日本キリスト教団常陸大宮伝道所

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「・・・わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

(ヨハネ8:29-30)

 

 イエス様を何とかして抹殺しようとする人々を相手に、イエス様は御自分がこれからなすべきこと、またイエス様を受け入れない人々が今後どうなっていくかをきっちりと語ります。主イエスは父なる神様が計画している贖罪のわざを終えたら、地上を去ります。そうなった時に捜してもイエス様は見つからない。そしてイエス様を信じなかったがゆえに、自分の罪の内に死ぬことになる、とまではっきりと言います。それから主が天に昇られてから、そこに来ることが出来ないことも。

 それに対して、イエス様を受け入れることが出来ず、おっしゃっていることを理解することが出来ない人々は「自殺でもするつもりなのだろうか」と言います。ユダヤ人たちの不信仰と無理解はここに極まります。その行き着くところは死です。彼らはイエス様のことばを聞いて「それではどうしたらいいのか」と真剣に考えなければならなかったはずです。しかし、イエス様の真意を知ろうともしませんでした。

 人間はその生き様において、「幸いな人」たりえるか、そうでないかが問われているようです。「この世に属している」限り、主を信じ、主と共にある喜びを味わうことは出来ません。損得勘定にとらわれてしまい、損する人生を「負け組」と思ってしまうからです。何ものにも代えがたい、主からの慰めと平安を受け取り損なってしまうのです。一見、損しているように見えるところに、実は主の憐れみが届き、主にある励ましを受けて立ち上がるという体験をしそこなってしまうのですねぇ。残念です。

 ここで主の「わたしはある」(24節)という言葉に注目して頂きたい。

これはイエス様の神性を現す言葉です。だから、イエス様を神様と等しい方として信じることがなければ、罪のうちに死ぬことになるというのです。

それに対してユダヤ人たちは「あなたはいったいどなたですか」と言います。これはイエス様が誰であるか知りたくて尋ねている質問ではありません。イエス様を主として認めようとしない心情から出た言葉です。それほどまでにかたくなであったのです。

 けれども、イエス様は御自分を主と認めず、受け入れようとしない人々の中にあっても、決してめげることなく御自身の使命を果たそうとしておられます。父なる神様が共にいてくださること。そして主ご自身が父なる神様の御心に適うことを行うことを明言しておられます。

 私たちもまた、主が共にいてくださることを覚えましょう。そして、主の御心に適うことが何かを祈ってわかり、それを行うことが出来たら、なんと幸いなことでしょう。主は信じる私たちを決して見捨てず、愛し、助け導いてくださるお方です。主を信頼して歩んで参りましょう。 

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

(ヨハネ8:12)


 光という言葉を聞いて、私たちはヨハネによる福音書冒頭の御言葉を思い起こします。  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
(ヨハネ1:1,4,5)
  イエス様がどういうお方であるか、を明確に示している御言葉です。
 イエス様こそ、すべての人を照らすまことの光です。世の光であるイエス様に従う時、私たちは決して闇の中を歩くことがありません。
 
  ここでも主みずから、ご自分を「世の光」と宣言しています。 もちろん、間髪いれずにファリサイ派からは批判がされています。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と。しかし真っ向から主は、反論しています。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。」と。イエス様はどこから来て、どこへ行くのでしょうか。御父のもとから来て、御父のもとへ行くのです。イエス様はいつも御父のみこころのうちにとどまっていました。ですから、自分の証言が真実であることを承知しておりました。
 
  イエス様に従おうとしなかったファリサイ派の人々は闇の中に留まり続けています。ある場合には暗闇の力が大きく感じられて、主に従うよりはその闇の中にまぎれてしまう方が楽そうだと思ってしまうかもしれません。それほどに闇の力に惹かれ、罪に溺れてしまう傾向は大きいのです。
 
  ある意味、私たちは深い闇の中に立っています。しかし、闇がすべてを覆いつくしているわけではありません。信仰は闇の中に一筋の光を見出しながら、前進します。闇の中に命に至る道が貫いているならば、既に闇は闇の力を失っているのです。希望の光が差し込んでいるからです。
  主は、山上の説教において、主イエスに従う人々に対し「あなたがたは世の光である。」(マタイ:14)と仰います。そしてその光でもって家中を照らしなさいと勧めています。私たちは「世の光」である主から光を頂き、それを人々の前に輝かせるようになるのです。  「わたしは世の光である。」と仰る方の言う事を真実に受け止めて、その方に従って、その方に自分の人生を賭けてみるほかないのです。 「主よ、あなたに従います。光の中を歩ませてください。」と日々祈って参りましょう。主は私たちが進むべき道を示してくださいます。

 あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

(ヨハネ8:7b-11)

 イエス様を陥れようと、姦通した女性が引っ張られてきました。モーセの律法においては「石打ちせよ」と定められていました。だから、「石で打ってはならない」とイエス様が言えば、律法に反するかどで告発できるでしょう。逆に「石で打て」と言えば、罪人に対する神様の憐れみを説いてきた教えと矛盾します。また石打=死刑を宣言することは、ローマ帝国が死刑の権限を持つという状況下では、ローマ帝国の権威に立ち向かうことになるわけです。いずれにせよ、イエス様は苦境におかれたのです。

 彼らの意図を知るイエス様は、最初関わろうとしないで、地面に書き物をしておりました。しかし、人々はしつこく迫ります。イエス様は身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。罪を犯した人に石を投げることはたやすいことかもしれません。正義感にかられて石を投げるのです。特に群衆心理が働くと、余計にそうなります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」

 けれども、イエス様はあえて一人一人に問うています。石を投げる前に、自分はそうした罪に本当に無関係かどうか吟味しなさいと。

 

