わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あんたがたのだれかが、彼らに「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 (ヤコブの手紙2:14-17)
「信仰」は、自分の胸の中から「これ」と言って取り出せるものではありません。「私は信じています」と言葉によって告白する人はいるでしょう。というか、そういう人が多いことでしょう。あるいは、それが標準であるとも言えます。公同の礼拝において出席者が共に声を合わせて「使徒信条」などを告白するのは、まさに見えない信仰を言葉によって見えるようにしています。そして日常生活においてはそうした形だけではなく、もっと見せる形にすることが出来るかとここで問いかけられています。
「信仰を見せる」と言われ、私は「何を」「どういう風に」見せるか、と問われます。まず思いつくのは「信仰者としての姿勢」を見せる、ということではないでしょうか。常陸大宮は戦後のキリスト教ブームの時には茨城キリスト教学園に来ていた宣教師の訪問伝道で一時期、洗礼を受けたクリスチャンが誕生しました。しかし、伝道所が出来なかった為にいつしか「隠れキリシタン」となってしまいました。ですから、常陸大宮に開拓伝道をスタートさせてから、「隠れて」いた方々が姿を現し、小さな群れが形づくられました。若い時に洗礼を受けて長年経過していても、実質的な教会生活はこの20年ほどではないかと思われます。
その中で自分の「信仰者としての姿勢」を明らかにする、とはどういうことになるかと思いますか?まず、真っ先に自らの信仰を喜び示す、ということです。日々の生活の中で聖書に親しみ祈る。賛美する。その実践です。続いて明白に示せるのは「主日礼拝をしっかり献げる」ことになるかと思います。もし、そこが曖昧になっていますと、周りのノンクリスチャンの方々から「あなたの信仰って、そんな程度なのね」とみくびられてしまうかと思います。ある方は常陸大宮のメンバーになってから「日曜日に行事を組まないでね。私は教会に行くので参加できないから」と宣言したそうです。そしてその後、お付き合いしている方々からは「○○ちゃんは、クリスチャンだからしょうがない」とされて乗り切ってこられたと聞きました。あんがい私たちが忖度して相手に合わせる必要はないんですねぇ。
それから、今日の聖書の個所に示されているように「口先だけ」で行動をしないようにしたいものです。「助けて」の叫びに耳を塞がない。また助けの手が必要な時にすぐに手を差し伸べられるようにしたいものです。そして日々の祈りの中で主の守りと支えと導きを祈ってまいりましょう。