メッセージ
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。
(イザヤ書9:5、11:1-2)
アドベントに入りました。主イエス・キリストのご降誕を待ち望む季節です。(日本では、この世的にプレゼントを待ち望む季節となっていますけれども。最大のプレゼントはイエス・キリストであることを教会は高らかに宣伝していきたいと思っています。)教会の一年はここに始まります。
クリスマスツリーを飾り、アドベントクランツのキャンドルに灯がともり、私たちの心にも光がともることを祈っています。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(テトス2:11)
上記のイザヤ書の御言葉は、イエス・キリストの誕生を告げる預言と言われています。イザヤが活躍した年代は紀元前7世紀です。そう、キリストが誕生するまでに700年も年月を経たのです。この事は、私たち人間の思いをはるかに超えた、神様のお考え、ご計画の年月を思わされます。私たちは「すぐに実現する」ことを一番と考え、時にはそれが叶わないと、祈りをやめてしまうことさえあります。しかし、神様の時は、人間の思いを超えて、はるかに長~いのです。最初に主の誕生預言を告げられたユダヤの人々は、子ども讃美歌にあるとおり、「♪昔、ユダヤの人々は神様からのお約束、尊い主の誕生を何百年も待ちました♪」であったのです。そうして久しく待ち望んだイエス様が、ダビデの子孫としてお生まれになりました。神様はお約束を違える方ではありません。
そして、誕生を告げるイザヤ書はイエス様の生涯の最後をも告げています。「神に従ったあの人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。しかし、平和が訪れる。」(57:1-2)また、「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために。わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる」(57:18-19)
私たちは平和を願っています。戦争のニュースを聞く度に心がふさぎます。そして「神様、これはいつまで続くのですか?」と祈りの中で問わざるを得ません。しかし、創造主である神様は人間の世界をしっかりと御覧になっておられます。そして、私たち人間が、自分中心の利益追求することから変えられていくことを願っています。気づきが与えられるように、御言葉を示してくださいます。「あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、ま昼のようになる。」(58:10)喜んで生きましょう。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
(ヨハネ福音書15:11-16)
イエス様は、私たちがご自分の愛にとどまり続けること、そして互いに愛し合うことをお命じになりました。この戒めは重荷ではなく、私たちが喜びで満ちあふれるようになるための祝福です。主の愛にとどまり、互いに愛し合うことで、喜びで満ちあふれる生活を送りたいものです。
また「あなたがたはわたしの友である。」との言葉、嬉しいですねぇ。イエス様と弟子たちの関係は「主人と僕」ではない、と言うのです。「友」と呼び、またそれにふさわしい間柄になろうとされています。これは13節にあります「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と関わってきます。私たちは短絡的に「友のために」か、じゃあ私はどんな自己犠牲を払ったらいいのかとの思いに走りがちです。しかしイエス様は弟子たちを「友」と呼び、弟子たちを始めとする多くの人の罪を帳消しにするために、十字架にかかり命を捨てられました。その愛の大きさ、深さを覚えます。だからイエス様と私たちの間柄について、しっかりと確認しておきましょう。イエス様が「友」と呼んでくださり、その手をさし延べてくださっています。私たちはその手を握り返すだけでよいのです。そして「共にいます主」は私の友なんだ、と喜んで生きていけばよいのです。
イエス様の友であるしるしは二つあります。イエス様の命じる愛の掟「互いに愛し合いなさい」を行うこと。それと父なる神様のみこころを知らされていることです。「互いに愛し合う」は実践ですから、それをするかしないかにかかってきます。けれども「神様のみこころを知らされている」については、「はて?」と思ってしまう方がいるかもしれません。そこで大切なのは、「祈って読んで賛美して」です。「主を主として過ごす」ことで、不安が確信に変えられます。信仰生活の基本を大切にしてください。恵みあふれる生活を送ることが出来ます。
ここでもう一度覚えたいのは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」とのイエス様の言葉です。ここでイエス様は、私たちではなく、イエス様ご自身が主であり、主権者であることをはっきりさせています。イエス様は、私たちが実を結んで父なる神様の栄光を現すために、私たちを選んでくださったのです。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
(ヨハネ福音書15:5-7)
有名なぶどうの木のたとえの箇所です。「わたしはまことのぶどうの木」と主は高らかに宣言されます。そして「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(15:4))とつながることを強調されています。
どうでしょうか?あなたは「主につながっている」という実感がありますか?ここで言われているのは一方通行のつながりではなく、双方向のつながりが問題とされています。主イエスからの手が差しのばされて、私たちをとらえます。また私たちの手が伸ばされ、主イエスの手を握ります。そのように双方が結びつくことによって枝は実をみのらせるのです。私たちの実力や良い性格が実をみのらせるのではありません。こういうことを聞きますと、この中には安心する方がいらっしゃるかもしれません。(笑)大切なのは、キリストという木につながってこそ、豊かに実を結ぶことが出来るということなのです。
ふりかえって、私たちの生活の中で、主イエスと「お互いの手を握り合う」という体験をどこでしているでしょうか?私自身は、毎朝の祈りの中で、それを実感しています。だからこそ、「聖書を読んで祈る。そして賛美する♪」まずは信仰生活の基本をお勧めするのです。
7節では「望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と言われています。注意しましょう。主は私たちの欲望を何でも満たしてくれるわけではありません。主イエスのことばにとどまりながら、求めることを学んでまいりましょう。「主よ、みこころにそって祈ることを教えてください。」と祈るばかりです。
また9節では「わたしの愛にとどまりなさい。」と言われます。これは主イエスからの愛の招きです。父なる神様がイエス様を愛したのと同じ愛で、イエス様は私たちを愛してくださいます。何という恵みの中に私たちは招かれているのでしょうか。私たちはただ、主の愛を信じて、とどまり続ければいいのです。主の愛にとどまるとは、主のことばにとどまることです。私たちの今までの人生の中で「主が私を愛してくださった」という経験をした出来事を思い出してみましょう。そして主の恵みを深く味わって、前を向いて歩き出しましょう。ハレルヤ!
