日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

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>シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が行った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

(ヨハネ18:25-27)

 イエス様が捕まり、大祭司のもとに連行されました。いったんはイエス様を見捨てて逃げ去ったペトロでしたが、心配になって様子を見に行きました。大祭司の屋敷の中庭に入り、火にあたっていましたら、ペトロを見知っていた人たちから「あの人の弟子の一人ではありませんか」と指摘されて、あわてて「違う」と否定しました。こういうやり取りが三度もありました。そして、三度目に「違う」と否定した時に、鶏が鳴いたのです。これはペトロを決定的に打ちのめすことになりました。

なぜなら、ペトロは最後の晩餐の折に、イエス様にどこまでもついて行くと豪語した時に、イエス様から「あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われていたからです。

「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と言ったペトロに対して、イエス様は「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(ヨハネ13:37-38)

追い詰められて、「知らない」を三度も繰り返したペトロ。彼の弱さが露わにされるところです。主イエスと一緒なら死んでもいいとまで言っていたペトロ。その剛胆さ、言い切った思い、それはペトロが自分自身を過信していたことに他なりません。往々にして、思いや感情に溺れて、私たちはつまずくのです。ペトロはそういう意味で、わかりやすい見本です。

いかがでしょう。頼るべきはこの私ではなく、主なのです。それが分かっていなかったのですねぇ。ペトロの失敗を私たちは他人事として笑うことは出来ません。「主を主とする」ことをないがしろにして、自己中で生きようとすると、私たちもまた、足をとられてつまずいてしまうでしょう。しかし、ペトロはこの失敗を通して、主の深い愛と憐れみを覚えることが出来ました。三度にわたって主を知らないと言ったペトロを主は見つめられます。(ルカ22:61)振り返って、慈しみのまなざしをかけられます。ペトロはこらえきれずに泣きました。そしてここから新しく生き直すことが出来ました。主はペトロの挫折を予告しました。同時にそのペトロの為に祈られました。(ルカ22:32)ペトロは自ら覚醒して再起したのではありません。主イエスの祈りによって支えられ、立ち上がることが出来たのです。そしてつまずいたペトロだからこそ「兄弟たちを力づける」ことが出来るのです。何という恵み、何という喜び。

 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。・・・イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

                                            (ヨハネ12:3、7)

 

 マルタとマリア、そして生き返ったラザロの家を訪れたイエス様。食事の席につかれた時に、マリアがイエス様の足に香油を塗り、自分の髪でその足をぬぐった、とあります。家は香油の香りで満ちたとのこと。そのかぐわしい様を想像してみてください。

 しかし、この行為を非難する人もいました。それはイスカリオテのユダでした。高価な香油を無駄に(!)流すのでなくて、それを売って貧しい人々に施すのが有益だというのです。金銭感覚の鋭い、ユダならではの発言です。確かに三百デナリは、ざっと換算して三百万円ほどになります。しかし、良識とも思えるこの考えですが、実はその裏があることをヨハネは言及しています。ユダが会計をしながら、その中身をごまかしていたことです。そして、ユダは損得勘定をした結果、後にイエス様を銀貨30枚で裏切ります。優先順位がお金だという人あるあるですねぇ。

 損得という天秤にかけて物事を考えてゆくならば、信仰の生活は、たぶん損ということになるでしょう。ささげながら、損をしながら得てゆくもの、それが信仰です。ささげることによって、あえて損をすることによってしか得られない豊かさがある、ということを味わい知らなければ、一切は無益でしょう。

 

 一方、イエス様はこのマリアの行為を喜んで受け取りました。彼女がこの先、イエス様が十字架にかかられて命を落とし、葬られることをどれだけ予想していたか、明らかではありません。むしろイエス様を敬愛し、素晴らしいプレゼントとしてナルドの香油をささげたのです。今、この時に献げよう、そう思って行動に移したのです。千載一遇のチャンスを逃さなかった大胆な行為です。

 十字架への道の途上にあったイエス様にとって、まさにご自身の埋葬の備えとなりました。貧しい人々への施しはいつでも出来ます。けれども主イエスに対する愛と献身を表明することは、先延ばしせずに、今すべきなのです。人それぞれにその表明方法は異なるでしょう。それがどんな方法であろうとも、決して無駄ではなく、主イエスの目には高価で尊く、喜びそのものなのです。

 もう一度きちんと考えてみましょう。私が、イエス様のために、今、ささげることが出来るものは何だろうか、と。そしてそれが分かったら、喜んでささげたいと思います。「主よ、ささげて生きる幸いを感謝します。」

 

「・・・わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

(ヨハネ8:29-30)

 

 イエス様を何とかして抹殺しようとする人々を相手に、イエス様は御自分がこれからなすべきこと、またイエス様を受け入れない人々が今後どうなっていくかをきっちりと語ります。主イエスは父なる神様が計画している贖罪のわざを終えたら、地上を去ります。そうなった時に捜してもイエス様は見つからない。そしてイエス様を信じなかったがゆえに、自分の罪の内に死ぬことになる、とまではっきりと言います。それから主が天に昇られてから、そこに来ることが出来ないことも。

 それに対して、イエス様を受け入れることが出来ず、おっしゃっていることを理解することが出来ない人々は「自殺でもするつもりなのだろうか」と言います。ユダヤ人たちの不信仰と無理解はここに極まります。その行き着くところは死です。彼らはイエス様のことばを聞いて「それではどうしたらいいのか」と真剣に考えなければならなかったはずです。しかし、イエス様の真意を知ろうともしませんでした。

