メッセージ
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
(ヨハネによる福音書14:1-7)
弟子たちの目前にあったのは、ユダの裏切り、そしてイエス様の十字架の死でした。しかしイエス様は、この死を通して、御父のもとへ弟子たちの(そして私たちの)場所を備えに行くのでした。イエス様は天に住まいを確保されたばかりでなく「戻って来て」、私たちの天への歩みを支えてくださるのであります。天にあって私たちを待っていてくださるというのでなく、私たちのところまで来て、永遠の住まいへと共に歩んでくださるのです。何という幸い!何という恵み!!
トマスが質問します。「どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエス様のお答えは「わたしは道であり、真理であり、命である。」常陸大宮礼拝の最後に「派遣祝祷」を献げます。その言葉はここに拠っています。イエス様こそ、私たちを御父に導く道であり、御父を教える真理であり、罪から救う命です。イエス様以外に私たちを御父のもとに導く方は他にいません。そしてまた、イエス様はここで、御自分と御父との特別な関係を証ししています。イエス様と御父は一つなのです。(ヨハネ10:30)だからこそ、「いや、既に父を見ている。」とまで言い切るのです。
私たちの信仰生活の軸は、今まさに正面に見ている十字架です。父なる神さまの救いの計画により、独り子なるイエス様がこの地上に遣わされました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)その神さまのみこころが、これから成就されようとしています。また「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31)とイエス様が言われたように、イエス様こそ真理なのです。そしてヨハネ17:3の祈りには「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。イエス様は私たちを導き、共に歩んで下さいます。
シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
(ヨハネによる福音書13:36-38)
「主よ、どこへ」というペトロの問いに、主は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と答えられます。「なぜ、今」はダメなのでしょうか?それは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と主が言われるほどに、ペトロはあまりにも、もろい罪人だからです。そのペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と言うのです。ペトロの粋がる気持ちに対して、主はその弱さ罪深さをご承知であえて「鶏が鳴くまでに・・・」と言われました。キツい告知のように聞こえます。しかし主は、信仰の歩みが私たちの覚悟や力でないことをよくご存じでした。まず主イエスご自身が、ペトロの為に命を投げ捨て、ペトロの為に十字架にかかって贖いの死をとげなければ、ペトロは何も出来ない人間なのです。主が極みまで愛し通された愛によって支えられているのです。私たちもまた、それに気づく者でありたいと願います。
そういう意味で、「今はついて来ることは出来ない」けれども「後でついて来ることになる」のです。主が十字架におかかりになり、復活されるその時になったら、彼はついてくることの出来る者に造り変えられるのです。これはヨハネ福音書21章のガリラヤ湖畔の話へとつながります。主は「わたしを愛しているか。」と三度もペトロに確かめて、「わたしに従いなさい」と言われました。まず主イエスがペトロの為に命を捨て、罪から清めてくださることで、ペトロは生まれ変わります。そして主の後に従い、どこまでもついて行くことの出来る者に生まれ変わるのです。
「ドミネ・クォ・バデス」(主よ、どこへおいでになるのですか)
ペトロが殉教するに際して、復活の主に出会い発した言葉と伝えられています。ペトロは主の十字架愛によって、愛のために自分の命を捨てる者に変わっていました。私たちもまた、いつも「主がどこにおいでになるのか」を繰り返し問い続けなければならないと思うのです。主は私たちの罪を贖うために十字架にかかられ、復活され、その後昇天されて栄光を受けられました。私たちは罪贖われた者として互いに愛し合う者に生まれ変わらされたはずです。クリスチャンどうしが愛し合わなければ、世の人は私たちを偽善者とみなすでしょう。主が指摘した事々を覚えて、主が私たちを愛して下さったように、互いに愛しあうことをしっかりと実行していきたく願います。「主よ、愛のない私たちを、互いに愛し合う者としてください。」
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
(ヨハネによる福音書13:34-35)
遠藤周作が『聖書の中の女性たち』で、一人の少女の詩を紹介している。
わたしの咽喉が痛い時 あの子の咽喉も痛み
わたしが夜 咳をする時 あの子も眼をさまして咳をする
わたしがママから叱られて泣く時 あの子もわたしと一緒に泣いている
タ陽にうつるわたしの影法師のように あの子はいつもわたしと一緒だ
この少女にとって「あの子」はキリストだったという。咽喉の痛みを癒やすのでもなく、咳を止めてくれるのでもないが、一緒に「痛み、 一緒に「咳をし」、一緒に 「泣く」 キリスト。奇跡を行うことによってでなく、共にいることによって愛を示すキリストの姿が、この十一歳で死なねばならなかった少女を、どれほどその淋しい病床で慰め、カづけたことでしよう。べツレヘムの幼子の姿は、私たちの主が、このような愛の持ち主であることを示すものです。「共にいることの素晴らしさ」 讃美歌21-533番。
忙しいことを言い訳に、私たちは近頃「用事」のためにだけ人と共にいることが多くなってはいないでしようか。キリストは「用事」のためにだけ、この世に来た方ではなかったのです。「救い」という用事のためだけならば、幼子の姿をとることも、三十年をナザレで過ごすことも、苦しみ、死ぬことさえ不必要だったのかも知れません。「赦す」という父なる神様のお墨付きを、人間に手渡すだけでよかったのかも知れません。愛ゆえに主イエスは人々と共に住み、その生活を分かち合ったのです。
実に、人間は赦されるにも値しませんでした。放っておかれてもいたしかたない人間を神様は見捨てませんでした。主イエスの地上での生活は、「どうでもいいような」人々、「放っておけばいい」と考えられた人々との温かいかかわりに終始した生涯でありました。それを歌い上げたのが、讃美歌21-280番「馬槽のなかに」であります。娼婦、税吏、子どもたち、病気に苦しみ、悲しむ人々と思いを分かち合い、席を共にする日々。
私たちは、主が十字架に向かう最後の時、弟子たちに与えられた新しい掟に心留めたく思います。「わたしがあなたがたを愛したように」と主は言われました。そう。主の愛に支えられ、導かれてここまで歩んできた私たちです。そして「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」私たちの愛の行為は微々たるものかもしれません。しかし主がなさったように「寄り添う」ことで私たちはその愛を示すことが出来るのです。教会は愛ある交わりの場!
