日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はいなかった。さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。


(ヨハネ 7:43-46)

 

 イエス様をめぐっては、人々の間でいろんなことが言われました。「あの預言者だ」とか「この人はメシアだ」とか。また「メシアはガリラヤから出るだろうか。」と疑問が出され、人々の間で対立が生じた、とあります。
 イエス様が何者か、ということは主イエスの復活と昇天を経て、初代教会の群れが信じて仰ぎ、またペンテコステの出来事を通して確信が与えられ、伝道が展開されていったことにより、2千年の時を経た私たちには、自明のことであります。使徒信条によって信仰する内容が明確に現され、復活の主イエスに対しては「わが主よ、わが神よ」という信仰告白がなされています。
 しかし、生前のイエス様に出会った人たちには「この人はいったい誰なのか?」という疑問がわきおこっていました。福音書を読み進めていきますと、イエス様を中心として同心円で現されるような人間模様があることがわかってきます。中心にイエス様、その周りに弟子達、またその周りに群衆といった人々の構図があります。それに対して、イエス様を快く思わない祭司長・ファリサイ派という集団があります。それはイエス様を中心とする円には組みこまれない人たちです。イエス様が人々を驚嘆させるような知恵ある教えを語ったり、奇跡を行ったりすることで、その対立の構図はいちだんと激しさを増します。「悔い改めよ、神の国は近づいた」と促されても、耳を閉じて聞こうとしない宗教者、それも特権階級に属する人たちがいたんですね。自分を保持して、神様の働きかけに対して心組みを変えようとしない人たち。主イエスはそれらの人々の捕縛しようとする策略をかいくぐって来ました。まだ「主イエスの時」が来ていないから。


 一方において祭司長やファリサイ派の下役たちは、むしろ心が柔軟であったようです。「イエスを捕らえる」という目的を託されて来てみたけれど、???手をかけることは出来ませんでした。むしろ、イエス様のそば近くに来て、話を聞くに及ぶと「ひょっとしてこの人がメシアかも」という思いに変えられていきます。それは彼らの祭司長たちへの答えの中に現れています。「今まで、あの人のように話した人はいません」イエス様を知れば知るほど、心が砕かれ、メシアかと思うほどになったのです。これはすごいことです。律法を守っていると豪語していたファリサイ派の学者たちよりも、純粋にイエス様の語ったことに心砕かれ、手をかけることをしなかった下役たちに柔軟な姿勢があります。「打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)とある通り。

 渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。

(詩編96:1-2)

 

 仮庵祭りの後半に登場したイエス様に対して、人々は論議します。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。・・・議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、・・・メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」などなど。イエス様の登場はそれほど衝撃的であり、捕らえようとしたが、手をかける者はいなかったとある通り、「主イエスの時」はまだ来ていなかったのです。けれども人々の心には「メシアが来られても、この人より多くのしるしをなさるだろうか」との思いも出てきました。

 

 イエス様を快く思わない祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエス様を捕らえるために下役たちを遣わした、とあります。その時もイエス様は人々を煙に巻くような言葉を発します。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と。え!見つけることがない、とはどういうこと?と混乱します。

 

 しかし、そういう人々を前にしてイエス様は声を大にして、招きます。聖書に書いてあるとおり、ということではゼカリヤ書14:7-8を御覧ください。「ただ、ひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなくタベになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。」旧約聖書に記されていることが、今、主イエス・キリストにおいて実現しているのです。主のもとに招かれて進み出るとき、私たちは生きた水が川となって、流れ出る体験をするのですね。これはまた、イエス様を信じる者が受ける聖霊のことを言っています。だれでも、イエス様のもとに来るなら、例外なく、この御言葉の約束が実現します。

 

 あなたがこの聖霊のいのちを経験するために、妨げになっているものは何でしようか。私は今回自分の身体の不具合を経験していろんなことを考えさせられました。2/1に横浜行きの予定を組み、早割高速バスチケットも購入しました。しかし歩くことすら出来なくなって、予定が狂いました。新しい状況下におかれて、ベストを尽くして対応するしかない、と思いました。焦らず、急がず、無理をしないで、一歩一歩を踏み出すしかないと思いました。また何とかしなきゃ、と頑張るのでなく、周りの人に甘えて頼ることの大切さを知りました。心組みを変える必要があったのです。
 イエス様は弱い私たちを承知で招いてくださっています。だから信じる者の幸いを覚えましよう。「イエス様、あなたの聖霊のいのちの豊かさを私に経験させてください」と祈り続けていきましよう。

新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。

(詩編 9 6 :1ー2)

 

 今年度の教会主題聖句をもう一度取り上げて、深く味わいたいと思います。今年は賛美を中心テーマにして、教会生活を展開してきました。幸いにコロナ禍も収束の傾向を見せており、私達の礼拝が高らかに賛美しても大丈夫!というようになりました。


 その中で今回、あるキリスト教関係の先生の言葉が心にとまりました。
「キリスト教は歌う宗教だ」というのです。なるほど、と思いました。その先生は続けてこうもおっしゃっていました。「なぜなら、キリスト教はゆるしの宗教であり喜びの宗教だからです。どこまでいってもエゴイズムの虜である私達を、主は赦してくださり、そのままでよいからわたしのところに来なさい、と招いてくださっているのです。これほどの喜びはありません。」そうなんですよねえ。主の赦しがあるから生きられる!これが実感出来るとふつふつと喜びがわき上がってくるんですね。だからその先生は「私達のような人間が神に愛されている、その喜びがあふれ出て歌になるのです。だから歌わないのはキリスト教ではありません。」と。