 人間はその生き様において、「幸いな人」たりえるか、そうでないかが問われているようです。「この世に属している」限り、主を信じ、主と共にある喜びを味わうことは出来ません。損得勘定にとらわれてしまい、損する人生を「負け組」と思ってしまうからです。何ものにも代えがたい、主からの慰めと平安を受け取り損なってしまうのです。一見、損しているように見えるところに、実は主の憐れみが届き、主にある励ましを受けて立ち上がるという体験をしそこなってしまうのですねぇ。残念です。

 ここで主の「わたしはある」(24節)という言葉に注目して頂きたい。

これはイエス様の神性を現す言葉です。だから、イエス様を神様と等しい方として信じることがなければ、罪のうちに死ぬことになるというのです。

それに対してユダヤ人たちは「あなたはいったいどなたですか」と言います。これはイエス様が誰であるか知りたくて尋ねている質問ではありません。イエス様を主として認めようとしない心情から出た言葉です。それほどまでにかたくなであったのです。

 けれども、イエス様は御自分を主と認めず、受け入れようとしない人々の中にあっても、決してめげることなく御自身の使命を果たそうとしておられます。父なる神様が共にいてくださること。そして主ご自身が父なる神様の御心に適うことを行うことを明言しておられます。

 私たちもまた、主が共にいてくださることを覚えましょう。そして、主の御心に適うことが何かを祈ってわかり、それを行うことが出来たら、なんと幸いなことでしょう。主は信じる私たちを決して見捨てず、愛し、助け導いてくださるお方です。主を信頼して歩んで参りましょう。 

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

(ヨハネ8:12)


 光という言葉を聞いて、私たちはヨハネによる福音書冒頭の御言葉を思い起こします。  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
(ヨハネ1:1,4,5)
  イエス様がどういうお方であるか、を明確に示している御言葉です。
 イエス様こそ、すべての人を照らすまことの光です。世の光であるイエス様に従う時、私たちは決して闇の中を歩くことがありません。
 
  ここでも主みずから、ご自分を「世の光」と宣言しています。 もちろん、間髪いれずにファリサイ派からは批判がされています。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と。しかし真っ向から主は、反論しています。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。」と。イエス様はどこから来て、どこへ行くのでしょうか。御父のもとから来て、御父のもとへ行くのです。イエス様はいつも御父のみこころのうちにとどまっていました。ですから、自分の証言が真実であることを承知しておりました。
 
  イエス様に従おうとしなかったファリサイ派の人々は闇の中に留まり続けています。ある場合には暗闇の力が大きく感じられて、主に従うよりはその闇の中にまぎれてしまう方が楽そうだと思ってしまうかもしれません。それほどに闇の力に惹かれ、罪に溺れてしまう傾向は大きいのです。
 
  ある意味、私たちは深い闇の中に立っています。しかし、闇がすべてを覆いつくしているわけではありません。信仰は闇の中に一筋の光を見出しながら、前進します。闇の中に命に至る道が貫いているならば、既に闇は闇の力を失っているのです。希望の光が差し込んでいるからです。
  主は、山上の説教において、主イエスに従う人々に対し「あなたがたは世の光である。」(マタイ:14)と仰います。そしてその光でもって家中を照らしなさいと勧めています。私たちは「世の光」である主から光を頂き、それを人々の前に輝かせるようになるのです。  「わたしは世の光である。」と仰る方の言う事を真実に受け止めて、その方に従って、その方に自分の人生を賭けてみるほかないのです。 「主よ、あなたに従います。光の中を歩ませてください。」と日々祈って参りましょう。主は私たちが進むべき道を示してくださいます。

 あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

(ヨハネ8:7b-11)

 イエス様を陥れようと、姦通した女性が引っ張られてきました。モーセの律法においては「石打ちせよ」と定められていました。だから、「石で打ってはならない」とイエス様が言えば、律法に反するかどで告発できるでしょう。逆に「石で打て」と言えば、罪人に対する神様の憐れみを説いてきた教えと矛盾します。また石打=死刑を宣言することは、ローマ帝国が死刑の権限を持つという状況下では、ローマ帝国の権威に立ち向かうことになるわけです。いずれにせよ、イエス様は苦境におかれたのです。

 彼らの意図を知るイエス様は、最初関わろうとしないで、地面に書き物をしておりました。しかし、人々はしつこく迫ります。イエス様は身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。罪を犯した人に石を投げることはたやすいことかもしれません。正義感にかられて石を投げるのです。特に群衆心理が働くと、余計にそうなります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」

 けれども、イエス様はあえて一人一人に問うています。石を投げる前に、自分はそうした罪に本当に無関係かどうか吟味しなさいと。

 

 その結果、年長者から始まって、一人また一人と立ち去りました。最後にイエス様とこの女性とが残りました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、だれも」この会話の後で、主は宣言なさいます。「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」主はこの女性の罪を見て見ぬふりをなさったのでしょうか。いいえ。主はこの女性の罪を御自分で引き受けられたのです。そして、罪の赦しを宣言なさったのです。もう罪を犯すな、と言って解放なさったのです。これは、私たちにも向けられている主の憐れみに裏打ちされた言葉です。罪にふける生活に後戻りするな、と言われています。

 

 かえりみれば、私たちもまた罪に足をすくわれる愚かで弱い人間です。「罪に定めない」はまさに私たちに向けられています。「主よ、あなたが私たちの罪を引き受けて十字架にかかられたことを覚えます。主の深い恵みを味わい知ることが出来ますように。主の恵みに応えて生きていきます。」と日々祈ってまいりましょう。

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