日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。・・・」

(ヨハネ8:31-36)

 イエス様とユダヤ人とのかみ合わない会話。「真理はあなたたちを自由にする。」と聞いて、彼らは不自由=奴隷ととらえ「アブラハムの子孫たる我々はだれかの奴隷になったことはありません」と胸をはるわけです。イエス様がおっしゃる「罪の奴隷」ということには、とうてい考えが及ばないのです。父なる神様と子なるキリストとの関係についても思いもしないのです。主イエスが発する言葉にとどまる、すなわちイエス様を救い主として信じ、受けいれることをしません。殺そうとしているのです。

常陸大宮チャペル礼拝の最後に「派遣のことば」を牧師は宣言します。「安心して行きなさい。『わたしは道であり、真理であり、命である』とおっしゃられた主イエスが共にいてくださいます。主の道を共々に歩んでまいりましょう!」そして祝祷へと続きます。この派遣の言葉はヨハネ14:6のイエス様の言葉に拠ります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 だから真理はあなたたちを自由にする、という言葉を聞いて、真理=主イエスと置き換えれば、単純明快になります。私たちは意識している、いないにかかわらず、罪の奴隷であります。けれども、主はそういう私たちを憐れみ、その奴隷の鎖を断ち切って自由に生きられるようにしてくださいました。レントの期間、何度も「十字架、わが為なり」と賛美してきました。そしてイースターを喜び祝いました。主の復活を通して「死は終わりではない」ことを実感したことです。

私たちは、主イエスによって「罪の奴隷」から解放されて、自由人として生きるようになりました。そして信仰の対象をしっかりと見上げています。「ありがとう」と感謝しています。「信心」と「信仰」とは異なります。キリスト者でなくとも「信心深い人」はおり、その敬虔な姿勢は尊敬に値します。しかし、それはあくまで人間としての態度にかかっています。キリスト者の主に向き合う姿勢は様々かもしれません。でもしかクリスチャンも。けれども信じて仰ぐ方がどなたであるか、そしてそのお方がこの私を愛し、守り導いてくださることを信じ抜いています。自分の目で確認出来なくても「見ずして信じる幸い」を覚えています。ハレルヤ!

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

(ヨハネ21:17-19)

 復活なさったイエス様が、ペトロ達に会いに来た場面です。ペトロをはじめとする弟子達は先生がいらっしゃらないので、以前の仕事である漁師に戻って、漁をしておりました。ところがその夜は何もとれなかった、とあります。一生懸命に働いたのに収穫はなんにもない、そういうこともあるのです。つまずいたり失敗したりして無一物で帰って行かなければならない岸辺があります。その岸辺に主イエスは立っていてくださいます。私たちを迎えるために。人生には失うことによって初めて得ることが出来る出発点というものもあるのです。

けれども夜が明けた頃、岸辺にいた人が「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言うのです。そこで網を打つと、引き上げられないほど魚がとれました。この場面はルカ福音書5章の大漁の場面を思い起こさせるものです。そこで岸辺にいた人が、主イエスであることを弟子達は悟りました。そして主イエスはとれた魚で共に食事をしました。主は私たちを招いてくださり、日ごとの糧でもって養ってくださるお方です。私たちは、食べて満ち足り、安心して生きていけるのです。

その後、ペトロに質問を投げかけます。それも同じ質問を三度も!

ペトロが三度目に悲しんだのも、よくわかります。あの大祭司の庭で三度もイエス様を知らないと言い張ったのですから。しかし、主イエスはその罪を責めることをいたしません。ただ「わたしを愛しているか」とその一事だけを問います。救い主の受難、十字架、復活、あの一連の出来事は、まさしく躓くペトロのためであったことが分かっているならば、それで良いと言われるのです。本当に自分のしたこと、その弱い自分の為に主がなしてくださったこと、それらを分かっているならば、ただただ感謝するほかないのです。「主よ、感謝します!」その思いをもって、ペトロは羊を養うことが出来るのです。主を愛する人は、主から委ねられた他の人を養い育てることが出来るようになります。このイースター、私たちもまた主から託された羊がいることを覚えたいと思います。「主よ、あなたを愛し、託された羊を愛することが出来る者としてください。」と祈りましょう。

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

  (ヨハネ19:28-30)

 イエス様が十字架につかれて息を引き取られる場面です。しかし、ヨハネ福音書は他の福音書と違った書き方をしています。それは「渇く」という言葉です。これは詩編22:16の言葉の成就です。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」  苦難の僕としてのお姿です。イエス様は十字架の上で、私たちの罪のために渇いた者となってくださいました。御父に愛されたhとり子として栄光に満ちていた方が、渇きを味わったのです。このように苦しまれ、みじめな姿におなりになって私たちの罪の赦しを実現なされたのです。なんという恵み、なんという深い憐れみでしょう。

そしてまた「成し遂げられた」ともおっしゃいました。何が成し遂げられたのでしょうか?そう。主が十字架につかれたことで、決定的なこと、救いのみわざが成し遂げられました。私たちのすべての罪を御自分が背負い、御父のすべてのさばきを受けてくださったのです。それはそれは重い任務でした。ゲッセマネの園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈ったほどでした。傍らにいた弟子達はどうだったでしょう。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と主が言ったにもかかわらず眠りこけていました。そして逮捕の折には、主を見捨てて逃げ去りました。そういう弟子達の弱さ愚かさという罪も含めて、主は十字架についたのです。これほどの赦し、これほどの愛が他にあるでしょうか。

