メッセージ
ヨナタンは、自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は間題ではない。」従卒は答えた。「あなたの思いどおりになさってください。行きましよう。わたしはあなたと一心同体です。」ヨナタンは言った。「よし、ではあの者どものところへ渡って行って、我々の姿を見せよう。そのとき、彼らが『お前たちのところへ着くまでじっとしていろ』と言うなら、そこに立ち止まり、登って行くのはよそう。もし『登って来い』と言えば、登って行くことにしよう。それは、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ。」
(サムエル記上14 : 6-10)
ペリシテ人との戦いにおいて、イスラエル側は人数でも武器の面でも甚だしく劣っておりました。三千人いた民も六百人に減ってしまいました。武器についてもペリシテ人は鍛冶屋を独占し、イスラエルに武器を作らせまいとしました。剣や槍を持っているのはサウルとヨナタンぐらいで、その他の者たちは石投げや杖、棒、農具の類いを持って戦いに臨んでいました。劣勢は明らかでした。この状況を打破したのがヨナタンです。
サウル王の息子ヨナタンは実に沈着冷静かつ勇猛果敢な若者でした。(後にダビデの無二の親友となります。)主に対する信仰によって行動します。
彼は父サウルにも祭司アヒヤにも知らせず、従者と二人きりでペリシテ人の先陣のただ中に切り込んで行く計画を立てました。一見、無謀と思えるものです。けれどもヨナタンは、このままじわじわと敵軍に圧倒され、敗北を迎えるに忍びなかったのです。二人きりであっても、大軍勢に勝る万軍の主の助けを信じて進んで行こうとします。討ち死にを覚悟で切り込んで行こうと、道具もちの従者に呼びかけました。「勇将の下に弱卒なし」と言われますが、この従者の答えも見事です。主人と一心同体であり、命令通り従うと言っています。
攻撃方法については、敵の言葉を用いて主は導かれると信じています。そしてその通り実践して敵を20人ほど打ち倒します。すると恐怖が敵陣に広がり、地震も起きて、敵の恐怖は極限に達したとあります。こうしてヨナタンの行為を主は良しとされました。これをきっかけにイスラエル軍の士気は高まり、勝利へと導かれます。
ヨナタンの信仰に私たちは知らされます。「主に信頼すればゆるがない」私たちはふだんの生活において、神ならぬものに頼ってしまいがちです。しかし、私たちの人生を守り導くお方は主にほかなりません。確かに私たちの個性は様々で、一様に「信仰深く、敬虔な方」と見られないかもしれません。牧師として「信仰を持ったらいい人になれますか?」と問われたら、「いいえ、性格は変わりません。しかし、生きる姿勢が変わります」と答えます。主を主とする生き方。その生きる姿勢は信仰という一本に貫かれています。木や石を拝むのでなく、見えないまことの神さまを礼拝し、すべてを委ねて祈っていく。その生き方は周りの人々も認めるところです。
サウルは、サムエルが命じたように、七日間待った。だが、サムエルはギルガルに来なかった。兵はサウルのもとから散り始めた。サウルは「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を持って来なさい」と命じて、焼き尽くす献げ物をささげた。焼き尽くす献げ物をささげ終えたそのとき、サムエルが到着した。・・・サムエルは言った。「あなたは何をしたのか。」
サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」
(サムエル記上13:8-11,13-14)
サウルは、謙遜な人として王に任命され、主の霊を豊かに注がれて勇敢に戦い、ヤベシュの人々を救うという見事なスタートを切りました。しかし、残念なことに、主に対する不従順が見え始めます。
聖書には「主を待て」「主を待ち望め」という勧めの言葉が頻繁に出てきます。信仰の要素の中には「主を待つこと」が含まれています。サウルはこの点でまず失敗を犯しました。預言者サムエルの言葉に従わず、待ちきれずに先走ったのです。
サウルは、サムエルが命じたように7日間待ちましたが、サムエルがなかなか到着せず、民がどんどん戦列を離れ散って行くので、とうとうしびれを切らして、祭司の役割を自ら果たそうと決意して、実行してしまいました。ところが、ちょうどそのいけにえをささげ終わったところへサムエルが到着したのです。あ~あ! あと少しの辛抱と忍耐が足りませんでした。サムエルはその行為を非難します。けれども、サウルは謝罪するどころか、口実を並べて言い逃れをします。
