自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、ふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。
ヤコブの手紙 2:12~13
当時のユダヤ人たちにとって、律法は生活のルールであり、それを犯すことへの恐れが先立っていました。しかし「律法」は基本的に、神さまが「人間が幸せに暮らすために」定めたものなのです。だからこそ、本来の幸せをしっかりと味わうために、「律法を守る生活」があるのです。
さて。律法の代表格が十戒です。(出エジプト記20章)そして、それを主イエスはこうまとめています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイ22:37-40)ですから、余り悩むことはないのです。
けれどもヤコブは鋭く切り込んできます。「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。「分け隔てする」ことがここでも問題視されています。2章を読み始めている私たちはいかがでしょうか?
そして律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。いやぁ厳しいですねぇ。99点ではダメ出しされてしまっています。律法は、神さまと私たちを結びつける縦に伸びる鎖のようなものです。その鎖の輪の一つが切れては役に立たないのです。神さまのみこころのもとに私たちを導こうとする律法本来の役割を損ねてしまうのです。さらに11節で言われているように律法の一つ一つは有機的につながり、姦淫と殺人、盗みとも無関係ではないのです。
人間社会では殺人や盗みという行為は罰しますが、人の心の問題には踏み込みません。けれども神さまは人の心の中の思いまですべてご存じです。そして人の内面に潜む欲望こそが、外側の行為として現れる殺人や盗みの原因であることを知っておられます。欲望が主軸になってしまうのです。
一方、律法は神さまの祝福につながる最高の人生を指し示してもいます。律法の要求は過度の鍛錬を要求するかもしれません。けれども真摯に心を向けることによって、やがては人生における自由さを、一歩ずつ、少しずつですが、味わうことが出来るようになります。律法のもう一つの大きな役割は、「あわれみ」です。私たちが無遠慮に人を厳しく裁くなら、私たち自身も、真の裁判官である神さまから厳しく裁かれます。けれども、私たちが人に対して憐れみを示すなら、私たちも神さまから憐れみをもって扱って頂けます。裁きではなく、憐れみを示すこと、それこそが信仰者が身に着けるべきものでしょう。そうでないと、仲間を赦さない家来(マタイ18:21以下)になってしまいます。主イエスに救われた者として、自由をもたらす律法を確かな指針としてもつことが出来たら幸いです。