日本キリスト教団常陸大宮伝道所

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 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

(ローマの信徒への手紙12 : 9-12 )

 2024年度の教会主題聖句はローマ12:12です。3回に分けて、この主題聖句を味わい、またその指し示すところを歩んで参りましよう。

 12節~21節には 「キリスト教的生活の規範」という見出しがつけられております。キリスト者としてどういう生活を送ったら良いか、ということが記されているわけです。 まず愛について語られています。

 偽りがあってはならない、兄弟愛をもって愛せ、また互いに相手を優れた者と思え、とあります。特に「相手を優れた者と思え」と言われると、正直な人ほど「うーん」と唸らざるを得ません。なぜなら私たちは、相手の長所を見つけるよりも、相手の短所にきづき自分を棚にあげて「この人がここを直せ…」なんて思いがちなのです。しかし、聖書の勧めは「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」です。長所を見出す訓練を自らに課して行く必要があるのですねぇ。

 また、「霊に燃えて、主に仕えなさい」とあります。「霊に燃える」と聞きますと、熱烈な聖霊派の教会を思い浮かべることでしょう。どちらかというと日本基督教団の教会は熱に浮かされることがなく、クールな教会だと思われるかもしれません。いえいえ。ペンテコステの出来事は私たちの教会でも起こりました。高齢であるにもかかわらず「弟子訓練」を受け、教会役員の責任を担っています。それこそ「主に仕える」のモデルです。

 また鐘つきや清掃などの奉仕も喜んでしています。隣の芝生ではなく、私たちの芝生も緑に覆われているのです。

> 霊に燃え、主に仕えるとき、私たちは希望をもって喜ぶことが可能になります。主がなしてくださることに期待できるからです。私が良く言うので耳ダコかも知れませんが、「他人に期待すると失望する。自分を見つめれば絶望する。しかし主を仰ぎ見れば希望が湧いてくる。」

 そうなんですぅ。私の母飛田知恵子がよく言っていたのは「鼻で息している者に頼っちゃだめよ」でした。「人間に頼るのをやめよ。鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザヤ書2: 22) 私たちはともすると見えるものに頼りたくなります。お金や財産を偶像化しがちです。しかし、神さまは「あってある者」として私たちに臨んでくださり、必要なものを与えてくださるのです。私たちはともすると「希望がみえてこない」と言います。(白内障の手術をして鏡に映る顔のしわやシミにビックリしても。) 確かに私たちの目には鮮やかに見えないかもしれません。また、うっかり「希望」ではなく「野望」を抱くあまり、それが実現しないと嘆くこともあります。私たちは主にあって希望することが可能であり、実現してくださるのは神さまです。お任せでいきましよう!

しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。

                                            (ヨハネ8:45-47)

イエス様とユダヤ人とのかみ合わない会話の続きです。自分たちの正義をアブラハムの子孫であることを根拠に主張するユダヤ人たち。それに対してイエス様はこう言われます。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。・・・」(42-43節)父なる神さまとイエス様との関係について、聞こうともしない、知ろうともしないユダヤ人たち。だから、イエス様も口を極めて、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしていない。」とまで言い切ります。対立の構図が見えてきます。

真理をよりどころにするには、イエス様を信じるほかないのです。

でも、それを拒んでいるユダヤ人たち。彼らの所属意識が問題になるのです。

ひところ、アイデンティティー(自分はどこに所属しているか)という言葉が流行りました。自分はいったい何者か、どこに立っているのか、それが問題だというのです。そこから「自分探しの旅」というのが始まり、目的地を見出せないまま、いまだに旅なかばという人までおりました。

さて。私たちはいったい何者でしょうか。どこに帰属しているのでしょうか。それを明らかにする為に、自己紹介では、まず名前を言います。年齢も明らかにする場合もありましょう。また自分がどこに住んでいるのかを言う場合もあります。しかし、重要なことは「私たちの本国は天にあります。」(フィリピ3:20)ということです。すなわち、主イエスの御言葉を聞いて信じる、神様に所属しているということになるのです。

> あんがい、このどこに属しているかをあまり考えずに日常生活を送っているのかもしれません。しかし、私たちキリスト者は「神に属する者」となり、それぞれの場に置かれています。そして置かれた場所にあって、花を咲かせ、豊かな実をみのらせる者とされているのです。

私たちは大事なことをあいまいにしてはいないでしょうか。「神に属している者としての自分」を大切にしていきたいですね。もちろん、キリスト者であることで八方ふさがりになってしまうこともあります。しかし、天窓は開かれています。そして、いつでも救いの御手が差し出されています。それを握り返せばいいのです。聞いて信じる者として生きましょう。

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。・・・」

(ヨハネ8:31-36)

 イエス様とユダヤ人とのかみ合わない会話。「真理はあなたたちを自由にする。」と聞いて、彼らは不自由=奴隷ととらえ「アブラハムの子孫たる我々はだれかの奴隷になったことはありません」と胸をはるわけです。イエス様がおっしゃる「罪の奴隷」ということには、とうてい考えが及ばないのです。父なる神様と子なるキリストとの関係についても思いもしないのです。主イエスが発する言葉にとどまる、すなわちイエス様を救い主として信じ、受けいれることをしません。殺そうとしているのです。