こうして、残念なことに、サウルは王として不適格者として退けられてしまいます。まだ名前は挙げられてはいませんが、この後、主は御自分の御心に適う人を代わりに立てるとの宣告までされてしまいます。(しかし、この時まだサウル自身が事の重大さを認識していないようですね。)
「待ちきれなかった王サウル」この失敗は私たちの生活の中でも起こり得ることでしょう。私自身の性格からも、ああこれは私もやりかねない失敗だなぁ、と思います。「待てない。」「耐えることが出来ない。」そして「先走ってしまう。」なぜそうなるのか?それは、主への信頼が薄いことによります。主が最善をなしてくださる、と分かっていても実現が遅いと待ちきれないのです。忍耐の大切さをもう一度覚えたいものです。
「忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる。」(箴言14:29)ものを知るためには、忍耐しなければならないのです。せっかちは禁物です。待てないで真理を見失う、それが人間の最大の弱点です。
サムエルは民に行った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後はそれることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主は偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」
(サムエル記上1 2 : 2 0ー2 5 )
サムエルは、士師としてイスラエルを導く第一人者の任を全うし、サウル王にバトンタッチするにあたり、全イスラエルに向かっていわば「告別説教」を語っています。自分が士師として潔白な生活を送ったことを主張し、民もそれに全く異議を差し挟みません。更に彼は、今まで主御自身が様々な士師を用いて民を救ってきたのに、この主を捨てて王を求めた、と民の罪をもう一度はっきりと指摘しました。そして言葉だけでなく、それに伴うしるしを主に求め、その結果として時季外れの雷と雨が降り、大いに民を恐れおののかせました。また民のために祈ること等を語っています。彼自身、預言者としての使命、祈ることと真理を伝えることを続けることを約束しています。祈らなかったり、祈りをやめることも罪なのですね。
そして、イスラエルの民が最も大切にしなければならないことを明らかにしています。それは「今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。」ということです。何かというと主以外の神々に走る傾向があったイスラエルの民には耳痛いことであったかと思われます。バアルもアシュトレトもむなしい。それらは何の力もなく、救う力もない。と明言します。また、説教の最後には「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。」と勧めます。
このサムエルが民に告げた勧めは、現代を生きる私たちにも適用されるのではないか、と思います。イエス様がファリサイ派の質問に答えて「最も重要な掟」を示しています。それは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」また「隣人を自分のように愛しなさい。」でした。(マタイ2 2 : 3 7-3 9 )主を主とする生活。隣人との関わり。十字架の縦棒と横棒。しつかり組み合わさって、自分の十字架(使命)となっていきます。私たちの信仰の生涯はせいぜい7 0~8 0年かもしれませんが、教会に受け継がれている信仰の系譜はそれ以上に長いのです。その流れの中で信仰者として生きていく幸いを覚えます。
私たちは独りぼっちではない。イザヤ書4 6 : 4を味わいましよう。
喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。
(詩編100編2節)
「賛美する」ことは喜ぶことにほかなりません。「ええ。大声張り上げて歌っているめぐみ牧師の姿を見ていればそう言えます。」常陸大宮チャペルメンバーならば、きっとそう答えるでしょう。しかし、喜び賛美しているのは、私一人でしょうか?「私も実は喜んでいます。」と後に続く方々がいらっしゃることを期待しています。音楽の授業ならいざ知らず、礼拝の賛美において私たちはもっと自由で活発に声をあげていったら良いのではないか、と思います。やれ、誰が作った曲か、どのように声を出すか、讃美歌のメロディーから逸脱しないように歌うにはどうしたらよいか、余りにも細部にこだわりすぎる傾向があるように感じます。私たちが心を留めたいのは、音楽的センスではなく、信仰の観点から賛美しようということです。賛美することで、心が主に近付くならば、その歌はその人にとって素晴らしい歌となります。主と私たちの間に、他のなにものも入ってくる余地はありません。
