わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
(ヤコブの手紙2:1))
「わたしの兄弟たち」とヤコブは呼びかけています。主の教会においては、皆が「神の家族」です。ですから教会の中で○○兄、××姉という呼び方がなされています。この頃はこういった教会独自の呼び方が、外から来た人にとって違和感を覚えるようだからと、普通に○○さんという呼び方に変わってきています。しかし、ここ常陸大宮伝道所においては、小さな群れであるがゆえに、ことさら「家族感」を大切にしたいと考え、その呼び方を続けています。
ところで、ヤコブが親愛をこめて「兄弟たち」と呼びかける際、必ずやその後に苦言が呈されます。1:19でも「よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」と、まさに耳に痛いことが言われています。今回も「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」と続きます。「イエス・キリストを信じながら」まぁ平たい言葉で言えば「クリスチャンのくせに」ということでしょう。これは、私たちの心にグサリと来ます。私たちもある時「あなたはクリスチャンのくせに」と言われてショックを受けたことがあるでしょう。また逆に言えば、世の中の人々が「敬虔なクリスチャン」という言い方にとらわれているからかもしれません。(特に「敬虔」とは見られない振る舞いに対しては言われてしまうのでしょう。)
ヤコブは主イエス・キリストを信じている者はどうあるべきか、率直に続けます。「人を分け隔てしてはなりません」そう。差別するべからず。
私たちはどうでしょうか?このところセクハラやパワハラ論議があって、かなり神経を使うようにはなりました。しかし、いまだに「性差別」「部落差別」という言葉が取りざたされ、ルッキズムの問題もあります。それほどまでに人は人を差別し、自分を優位に立たせようとします。私たちクリスチャンはイエス・キリストを主とする限り、十字架の形に倣う生き方を求められています。縦の棒は私と神さまの関係、横の棒は私たち人間のつながりです。そこには「仕える」「助け合う」ということがらはあっても、自分が主にとって代わる「上から目線」の生き方はありません。そして人を傷つける行為をしてしまうことが避けられるはずです。特に貧富の差に言及して、「見た目」にこだわらないように注意を喚起しています。
私自身、「分け隔てしない」という課題をしっかり受けとめたく思います。
貧富の差は、この手紙では繰り返し扱われます。教会の中にも貧富の差はあります。それは当然です。それぞれの賜物の違いもあります。けれども区別はあっても差別があってはならないでしょう。キリストを信じて救われ、神さまを礼拝する民である私たちの間で、基本的には信仰以外の判断材料があってはならないのです。主を主とする信仰に立ちましょう。