常陸大宮チャペル礼拝の最後に「派遣のことば」を牧師は宣言します。「安心して行きなさい。『わたしは道であり、真理であり、命である』とおっしゃられた主イエスが共にいてくださいます。主の道を共々に歩んでまいりましょう!」そして祝祷へと続きます。この派遣の言葉はヨハネ14:6のイエス様の言葉に拠ります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 だから真理はあなたたちを自由にする、という言葉を聞いて、真理=主イエスと置き換えれば、単純明快になります。私たちは意識している、いないにかかわらず、罪の奴隷であります。けれども、主はそういう私たちを憐れみ、その奴隷の鎖を断ち切って自由に生きられるようにしてくださいました。レントの期間、何度も「十字架、わが為なり」と賛美してきました。そしてイースターを喜び祝いました。主の復活を通して「死は終わりではない」ことを実感したことです。

私たちは、主イエスによって「罪の奴隷」から解放されて、自由人として生きるようになりました。そして信仰の対象をしっかりと見上げています。「ありがとう」と感謝しています。「信心」と「信仰」とは異なります。キリスト者でなくとも「信心深い人」はおり、その敬虔な姿勢は尊敬に値します。しかし、それはあくまで人間としての態度にかかっています。キリスト者の主に向き合う姿勢は様々かもしれません。でもしかクリスチャンも。けれども信じて仰ぐ方がどなたであるか、そしてそのお方がこの私を愛し、守り導いてくださることを信じ抜いています。自分の目で確認出来なくても「見ずして信じる幸い」を覚えています。ハレルヤ!

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

(ヨハネ21:17-19)

 復活なさったイエス様が、ペトロ達に会いに来た場面です。ペトロをはじめとする弟子達は先生がいらっしゃらないので、以前の仕事である漁師に戻って、漁をしておりました。ところがその夜は何もとれなかった、とあります。一生懸命に働いたのに収穫はなんにもない、そういうこともあるのです。つまずいたり失敗したりして無一物で帰って行かなければならない岸辺があります。その岸辺に主イエスは立っていてくださいます。私たちを迎えるために。人生には失うことによって初めて得ることが出来る出発点というものもあるのです。

けれども夜が明けた頃、岸辺にいた人が「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言うのです。そこで網を打つと、引き上げられないほど魚がとれました。この場面はルカ福音書5章の大漁の場面を思い起こさせるものです。そこで岸辺にいた人が、主イエスであることを弟子達は悟りました。そして主イエスはとれた魚で共に食事をしました。主は私たちを招いてくださり、日ごとの糧でもって養ってくださるお方です。私たちは、食べて満ち足り、安心して生きていけるのです。

その後、ペトロに質問を投げかけます。それも同じ質問を三度も!

ペトロが三度目に悲しんだのも、よくわかります。あの大祭司の庭で三度もイエス様を知らないと言い張ったのですから。しかし、主イエスはその罪を責めることをいたしません。ただ「わたしを愛しているか」とその一事だけを問います。救い主の受難、十字架、復活、あの一連の出来事は、まさしく躓くペトロのためであったことが分かっているならば、それで良いと言われるのです。本当に自分のしたこと、その弱い自分の為に主がなしてくださったこと、それらを分かっているならば、ただただ感謝するほかないのです。「主よ、感謝します!」その思いをもって、ペトロは羊を養うことが出来るのです。主を愛する人は、主から委ねられた他の人を養い育てることが出来るようになります。このイースター、私たちもまた主から託された羊がいることを覚えたいと思います。「主よ、あなたを愛し、託された羊を愛することが出来る者としてください。」と祈りましょう。

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

  (ヨハネ19:28-30)

 イエス様が十字架につかれて息を引き取られる場面です。しかし、ヨハネ福音書は他の福音書と違った書き方をしています。それは「渇く」という言葉です。これは詩編22:16の言葉の成就です。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」  苦難の僕としてのお姿です。イエス様は十字架の上で、私たちの罪のために渇いた者となってくださいました。御父に愛されたhとり子として栄光に満ちていた方が、渇きを味わったのです。このように苦しまれ、みじめな姿におなりになって私たちの罪の赦しを実現なされたのです。なんという恵み、なんという深い憐れみでしょう。

そしてまた「成し遂げられた」ともおっしゃいました。何が成し遂げられたのでしょうか?そう。主が十字架につかれたことで、決定的なこと、救いのみわざが成し遂げられました。私たちのすべての罪を御自分が背負い、御父のすべてのさばきを受けてくださったのです。それはそれは重い任務でした。ゲッセマネの園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈ったほどでした。傍らにいた弟子達はどうだったでしょう。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と主が言ったにもかかわらず眠りこけていました。そして逮捕の折には、主を見捨てて逃げ去りました。そういう弟子達の弱さ愚かさという罪も含めて、主は十字架についたのです。これほどの赦し、これほどの愛が他にあるでしょうか。

ヨハネ福音書10章で、主は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とおっしゃっています。また「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」と言明しています。一匹の迷いやすい羊ですある私たち。しかし主はこの私を覚え、愛し、慈しんでくださいます。迷わないように、囲いの中に入れてくださいます。迷った時には捜して見出してくださるお方です。2千年前に打ち立てられた十字架は、罪人のしるしでしたが、教会を通して救いのしるしに変わりました。十字架のそばに婦人たちが立っていました。苦しみ悩みのそばに身を置きそこから流れ出る慰めと恵みを受け取りました。「主よあなたの傍らにおいてください。」

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