イスラエルの民が繰り返して罪を犯し、主の裁きのよってバビロン捕囚となったにもかかわらず、そのイスラエルの民を再び顧み解放された。主の恵みは変わらない。必ず主は成し遂げて下さるという「全き信頼」です。信頼しつつ待つ信仰です。私たちも都上りの巡礼者のように、苦難にあっても、主への「全き信頼」を貫き、希望をもって析り続けましよう。

(3)5~6節の御言葉から、「主によって喜びの刈り入れがなされるという希望を持った信仰」を学び取りましょう。

5~6節は「未来」へと目が向けられた祈りです。エルサレムの悲惨な現状が、荒れた畑のように見えたのでしょうか、詩人は、素朴な農夫の働きに主の恵みを見ています。涙と共に種を蒔く、また種の袋を背負い、泣きながら出てゆくとは、何を示すのでしようか?廃墟のようになったエルサレムを見ることは、巡礼者にとって涙でしかありません。エルサレムが廃墟のようであることを知りつつ、私たち巡礼者はここに礼拝に来ます。それは農夫が毎年種を蒔くように礼拝に来ますという決意の表れです。「喜びの刈り入れ」とは、巡礼者たちの祈りに主が答えて下さり、あのバビロンにいる捕らわれ人が一斉に戻り、このユダの国が再建され、人々が喜びに溢れる時が来る。それが、詩人の歌う収穫であるということです。
そのことが必ず実現することを確信し、巡礼者はこの詩を歌いあげるのです。私たちも農夫のように福音の種を蒔きます。主イエスは、私たちが、福音の種を蒔き続けて御許に召された時、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえらる」との約束をしてくださっています。それであるならば、私たちは、主イエスから与えられる「栄光から栄光へ」という恵みを目指して、迷わず、気落ちせず、まっすぐに進んでゆきたいと思うのです。

 

 

「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。・・・」     (サムエル記上8:5-7)

          

「王を立ててください。」と、イスラエルの長老を始めとする人々がサムエルに迫った様子が記されています。一つには、祭司が裁きを行う体制が、もはや機能しないと感じたこと。それはサムエルの息子たちが、正道を歩むことなく、不正に手を染めていたことに対する批判もありました。また、神さまを主(主君)とすることよりも、他国のように自分たちの中から王を輩出して、そのもとで裁きが行われることこそ最善だと考えていたことによります。だからこそ、その申し出を受けたとき、彼らの言い分はサムエルの目には悪と映ったのです。神さまをないがしろにする行為だと。

 けれども、主に祈ったときに思いがけず「民の声に従うがよい。」との答えがありました。民のしてきたことが、主の御支配を無にすることだったと言うのです。「彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。」と言明します。出エジプトの恵みが簡単に忘れ去られ、主を退け王を立てようとする!!

 サムエルは王を立てたら、どんなに厳しい状況に陥るかを具体的に説明します。「あなたたちは王の奴隷となる。」とまで言い切っています。しかし、民はサムエルの声に聞き従おうとせず、「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」と言い張りました。主は「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と。

 ここでの民の問題点は、主が定め導いてくださる「みこころに沿った生き方」を捨てようとしたことです。自分たちの主張の先に、困難や苦境が待っていたとしても、とりあえず「他の国」と比較しても遜色ない体制作りこそが最善、最強だと思ったことです。人間の知恵が優先されています。

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)の聖句が警鐘のように響いてきます。

 これは、私たちも陥りやすい「罠」ではないでしょうか。信仰者として生きると、いわゆる「貧乏くじ」を引きやすい。なぜなら「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」(マタイ5章)は、踏みつけにされる危険をはらんでいるからです。しかしイエス・キリストに従おうとすれば、その生き方が模範になります。その幸いと恵みをしっかりと味わいたい。

 

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