「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
(ヨハネによる福音書13:21-27)
厳しい箇所です。「裏切りの予告」とは。イエス様は、だれが自分を裏切るのか、最初から知っていました。自分が弟子の一人に裏切られたことをご存じの上で、そこから逃げずに、その弟子を拒絶せず、十字架の道を進みました。
ここで興味深いのは、それがだれについておられるのか、知りたかったペトロが、イエス様に愛された弟子に尋ねるよう合図したことです。私たちも自分に害が及ばないように、うまく人を使って事柄を聞きだそうとします。結果しだいでは、いち早く危険から避難するつもりです。確かに、銀貨30枚でイエス様を売り渡したのはイスカリオテのユダです。しかし、
「あなたのためなら命を捨てます」と大言壮語したペトロも、大祭司の庭でイエス様のことを「知らない」と3度も否認したのです。(けれども、そのペトロを最後まで愛し通された、イエス様の愛の深さ大きさを私たちは知っています。)
ユダがイエス様からパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入りました。私たちがサタンにつけ込まれるのは、まさに一瞬なのです。だからこそ、主の祈りの中で「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈るのです。イエス様は、何とかしてユダに裏切りをやめさせようとはせず、「今すぐ、しなさい」と言いました。ユダにそう言ったとき、何のことか分かった人はだれもいませんでした。私たちはどうでしょうか?
私たちもまた、主のみこころが分からないと、それを常識で穴埋めします。ここでも、「ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」とあります。弟子たち同様、私たちは想定外のことをそのまま受け入れられません。何かしら、自分の思いつく範囲で想定し、そこに帰着して安堵するわけです。イエス様の十字架への道は、弟子たちの思いをはるかに超えた、神様のご計画でありました。そしてその道を主イエスは歩まれたのです。「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。」(詩編25:12)畏れつつ歩んで参りましょう。
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
(ローマの信徒への手紙12:12)
あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。
(詩編55:23)
今日は9月の第一日曜日、振起日礼拝です。今年度の教会主題聖句を覚え、たゆまず祈りたくメッセージします。
私たちは忙しい生活を送っています。しかし、「祈りの時」を持つのはそんなに難しいことでしょうか?私は牧師として、祈らないことでクリスチャンはだいぶ損をしているかなぁと思います。「祈り」は、ある方にとっては「願い事があれば祈る」こと。だから、物事が順調に運んでいるなら、ことさら神様に願うこともないか、と思ってしまうのかもしれません。しかし、請求書の祈りばかりではなく、領収書の祈り、感謝をささげるのを忘れてはならないと思います。そして、静まって祈る時に、私たちは他では味わえない「神様との対話」、主にある交わりと慰めを与えられるのです。
一日を振り返ってみましょう。朝、起きて一番に祈りたいですね。
夜が明けるたびに、あなたは「光」に近づいています。決して長々と祈る必要はありません。「神様、感謝します。今日も私に喜びの一日を与えてくださり嬉しいです。どんなことが起こるかワクワクします。主よ、いつも共にいてください。アーメン」でいいのです。もちろん、心にかけている家族や友人のことを覚え、とりなしの祈りを捧げることもOKです。それでもそんなに時間はかかりません。
昼間、どんな時であっても、どこにいても祈りを捧げることは可能です。神様はどこにでもおられ、私たちが祈ることを心待ちにしておられます。
私なぞは、うわぁ~大変だぁ!と感じたとき、即「神様、助けて!」と声をあげます。そうして助けられて75年半、歩んでこられました。
夜、やすむときに祈りましょう。眠りは私たち被造物に与えられた特権です。神様の慈しみにつつまれて安心して憩います。一日の感謝、領収書を差し出す時ですね。私たちは平安のうちに過ごし、喜びの朝を迎えます。
時には祈ることが無味乾燥に思えてしまうことがあるかもしれません。
たゆまず続けましょう。干上がった土地は雨を喜び迎えます。潤い満たされます。祈りは畑に似ています。よく手入れをすると豊かに実ります。
また、何をどう祈ったらよいかわからないという時には「主の祈り」を祈ってください。弟子たちの願いに応えて、イエス様が教えてくださった祈りです。ややもすると単なる収束合図のように、となえることがあるようです。しかし、ひとことひとことかみしめて祈るとき、その言葉の深い意味と神様の愛とに気づかされます。自分なりの方法で祈りましょう。