日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあべツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。

(ルカによる福音書2 : 1 0ー1 5 )

 天使の登場で戸惑うのが、野宿をしていた羊飼いたちでした。特に暗闇の中で、まばゆい光が周りを照らしたこともあって彼らは非常に恐れたとあります。そうですよね。ふだん起こらないことが起こっている!恐れるはずです。その羊飼いたちに、まず投げかけられた言葉が「恐れるな」でした。私達の日常生活に神様が介入しますと、ほんとビックリしますし、起こりえないことが起こると恐怖の念を抱きます。しかし、今回天使は「恐れるな。わたしは大きな喜びを告げる」と言います。それは何百年も待たれていた救い主、メシアの誕生でした。

 羊飼いをめぐり照らした光は、彼らを打ち倒すものではありませんでした。彼らを、そのありのままの貧しさにおいて包む光でした。救い主イエス・キリストの光でした。人間は救い主の光に照らし出されて、ある意味、罪の自分に気づかされて、そして救われるのです。たしかに露わに自分自身が照らし出されてしまうと、耐えがたい気もちにもなるものです。けれども、闇の中に輝く光として来てくださった方を、自分の暗さ、弱さ、愚かさを含めて私自身をよく知ってくださる方を受け入れていく時、救いが成っていくのです。

 この羊飼いたちのすばらしいところは、天使が告げたニュースにいち早く反応したことです。「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と。私達はともすると、グッドニュース(福音)を聞いても、あれこれ理由を言って、腰をあげずにいることがままあるのではないでしようか?本当はそうして神様の働きかけに反応すれば、現状打破が出来ることも知っていながら、闇の中に自分を閉じ込めておいてはいないでしようか。このクリスマスが本当の意味で喜びとなるためにも、羊飼いのように神様の働きかけに応答してみませんか。あなたの心の扉を、主はたたき続けてくれているのです。

 救い主の誕生は、二種類の人間を照らし出しました。喜ぶ人間と恐れる人間とです。富も地位も何一つ持っていない羊飼いたちは喜びました。その一方ですべてを持っていると思われるヘロデ王は恐れました。これだけは手放せないと握りしめているものが妨げになって、救いの光をさえぎっています。光の中を歩む一人一人になりたいものです。

 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊とカで主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

(ルカによる福音書1:13-17)

 最初のクリスマスに、神様からの知らせを天使から告げられたトップバッターは、祭司ザカリアでした。主の聖所で香をたく務めをしていた時、主の天使に出会います。彼は恐怖に襲われました。しかし「恐れることはない」と告げられます。なぜなら、天使は死の宣告ではなく、喜ばしい知らせを告げに来たからです。ザカリアとエリサベトに長年願っていても与えられなかった子どもが生まれるというのです!

 年老いた夫婦に、常識では考えられないヨハネの誕生です。興味深い事に、ザカリアという名前には「主は覚えておられる」との意味があるそうです。老夫婦のことを覚えておられた主は、二人の願いを聞き入れ、生まれてくる子を通してご自身のみわざをなそうとされたのです。

 またヨハネとは「主は恵み深い」との意味であり、まさに主の恵みの新しい時代の幕開けを告げるにふさわしい名前でありました。

 ヨハネの役割は①多くのイスラエルの子らを神に立ち帰らせる。②エリヤの霊とカで主イエスに先立って行く。③逆らう者に正しい人の分別を持たせる。④準備のできた民を(悔い改めのバブテスマによって)主の為に用意する。ということでした。しかし、ザカリアは神様の壮大なご計画を理解出来ません。素直に「信じます」と言えず、「何によって、私はそれを知ることができるのでしようか」と「しるし」を求めました。そこで、神様は彼に「ロがきけなくなる」というしるしが与えられたのです。

 月が満ちて、エリサベトは男の子を産みます。そしてヨハネと名付けられました。ザカリア夫妻に起こった一連の出来事は、人々の心に神様への畏敬の念を抱かせました。主に従い通したザカリア夫妻に不思議で偉大なみわざは行われたのです。ザカリアは沈黙を強いられました。言い訳したり、「大変だ」と愚痴るのも出来なかった時に、神様の言葉だけが心に響き、自分の選び取る道が示されました。その道を進む決心に導かれました。

「主の成し遂げられるのを仰ぎ見よう。」(詩編46:9)

 私達はときどき約束を忘れたりします。また約束しても力不足でそれを果たせないことがあります。しかし、神様はご自身の約束と計画を覚えておられ、必ず成就させる力あるお方です。主の真実はゆるぎないのです。主を信頼し、自分自身をゆだねて生きていく。そういう者になりましよう。

 

 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、……

サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイをエッサイはダビデ王をもうけた。

ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、……

ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

(マタイ1 : 1-1 7抜粋)

マタイ福音書冒頭のイエス・キリストの系図です。系図は旧約聖書になじみのない人にとっては、退屈きわまりないものです。しかしイスラエルの人々は系図を大切にしてきました。自分たちの民族から、将来救い主が誕生すると予告されていたため、部族や家系を重んじていたのです。

だから、マタイ福音書の最初の読者であるイスラエル人に向けて、イエスがアブラハム、ダビデから続くイスラエルの本流に属するお方であり、救い主であることを伝えようとしたのです。

