ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムに信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これでわかるでしょう。
(ヤコブの手紙2:20-22)
信仰は、私たちのうちに蒔かれた種のようなものです。取り出して見せることはできません。けれども行いとして芽を出し、やがて茎や幹として成長し、花や実を結べば、種が生きていたことがわかります。逆に芽を出さないで心の土の中に埋もれたままなら、最初から死んでいた種ではないか、と疑わざるを得ないでしょう。そのように、この手紙では、信仰と行いが対立的なものとして扱われているのではなく、行いが信仰を確認するものとして、言い換えれば「見えるもの」として教えられています。繰り返して言いますが、比較されているのは「行いと信仰」ではありません。まして救いの条件として「信仰と行いのどちらか」が問われているということではありません。「信仰を見えるものにする」為に、自己吟味が迫られているのです。現代を生きる私たちの課題でもあります。
ヤコブは嘆いています。「行いの伴わない信仰」で生きる空しさを。そして「行いを伴う信仰」の見本として、アブラハムとラハブを挙げます。
まずはアブラハム。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」(ヘブライ人への手紙11:17)とあるように、長い信仰の歩みの末にイサクを献げようとする行為によって、彼の信仰は「見えるもの」になったのです。彼は神さまを信じ、アブラハムの子孫がイサクから始まって続くという約束が実現されることをいささかも疑っていませんでした。いったん献げて、またイサクの命を受け取り直していきます。信仰が実を伴っていたのです。ヤコブはそれを「信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」と言っております。
次にラハブ。ラハブはエリコの町の住民でしたが、ヨシュアが、偵察に出した者たちを匿い、その結果イスラエルに加えられ、ダビデ王朝の先祖ともなった女性です。身分は「娼婦」となっていますが、神さまの御計画に組み入れられ、偵察者たちを匿って逃がすという大胆な行動に出ます。出エジプトの民に起きた奇跡の数々を知り、偵察者に対して「それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」(ヨシュア記2:11)すでに信仰の種が植え付けられていたことでしょう。その信仰が芽を出して現れるようになり、偵察者たちをかばうという目に見えるかたちになったわけです。
「魂のない肉体が死んだものであるように、行いの伴わない信仰は死んだものです。」(26節)対立するものでなく、行いと信仰は結びあいます。