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神はその保証として、”霊”を与えてくださったのです。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:1-5)
本日は永眠者記念礼拝です。常陸大宮チャペルメンバーとして、天に召されたのは二宮幸雄牧師でしたが、(幸雄牧師については勝田教会で永眠者記念礼拝で毎年覚えられています。)今年7月に青田光晴兄が在天会員になりました。それで、今年初めて当教会でも「永眠者記念礼拝」を行う運びになりました。2人の写真が飾られている礼拝堂です。
この二人について、それぞれ皆さんの中に思い出があるかと察します。
特に青田さんについてのエピソードは、7年ほどの主にある交わりで出てくるのは「とにかく優しい方」ということです。家庭的には、恵まれず晩年を「お一人さま」として過ごしておりました。その寂しさを、この教会での交わりの中でだいぶ慰められたのではないか、と思います。
今日の礼拝の中で、讃美歌21の385番を歌います。この歌を賛美するとき、私たちは先に召された親しい友を思い出し、涙ぐむこともあります。そして主にある交わりを喜んで生きていこうと思いを新たに致します。
この秋のひととき、「主が与え、主が取り去りたもう」(ヨブ記1:21)を覚えるわけであります。
また、葬儀の際によく読まれるⅡコリント5章において、私たちは「天にある永遠の住みか」を覚えます。この地上の生涯が終わり、天に住まいを移すことの幸いを覚えます。だから私たちクリスチャンは落胆しません。いっときの別れはつらく悲しいものがあります。しかし、その先に神さまが用意してくださる住みかがあります。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネ14:1-2)とイエス様もおっしゃっています。
今日の箇所でも、神さまがその保証として「霊」を与えてくださっています。だから何も心配することはありません。90歳あるいは100歳まで生きられるかどうか、それは誰にもわかりません。しかし、その時が来たら、すべてを神さまに信頼し、委ねていけばいいのです。「神はすべてを時宜にかなうように作り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレト3:11)神さまの愛のうちに歩んで参りましょう。、あなたのくださる平和で心満たされ生きる者としてください。」日々、祈り続けてまいりましょう。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
(ヨハネによる福音書14:27-28)
「平和」という言葉が昨今ほど取りざたされることはいまだありませんでした。ロシアのウクライナ侵攻、またイスラエルのガザ攻撃等々、心痛むニュースが配信されてきます。いったい神さまは何をしていらっしゃるの?とつい口から出てしまったりもします。けれども信仰者として、歴史を支配したもう神さまを信頼し、ただ祈り続けていくほかありません。
山上の垂訓、マタイ5:9に「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。世界平和には遠くても、自分の身の回りにおける「平和」を維持するにはどうしたらよいのでしょう。特に常ならぬ事態が起きると、ばたばたしてしまい「平和」であることから遠ざかってしまいがちです。心が騒ぎ、おびえが生じた時に、私たちはいったいどうしたらよいでしょうか? 「私が我慢すれば波風立たない」と思う方が多いようです。しかし、それが真の平和になるでしょうか。自己犠牲が強いられるところに、まことの「平和」は成り立ちません。
では、「平和を実現する」にはどうしたらよいでしょう。それはまず第一に、神さまとの平和を実現することです。神さまに対する罪を悔い改めて、神さまとの交わりを回復ることがどうしても必要です。第二には、自己中心から解放されていくことです。あらゆる争いは結局、自分のことしか考えない利己主義から生じるのですから。自分のメンツや人からの代償にこだわる人、自分のことばかり考えている人は、平和を実現しません。良いと思ってしたことが誤解されたり、中傷されたりしても意に介さないで、ただ神さまの栄光が現れることを願っている人、自らを忘れている人こそ平和を実現する人たりえます。
嬉しいことに、今日の聖書において主イエスは「わたしは平和を与える。・・・心を騒がせるな。おびえるな。」とおっしゃっています。イエス様が私たちに、まず「平和」を与えてくださるのです。十字架が近い事を意識して、弟子たちに明言されました。私たちが自前で「平和」をふりかざす必要はありません。主イエスは、私たちを神さまと和解させるために、天の栄光を捨ててこの地上に来てくださいました。そればかりか、恥しめの十字架にかかり、ご自分の命を捨てられました。そのイエス様を思い、主イエスを私の心の王座に据えると、私たちも平和を実現する人に変わるのです。トラブルメーカーではなく、ピースメーカーに変えられましょう。そこに本物の幸せがあるのです。「主よ、あなたのくださる平和で心満たされ生きる者としてください。」日々、祈り続けてまいりましょう。