この系図の特徴は、通常古代の系図に記されない女性の名前が挙げられていることです。5名の女性のうち最初の4名には、それぞれに有名なエピソードがあります。

3節のタマル。彼女は子孫の残すために策略を立て、義理の父ユダとの間に子をもうけました。(創世記38章)

5節のラハブ。異教の町エリコに住む異邦人で遊女でしたが、まことの神様への信仰と功績によりイスラエルの民に加わり、ダビデの先祖となりました。(ヨシュア記6章)

同じく5節のルツ。ルツ記に記されてありますように、異邦人でしたがその信仰と高潔な生き方により、イスラエルの一員となりダビデ王の先祖となりました。

6節のウリヤの妻。ウリヤの妻とはバトシェバのことです。ダビデとの不倫関係を思い起こします(サムエル記下11章)。

このように4人の女性たちには特殊な事情がありました。この系図から見えてくることは、男女を問わず、人間の弱さや罪、過ち、悔い改めと信仰、そしてそれを覆う神様の忍耐やあわれみと恵みを読み取ることができます。

神様はこうした人間の世界に、救い主を遣わしてくださいました。救い主は5番目に挙げられた女性マリアからお生まれになりました。ダビデの家系から救い主が生まれます。神様はそのお約束を実現なさるお方です。

私たちもまた、約束を実現なさる神様を信頼し、生きていきましよう。

 

 だからこう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を敵しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」もし人の過ちを敵すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

(マタイによる福音書 6:9-15)

「主の祈り」の3回目です。今日は「我らに罪を犯す者を我らが敵すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈る「赦し」の課題をしっ かりと受け止め、それを解決してまいりましょう。

キリスト教の本質は「愛と赦し」です。「赦し」が実行出来たら、 素晴らしいし、幸せですね。まず、「敵す」ことにおいて私たちはこだわりがなくなります。すると生きていく上で楽になるんですねぇ。「どうしても赦せない」と思っているうちは、心が重く、閉じ込められた状態になっています。 赦すことで、そこから解放されて明るく生きていけるのです。

では、どうしたら赦せるようになるのでしょうか。それは二宮幸雄牧師の言い方をそのまま引用すると「自分の物差しを捨てる」ことです。自分がしっかりと「自分の物差し」を手にして相手を測ることで、「足らない」とか「突出している」と裁いているのです。そして、あんなことをしているなんて、どうしても赦せない!となるわけです。しかし、その物差しを思い切って捨てる、あとは神様にお任せする。そうすると理不尽に思えたことも、そう だ、後は神様にゆだねていきゃあ良いんだとなります。どうぞ一度なりとも、自分の物差しを捨てて「神様任せ」にしてみてください。身も心も軽くなること、請け合います。自己中からの切り替えを!

主イエスご自身「赦し」をなさいました。ルカ福音書23章34節をご覧ください。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

ここに「愛と赦し」があります。私たちにはなかなか到達しえない境地かもしれません。しかし「イミタチオ・クリスティ」(キリストにならいて)キリストに倣う、その一歩一歩が大切です。それは主が望まれることですし、光射す道になるのです。赦しましょう!!

いいのです。聞いて信じる者として生きましょう。

   いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

        (テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:16-18)

 

 若かった40代の頃、牧師でありながら「本当にこんなふうに生きられるか!」と思った聖句であります。そこには信仰をダメにする3D(だって、でも、どうせ)が働いていた気がします。

 だって、こんな状況なんだから、喜ぶなんて言ってられないよ!

 祈るというけど、でも静まって祈る時間など、忙しくて取れないよ!

 どうせ、感謝感謝なんて口先ばかりじゃぁない?ほんと偽善的よ!

という具合でした。この3Dに支配されると信仰は袋小路に入ってしまいます。あくまでも自己中心そのもの、神さまとの繋がりを重んじない姿勢です。

 それを打開するには、どうしたらよいでしょうか?自己中心の枠組みからいち早く抜け出るのが、最速最善ですが、なかなか出来そうで出来ないんですねぇ。3Dに代わる言葉を用いてみたらいかがでしょうか。

  だって→ だからこそ

  でも → それなら 

     どうせ→ どうせなら

 

 状況は変わらない。だからこそ、その状況をとらえなおす。辛い、しかしこれは主が与えた試練なのだと。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

(ヘブライ人への手紙12:5-6)

 でも、と言い逃れせずに「それなら」祈るチャンスを作る。模範的な祈りの姿勢をとれなくても、直訴のような叫びの祈りでいいのです。どこにいても祈りましょう。神さまはどこにでもおられます。

 「どうせ」を一歩進めて「どうせなら」神さま繋がりを最大限に利用することです。感謝するというギリシャ語ユーカリステォーは「神さまの恵みを見つける」という意味の言葉です。神さまの恵みは、日々の生活の中で、あふれるばかりに存在しています。しかし、自分中心で神さまに向き合おうとしないと、それが見えません。神さまは私たちを罰しようとするのではなく、私たちの幸せを望んでおられます。

 いつも喜ぶ、絶えず祈る、どんなことにも感謝する。私たちが自らに固執してしまうのでなく、罪の自分に死んで、キリスト・イエスにおいて生きようとする時、その生き方が可能になります。生をうけて72年、クリスチャン歴54年、伝道者になって44年、今を生きる私自身の実感です。

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