ヨハネ福音書10章で、主は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とおっしゃっています。また「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」と言明しています。一匹の迷いやすい羊ですある私たち。しかし主はこの私を覚え、愛し、慈しんでくださいます。迷わないように、囲いの中に入れてくださいます。迷った時には捜して見出してくださるお方です。2千年前に打ち立てられた十字架は、罪人のしるしでしたが、教会を通して救いのしるしに変わりました。十字架のそばに婦人たちが立っていました。苦しみ悩みのそばに身を置きそこから流れ出る慰めと恵みを受け取りました。「主よあなたの傍らにおいてください。」

>シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が行った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

(ヨハネ18:25-27)

 イエス様が捕まり、大祭司のもとに連行されました。いったんはイエス様を見捨てて逃げ去ったペトロでしたが、心配になって様子を見に行きました。大祭司の屋敷の中庭に入り、火にあたっていましたら、ペトロを見知っていた人たちから「あの人の弟子の一人ではありませんか」と指摘されて、あわてて「違う」と否定しました。こういうやり取りが三度もありました。そして、三度目に「違う」と否定した時に、鶏が鳴いたのです。これはペトロを決定的に打ちのめすことになりました。

なぜなら、ペトロは最後の晩餐の折に、イエス様にどこまでもついて行くと豪語した時に、イエス様から「あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われていたからです。

「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と言ったペトロに対して、イエス様は「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(ヨハネ13:37-38)

追い詰められて、「知らない」を三度も繰り返したペトロ。彼の弱さが露わにされるところです。主イエスと一緒なら死んでもいいとまで言っていたペトロ。その剛胆さ、言い切った思い、それはペトロが自分自身を過信していたことに他なりません。往々にして、思いや感情に溺れて、私たちはつまずくのです。ペトロはそういう意味で、わかりやすい見本です。

いかがでしょう。頼るべきはこの私ではなく、主なのです。それが分かっていなかったのですねぇ。ペトロの失敗を私たちは他人事として笑うことは出来ません。「主を主とする」ことをないがしろにして、自己中で生きようとすると、私たちもまた、足をとられてつまずいてしまうでしょう。しかし、ペトロはこの失敗を通して、主の深い愛と憐れみを覚えることが出来ました。三度にわたって主を知らないと言ったペトロを主は見つめられます。(ルカ22:61)振り返って、慈しみのまなざしをかけられます。ペトロはこらえきれずに泣きました。そしてここから新しく生き直すことが出来ました。主はペトロの挫折を予告しました。同時にそのペトロの為に祈られました。(ルカ22:32)ペトロは自ら覚醒して再起したのではありません。主イエスの祈りによって支えられ、立ち上がることが出来たのです。そしてつまずいたペトロだからこそ「兄弟たちを力づける」ことが出来るのです。何という恵み、何という喜び。

 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。・・・イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

                                            (ヨハネ12:3、7)

 

 マルタとマリア、そして生き返ったラザロの家を訪れたイエス様。食事の席につかれた時に、マリアがイエス様の足に香油を塗り、自分の髪でその足をぬぐった、とあります。家は香油の香りで満ちたとのこと。そのかぐわしい様を想像してみてください。

 しかし、この行為を非難する人もいました。それはイスカリオテのユダでした。高価な香油を無駄に(!)流すのでなくて、それを売って貧しい人々に施すのが有益だというのです。金銭感覚の鋭い、ユダならではの発言です。確かに三百デナリは、ざっと換算して三百万円ほどになります。しかし、良識とも思えるこの考えですが、実はその裏があることをヨハネは言及しています。ユダが会計をしながら、その中身をごまかしていたことです。そして、ユダは損得勘定をした結果、後にイエス様を銀貨30枚で裏切ります。優先順位がお金だという人あるあるですねぇ。

 損得という天秤にかけて物事を考えてゆくならば、信仰の生活は、たぶん損ということになるでしょう。ささげながら、損をしながら得てゆくもの、それが信仰です。ささげることによって、あえて損をすることによってしか得られない豊かさがある、ということを味わい知らなければ、一切は無益でしょう。

 

 一方、イエス様はこのマリアの行為を喜んで受け取りました。彼女がこの先、イエス様が十字架にかかられて命を落とし、葬られることをどれだけ予想していたか、明らかではありません。むしろイエス様を敬愛し、素晴らしいプレゼントとしてナルドの香油をささげたのです。今、この時に献げよう、そう思って行動に移したのです。千載一遇のチャンスを逃さなかった大胆な行為です。

 十字架への道の途上にあったイエス様にとって、まさにご自身の埋葬の備えとなりました。貧しい人々への施しはいつでも出来ます。けれども主イエスに対する愛と献身を表明することは、先延ばしせずに、今すべきなのです。人それぞれにその表明方法は異なるでしょう。それがどんな方法であろうとも、決して無駄ではなく、主イエスの目には高価で尊く、喜びそのものなのです。

 もう一度きちんと考えてみましょう。私が、イエス様のために、今、ささげることが出来るものは何だろうか、と。そしてそれが分かったら、喜んでささげたいと思います。「主よ、ささげて生きる幸いを感謝します。」

 

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