 私達の群れは喜び、賛美の声高らかにあげているでしょうか。もちろん年齢的なものもありますから、若い方々のように声張り上げて歌うとは、いかないのかもしれません。しかし、確実に救いの喜びを味わった者だけが経験する、心からの賛美はそれぞれのレベルにおいてしていると言い切れることでしよう。同じ詩編に「主を賛美するために民は創造された。」(詩 102:19 )とあります。神様が第一にお喜びになるわざが「賛美」なのです。幸雄牧師が生前「私の苦手は悪魔とおたまじゃくし」と言っておりました。自分が音痴でダミ声なのを気にしていたんですね。牧師仲間には美声で朗々と歌い上げる方々がいますので、そんなことを感じていたようです。しかし、私達は幸雄牧師の信仰に裏打ちされた説教を聞いて、カづけられたのも事実です。キリストに倣おうと努力していたことも知っています。だからプロの声楽家ならいざ知らず、プロのキリスト者として心からの賛美を献げたら良いのです。少々音程を外そうとも、イエス様に出会った喜びが賛美の原動力になっていれば良いのです。自分など神様から愛されるに値しない者だけれども、神様に覚えられ愛されている。この愛があるから大丈夫。ベトロなどイエス様を3度も否定したけれども、赦されて再び伝道へと遣わされていきます。すんばらしい主イエスの愛というキャンプソングがあります。主の愛は深く広い。それを歌います。


 この小さな群れですけれども、赦しがあり喜びが湧き出す時、地上における神の国となっているのです。主の十字架を仰ぎ見て、賛美しましょう。

祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。

               (ヨハネ 7:14-18)

 

 行かないと言っていたイエス様でしたが、兄弟たちが仮庵祭に上って行ったあとで、隠れるようにして祭りに行かれました。それが父なる神様の御心だと分かったからです。そして祭りの後半で、神殿の境内において教え始められました。イエス様の教えの素晴らしさにユダヤ人たちは驚愕します。「この人は学問したわけでもないのに」とまで言います。ラビの学校に行っていないのにもかかわらず、と。 ここに現代の私達にも通じる、「見かけで判断する」誤りが見受けられます。〇〇学校の出身とか、××企業に所属しているとか、外見や経歴で判断してしまう傾向がある訳です。
しかし、人の思惑を超えて、イエス様はおっしゃいます。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」人に評価されて天狗になるのではなく、自分自身を誇示するのではなく、
「わたしをお遣わしになった方の教え」であると言うのです。あくまで父なる神様との関係を重視し、自分の発する言葉がその方に依ることを強調しているのです。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」イエス様の謙虚さ、すなわち父なる神様に栄光を帰すことが明確です。
「真実な人」とは、どういう人を言うのか。私達が生きる基本です。礼拝で歌っている讃美歌280番は、主イエスのお姿をしつかりと歌い上げています。イミタチオ・クリスティ(キリストに倣いて)と何度か聞いてきました。また幸雄牧師が生きる基本線としてきたところです。私達はその姿を見聞きし、イエス様のごとく生きられたらいいなあとも思います。
それが真実となるには、どうすれば良いのでしようか。実は、「ステキ!」と憧れる、次の段階が大切なのです。「真実な人」でありたい、ならばそうなるように意志をもって始める、それが必須なのです。
こでもイエス様は律法や安息日厳守という形にこだわり、真実をないがしろにしている人々を糾弾します。うわべにこだわり、大切な本質の部分が押しやられてしまっている、その愚かさを指摘します。「正しい裁き」がなされるように願っています。主の御姿に我が身を映してみませんか。

 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。… 」

(ヨハネ7:6-7 )

 仮庵祭というのは、一年のすべての収穫、秋の果物や穀物がすべて収穫された時の収穫感謝祭です。その祭りの最初の日に朗読する聖書日課がゼカリヤ書14章でした。「見よ、主の日が来る」で始まり、3節で「主は進み出て、これらの国々と戦われる」とあり、9節では「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」とあります。

 イエス様の兄弟達がこの時こそチャンス!と思ったのも不思議ありません。多くの人々が集い、王たる者に関する聖書が読まれるこの時こそ、公に自らを現すよい絶好の機会であると。ユダヤ人の理解では、人間生活において今しなければならない、というチャンスが神様から定められている と思われていました。神様から授けられたチャンスに、それにふさわしい事をしなければ生き生きと生きることが出来ない、という考え方です。

 しかし、イエス様は「わたしの時はまだ来ていない」と言いました。 非常に明確な「時」の意識をお持ちでした。「これをするために、この時のために生きているのだ」という、非常に明確な人生目標というものを持っておられました。

 「わたしの時はまだ来ていない」 というのは、ただ単に「親切にありがとうね。でもおまえ達の言うように、都に上って群衆に公表するチャンスはまだだ。もうちょっと待ってほしい」というような単なるデビューの時ではないのですね。イエス・キリストには、十字架にかかり地上の生涯を終え、復活して天に昇るという人生目的がありました。その「時」が来るまで、都の人混みの中でデビューしようとも、どんなに大勢の人々に説教しようとも、本当の意味では公にはならないのです。イエス様が本当の意味で公になるのは、奇跡的しるしを行うことによるのではありません。世の悪を指摘し、世から憎まれ、世から殺される時に、イエスの「時」が訪れるのです。

 現代を生きる私達はこのところをどう読んで、私達の生き方に反映させたら良いのでしようか?厳しい事を申しますが、私達がこの世と同化しないこと、むしろ世の悪を指摘して、世から憎まれ抹殺されるほどに、それぞれの十字架を背負うことによって初めて、私達は公になります。証しが出来ます。ヨハネが示す信仰の芯であると言えましよう。

 

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