 その結果、年長者から始まって、一人また一人と立ち去りました。最後にイエス様とこの女性とが残りました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、だれも」この会話の後で、主は宣言なさいます。「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」主はこの女性の罪を見て見ぬふりをなさったのでしょうか。いいえ。主はこの女性の罪を御自分で引き受けられたのです。そして、罪の赦しを宣言なさったのです。もう罪を犯すな、と言って解放なさったのです。これは、私たちにも向けられている主の憐れみに裏打ちされた言葉です。罪にふける生活に後戻りするな、と言われています。

 

 かえりみれば、私たちもまた罪に足をすくわれる愚かで弱い人間です。「罪に定めない」はまさに私たちに向けられています。「主よ、あなたが私たちの罪を引き受けて十字架にかかられたことを覚えます。主の深い恵みを味わい知ることが出来ますように。主の恵みに応えて生きていきます。」と日々祈ってまいりましょう。

 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。… 」

(ヨハネ7:6-7 )

 仮庵祭というのは、一年のすべての収穫、秋の果物や穀物がすべて収穫された時の収穫感謝祭です。その祭りの最初の日に朗読する聖書日課がゼカリヤ書14章でした。「見よ、主の日が来る」で始まり、3節で「主は進み出て、これらの国々と戦われる」とあり、9節では「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」とあります。

 イエス様の兄弟達がこの時こそチャンス!と思ったのも不思議ありません。多くの人々が集い、王たる者に関する聖書が読まれるこの時こそ、公に自らを現すよい絶好の機会であると。ユダヤ人の理解では、人間生活において今しなければならない、というチャンスが神様から定められている と思われていました。神様から授けられたチャンスに、それにふさわしい事をしなければ生き生きと生きることが出来ない、という考え方です。

 しかし、イエス様は「わたしの時はまだ来ていない」と言いました。 非常に明確な「時」の意識をお持ちでした。「これをするために、この時のために生きているのだ」という、非常に明確な人生目標というものを持っておられました。

 「わたしの時はまだ来ていない」 というのは、ただ単に「親切にありがとうね。でもおまえ達の言うように、都に上って群衆に公表するチャンスはまだだ。もうちょっと待ってほしい」というような単なるデビューの時ではないのですね。イエス・キリストには、十字架にかかり地上の生涯を終え、復活して天に昇るという人生目的がありました。その「時」が来るまで、都の人混みの中でデビューしようとも、どんなに大勢の人々に説教しようとも、本当の意味では公にはならないのです。イエス様が本当の意味で公になるのは、奇跡的しるしを行うことによるのではありません。世の悪を指摘し、世から憎まれ、世から殺される時に、イエスの「時」が訪れるのです。

 現代を生きる私達はこのところをどう読んで、私達の生き方に反映させたら良いのでしようか?厳しい事を申しますが、私達がこの世と同化しないこと、むしろ世の悪を指摘して、世から憎まれ抹殺されるほどに、それぞれの十字架を背負うことによって初めて、私達は公になります。証しが出来ます。ヨハネが示す信仰の芯であると言えましよう。

 

 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げが会ったので、別の道を通って自分たちの国帰って行った。

(マタイ2: 8-12)

 ユダヤの人々と同じように、星を観察していた東方の学者たちもまた、救い主の誕生を心待ちにしていました。だからこそ、その星を見て、わざわざ遠くからやってきました。エルサレムの王宮に行って「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」と訊きました。「王」ならば王宮にいるに違いない、とまずはそこを訪ねた訳です。しかし、王を始めとして、そこにいる人々は「救い主の誕生」には関心がありませんでした。だから学者達の「王うんぬん」の言葉には、不安をかきたてられるばかりでした。そして預言書を調べて、どうやらユダヤのべツレヘムらしい、というところまで突き止めました。ヘロデ王は自分の王座をおびやかす存在に脅威を感じました。だから亡き者にしようと考え、学者たちに「その子が見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう。」と言います。気づかずに過ちを犯す人がいる一方で、その意図を隠して悪を画策する人がいます。まるで良い事をするかのように偽って、悪事をなそうとした訳です。だから、幼子を礼拝した学者たちはお告げ通り、ヘロデのもとへ帰らず、自分たちの国へと帰って行きました。

 ここで救い主の誕生という場面で、人間は2通りに分かれることが示されています。何も持たない羊飼いたちにとって、救い主の誕生は「喜びの知らせ」そのものでした。しかしたくさんのものを持っていたヘロデ王は、それを失うことを恐れ、救い主の誕生にも不安を覚えています。富や権力などで救いの光がさえぎられています。私達はどうでしようか?救い主の到来で、自分の生活が変えられることを喜んでいるでしようか?

 また博士たちは、貴重な贈り物を携えてきました。王様のしるしとしての黄金、祭司が祈りをささげる時に使う乳香、また葬りの際に防腐剤として用いられる没薬、これらは主イエスのご生涯を現しています。王様として生まれ、神様と人間とをとりなす祭司としての働きをし、最後に死をもって生涯を全うすることが示されています。神様が意図した主イエスのご生涯そのものです。幼子を礼拝した博士たちは別な道を通って帰りました。

 私達の罪のために十字架にかかってくださったイエス様。博士たちと同じく、喜んで礼拝し、信仰を新たにしたいものです。主に出会って、それまでのように生きるのではなく、別な道を歩み出す。年の初めに、そのような信仰の決断をしたいものです。そして博士たちのように、大切なものをささげて生きる。また、ささげることを通して、不安ではなく安心を得て、喜んで生きていくのです。主はそれを望んでおられます。

 

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