賛美は主にささげるものですから、へたであろうと、うまく歌おうと、何の問題もないのです。主の霊に導かれて心から歌えることこそ、大切なのです。時にはなじみのあるメロディーに歌詞をのせて歌うようになった讃美歌があります。有名なところでは、宗教改革者マルティン・ルターが時の流行歌にのせて歌うようにした「神はわが砦」(讃美歌21-377)があります。またシベリウスのフィンランディアのメロディーで、歌われる「やすかれ、わがこころよ」(讃美歌21-532)もあります。さらに自由な発想で若い人々がとりあげるプレイズソングがあります。もともと賛美という言葉には「心の中で神さまを大きくする」という意味があります。賛美する中で、神さまとの交わりを深め、心の中を神さまに占領していただくのです。それこそが礼拝そのものになるのです。
私たちの肉の思い(自分の欲求や、衣食住の心配、人間関係の気まずさ)は、私たちと神さまとの間に壁を作ってしまいがちです。祈ることで考えてみましょう。祈り始めの最初は、なかなかうまく進まないのに、5分ほど祈っていくうちに段々と主の助けを得て、祈りがスムーズに出来るようになります。この肉の思いが作り出した壁を越える手段が賛美です。賛美の特徴はメロディーがあることです。メロディーに信仰の言葉をのせていきますと、前にお話ししたように耳がキャッチし、それを受け取って信仰を言い表すことが出来るようになります。肉の思いに囚われているうちは、重苦しい気分に支配されがちです。しかし、賛美によってそれは打ち破られるのです。第一週の礼拝で歌われる賛美はその典型かもしれません。
♪大いなる方に♪ の中で「いま弱い者よ 叫べ勇士だと 勝利の主がともにおられる いま貧しい者よ 叫べ富んでいると めぐみの主がともにおられる」と歌い上げています。決め手は主。この私ではないのです。
サウルが牛を追って畑から戻って来た。彼は尋ねた。「民が泣いているが、何事か起こったのか。」彼らはヤベシュの人々の言葉を伝えた。それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。」民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した。 (サムエル記上11:5-7)
アンモン人によって攻め込まれたヤベシュの人々は、和平を結ぼうとしたら、無理難題を押しつけられました。敗北した捕虜が受ける残酷な仕打ち以外に道はないとのこと。ヤベシュの長老たちはイスラエル全土にこの悪い知らせを伝え、救いを求めました。この知らせを受けて、ギブアの人々は声をあげて泣き出しました。王に選出されたといえ、当時ごく普通の農夫として生活していたサウルは、事の次第を聞いて、神の霊の注ぎを受けて激しく怒りました。そして、受け取ったすべての者がショックを受ける品物(切り裂かれた牛の死体の一部)を各部族に送りつけて、非常招集をかけました。民も主への恐れにかられ、一丸となって出陣しました。援軍が来ると聞いたヤベシュの人々は喜びます。
サウルによってアンモン人は打ち負かされ、脅威は取り払われました。主が救いのわざをなしてくださいました。この勝利を受けて、サウルを王とみなさなかった人々を殺そうという声が出ました。しかし、サウルは「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。」と言いました。ここにサウルの寛大さと謙遜を見ることが出来ます。そして「さあ、ギルガルに行こう。そこで王国を興そう。」そして民は全員でギルガル(約束の地に入った民が割礼の儀式を行った記念の地)に向かい、サウルを王として主の御前に立てました。人々は主の前に礼拝をささげ、大いに喜び祝いました。
ここのポイントは、
①非力な民に救いを与える神さま
②その働きは、神さまから選ばれた指導者によって実現する。
③神さまに用いられた指導者も、決して高慢にならず謙遜である。
④神さまに栄光を帰し、礼拝をささげる。
私たちの人生にも、ヤベシュの人々が陥ったような危機的状況が起こるかもしれません。(Ⅰペトロ4:12)その時、すぐに主に頼るか否かが決め手になります。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。」(Iペトロ5:7)
主に委ね祈っていく。状況が好転したら素直に感謝する。或いはすぐに好転しないかもしれないけれど、「主は救ってくださる」の信仰を抱いて、希望をもって生きていく。私たちの生活の主軸に、神さまをおくことが一番大切です。事ある毎に「主よ、救ってください!」祈って生きましょう。