メッセージ
天使は彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
(ルカによる福音書1:28-33)
今年のクリスマステーマは「天使が告げるメッセージ」です。私たちの日常生活では、あまり天使が登場しないかもしれません。しかし、クリスマスには天使の出番がたくさんあります。そして、最初のクリスマスが本当に不思議に満ちた、神様の深い愛にねざしたものであることが私たちに知らされるのです。今日読んだ個所は「受胎告知」の場面です。
大工ヨセフの婚約者となっていたマリア。その彼女を仰天させる知らせを天使が告げるのです。「おめでとう、恵まれた方」まだ内容は知らされてはいません。祝福に満ちた呼びかけ、これだけならステキです。さらに「主があなたと共におられる」ときました。マリアはこれらの言葉に「戸惑い」そして「何のことかと考え込んだ。」とあります。天使の登場とその言葉に、考えるマリア。この思い巡らす姿は彼女の特徴でもあります。
戸惑うマリアに対して、天使はこれからマリアが男の子を産むこと、名前をイエスと名付けること、その子はいと高き神の子であるということを告げました。しかし、マリアは状況がよく飲み込めませんでした。処女である自分が妊娠するなんて不可能だと思ったからです。けれども天使は、聖霊によって子どもを授かることを告げます。そして、マリアの親戚エリサベトが高齢でありながら妊娠したことを思い出させ、最後にこう言ったのです。「神にはできないことは何一つない。」
すごい決めぜりふですねぇ。決め手は人間であるマリアでなくて、神様の方にあるということを確認させています。神様のご計画というのは、いつの世にあっても、深く遠大であります。人間にとってそこに組み込まれた当初は、戸惑うことばかりなのです。「なぜ、今、この私が???」しかし、後になって「神様は、この私を選び、十字架(使命)を負わせてくださったのだ」と分かることがあります。私にとっても、献身へと向かわせてくださった、牧師である父親の病気という契機がありました。その時には試練以外の何物でもなかったことが、恵みあふれる導きに変えられていく、そういう体験が皆様にもあるのではないでしょうか。
マリアは戸惑いましたが、ただ主の恵みと聖霊なる神様の働きによって、男の子を授かることが分かりました。有無を言わさない神様のご支配。その御旨に添うことが幸いであると覚えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」全てを主に委ねていきます。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光りが輝いた。・・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 (イザヤ書9:1,6)
今日は待降節第二主日です。信仰によって、クリスマスの喜びを先取りすることが出来ます。預言者イザヤの力強いメッセージを聴きましょう。預言者とは、現状を分析して「ここが問題だ」と批評する者でもなく、また、人々を一時的に安心させる「偽りの平和」を宣べ伝える者でもありません。厳しい苦難と暗闇があっても、神様の約束を語り続けるのです。
北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、その脅威が南王国ユダにも迫っている状況です。その恐れを感じている苦難と暗黒の時代です。
けれどもイザヤは、闇を覆す神様の約束を取り次いでいます。「闇の中を歩む民は大いなる光を見た。」と宣言します。まるでもぉ神様の約束が実現しているかのように、信仰の目でその光を見ています。(ミカ5章)
この光こそ、イエス・キリストです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)とある通り。イザヤを通して「ひとりのみどりごが与えられる」との約束がなされます。それは700年後に実現します。神様のご計画、年月はかかるようですが、必ずや実現します。私たちはすぐに実現しないと、「まるで神様は私たちを愛してくれていない」と、ふてくされます。けれども、絶望的な暗闇のような世界に光が射し込んできている、その「希望の光」を待ち望みつつ、ユダヤの民は喜び、前を向いていくことが出来たのです。
私たちにおいて「暗闇」とは何でしょう。神様の愛ゆえにこの世に送り出された人間は、互いに愛し合うことによってのみ、幸せになることが出来ます。ところがそれを覆い隠すものがあります。「人のことなぞかまってられない。自分さえ良ければいい」というわがままがあったり、「あんな人は絶対にゆるせない。」という憎しみにとらわれてしまったりして、私たちは愛することから遠ざかってしまいます。この愛を遠ざけてしまうもの、それが闇なのでしょう。競い合ったり、憎み合ったりして、本来の姿を忘れてしまうのです。神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない命、かぎりなく尊い命であることを忘れてしまいがちです。
そういう私たちを見るに見かねて、愛そのものである神様御自身が、人間となってこの世界に現れました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:1,14)神の愛そのものであるイエス・キリストは、私たち一人ひとりが神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない存在であること、競い合う必要などまったくないということ、互いに愛し合うことによってのみ幸せになれるのだということを思い出させるために、この世界にやって来られたのです。暗闇の中に輝く光、イエス様を喜んで迎えたいと願います。
ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。… 主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主が あなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。」
(サムエル記上24:5b-11,13)
兵を率いてダビデを追ってきたサウルは、洞窟に入って用を足そうとしました。ところがその奥に、ダビデと兵がひそんでおりました。ダビデの兵はサウル王を討つまたとないチャンス!と勧め、ダビデもひそかに近付いてサウルの上着の端を切り取りました。が、それにとどめ、サウルを討とうとしませんでした。切り取ったことにも良心の呵責を覚えたほどです。
「主が油注がれた方に、わたしが手をかけることをしない。」と言います。
たしかに、ここでサウル王を討取れば、もう逃げ回らなくていいのです。けれどもダビデは自分の利益となるよう行動するのではなく、神様を中心に物事を見極め、それを第一する生き方をするのです。
サウルの後から洞窟を出て行き謙遜に臣下として礼をつくします。証拠としての上着の端を見せ、自分には皮逆心が全くないことを言明します。自分を「死んだ犬、一匹の蚤」と呼び追跡するに値しない存在であると。復讐や裁きは主の御手に全く委ねていると言い切ります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ12:19)を思い出します。
サウルも悪霊の支配下にない時は、ものの道理もよくわかり、自分の非を悔い、感動して涙を流すほどでした。ここでダビデを褒め称え、王位は必ずダビデのものとして確立する、とまで言うのです。しかし、悲しいことに、サウルが正気に戻り、心が柔らかになったのは一時的なことでした。そのことをよくわきまえていたダビデはこの後、サウルと行動を共にせず、エン・ゲディの要塞に上って行きました。
私たちの生活において相手と争い、憎んだりしませんか。憎しみの炎以上に、悪魔を喜ばせるものはありません。燃え上がった炎は、双方を焼き尽くすまで消えません。悪魔の挑発にはのりたくありませんねえ。
相手と争ったとき、「自分が勝つか、相手が勝つか」と思わず、「悪魔が勝つか、神様が勝つか」と考えることです。憎しみに負ければ悪魔の勝ち、愛が憎しみを打ち破れば神様の勝ちなのです。主が勝利してくださる!
ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、主にかけて誓って言う。明日または、明後日の今ごろ、父に探りを入れ、あなたに好意的なら人をやって知らせよう。父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように。主が父と共におられたように、あなたと共におられるように。そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい。」
(サムエル記上20:11-15)
ダビデはひそかにラマのマヨトから逃げ戻り、ヨナタンにサウル王から命を狙われていると伝えました。ヨナタンは父王の思いを確認し、二人だけがわかる方法でダビデに伝えることを約束しました。ヨナタンとしてはかつてサウル王が言った「主は生きておられる。彼を殺しはしない。」(19:6)を信じたかったでしょう。しかし、新月祭の食事の席で、ダビデの不在理由を伝えたヨナタンさえも怒りの対象となり、槍を投げつけられました。ヨナタンの淡い期待は打ち破られ、ダビデの言うとおりだったことが証明されたのです。
ヨナタンは約束どおりの時刻に野に出て、矢を三本射ると連れてきた少年に「矢はお前のもっと先ではないか。」と叫びました。それはダビデにサウルが命を狙っていることを伝える合図でした。さらに「早くしろ、急げ、立ち止まるな」と声をかけました。すぐに逃げよとの警告を発したのです。従者を帰らせた後、ヨナタンとダビデは顔を合わせてあい、主の前に契約を交わしました。神様が、それぞれの子孫の間の永遠の証人であるとの約束です。(その後ヨナタンが戦死し、サウル王朝も滅び、ヨナタンの家系が絶えそうになったときに、ダビデはその契約を思い起こし、ヨナタンの息子を救いました。サムエル記下9章)この後、ダビデはサウルの殺意から身を守る為に、ひたすら逃亡の生活を送ります。
ダビデとヨナタン。二人は心から相手を尊敬し、大切に思っていましたが、サウルがダビデを敵視するようになってからは、その友情は引き裂かれてしまいます。それでも二人には、自分の思いよりも神様のみこころを第一にする姿勢がありました。また、相手のために行動する愛がありました。「どのようなときにも、友を愛すれば 苦難のときの兄弟が生まれる。」(箴言17:17)私たちが生きていくためには誰かとの関わりが必ず必要です。ダビデとヨナタンのように、よい友人が与えられることは人生の祝福です。あら探しをしがちな私たち。互いの足を引っ張り合うことはエネルギーの無駄遣い。互いに助けあうことにエネルギーを使いたいですねぇ。相手のよいところを見つけ出し、共に生きていく道を探しましょう。「主よ、この私がそう出来るように助けてください!」と祈りましょう。
ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三弦琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。
(サムエル記上18:5-9)
ダビデがゴリアトを討伐した後、サウルは彼を召し抱えました。ダビデの戦功をほめた「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」との喜びの歌声を耳にしたサウル王は激しく怒りました。自分は「バカにされた!」妬みにかられたサウル王は、ダビデが自分の王位を脅かすと恐れ始めておりました。一方ダビデは、サウルの命令に従順で、遣わされる先々で勝利を収めました。主がダビデと共におられたからです。サウルの恐れは次第に敵意と殺意へと変わっていきます。
サウルに災いをもたらす神の霊が降ると、狂乱状態になりました。そこでいつものように竪琴を奏で、サウル王をいやそうとするダビデに、サウルは手にしていた槍で彼を突き刺そうとします。ダビデは身をかわして難を逃れます。
サウル王の悲劇はどこに起因するのでしょうか。それは自らとダビデを比べたことによります。自分が過小評価され、ダビデがより高く評価されている!と。そして妬みが芽生えます。幸雄牧師はよく言っておりました。「比べることは不幸の始まり」そうなんです。あるがままの自分を肯定し、神様に愛されていることを喜んでいれば、誰彼と比較する必要はなくなるわけです。ところが、私たちはつい比較してしまいがちです。自分にないものを他人がもっていると妬むのです。そして最終的に、自分が一番でないと満足しないということに陥ります。
主イエス・キリストに従っていた弟子たちですら、誰が一番弟子かということでもめておりました。家も財産も捨てて主に従った弟子たちの間でそんなことが起こるなんて!主イエスは言いました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35)ダビデはサウル王に仕えました。
もし、誰かに対して妬みや怒りが生まれるのは、それはまだ、私たちが神様の愛で十分に満たされていない証拠です。そんな時にこそ、心を落ち着けましょう。悪霊に支配されないよう心したいものです。そして、神様に向かって心を開きましょう。私たち一人ひとりの心を、神様が愛で満たしてくださるよう祈りましょう。その祈りは必ずや聞きとどけられます。