日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」                                    (ヨハネ福音書9:35-39)

 

 シロアムの池で目が見えるようになった者にファリサイ派の人々が尋問します。彼は、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(9:25)と言いました。しかし、ファリサイ派の人々はイエス様をおとしめようとしました。なんとか、主を信じないですむ言い訳さがしをしているようです。それに対し、目が開かれた彼ははっきりと言います。「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

(9:31-33)と。彼自身、自分におきた癒やしの体験に根ざして、そのことが明確に分かり、言明できたのです。しかし、イエス様を信じようとしない人々は、この明白な事実を受け入れることができません。その結果、彼は外に追い出されます。人間の罪の性質は、自分の思い通りにならないことに関して、消し去ろう、心の中から排除しようとするんですね。

 私たち自身はいかがでしょうか。「かたくなだった自分が主を信じました。これは神様の恵みの奇跡です。」というほかありません。

 

 イエス様は、彼を見捨てておきません。人々からどんな仕打ちを受けようとも、彼を再び見出し、お会いになります。イエス様は彼の身体の不具合を癒やすだけでなく、ご自身を主として信じるところまで導きました。彼は率直に「主よ、信じます。」と告白します。

神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)主にあって無駄なことは何一つありません。

 

 一方、ファリサイ派の人々はどうなのか?自分たちは真理を知っているとうぬぼれ、イエス様を退け罪の中にとどまり続けました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(9:41)厳しいです。「主よ、私の目を開いて真理をさとらせてください。」と祈りましょう。

 

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことが出来ない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」       

                      (ヨハネ福音書9:1-5)

 

 盲人のいやしの記事です。幾つかポイントがあります。

まず、この盲人から癒やしを願って懇願したわけではなく、主が「通りすがりに」この盲人を見出し、弟子たちの質問に答える形で癒やしが行われたことです。弟子たちは質問こそすれ、生まれつき盲人であった者への憐れみを覚えていません。主はこの人の苦悩に寄り添い、奇跡を行いました。主のみこころであれば、奇跡がおきるのです。

 続いて、最も注目すべきことが「罪」と「癒やし」のつながりです。

弟子たちの質問にもあるとおり、病気や身体の不具合は「罪の結果」と考えられておりました。だからこそ、「本人の罪か、それとも両親の罪ゆえか?」との質問が出たのです。それに対して、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と言われました。なんという神様の恩寵でしょうか!

私たちは行き詰まってしまいますと「なぜこんなことに?」と思います。しかし、神様の業が現れるために、とはなかなか思えないものです。常陸大宮に教会開拓をして、地域の保守性や土着信仰の強固さにため息をついていました。しかし今回熱にうかされながら、ふと神様の「強固な意思」と「深い憐れみ」を感じました。原因不明な熱から解放され、牧師として復活致しました。(バァバのお菓子屋のように、味の評価が浸透していくには、それなりの時間が必要でした。福音の浸透にもやはり時間がかかるのかもしれません。)福音の種まきに関わっている幸いを覚えます。

 最後のポイントは、この盲人は主イエスが命じたとおりに行ったことです。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに言って洗いなさい』と言われました。そこで行って洗ったら、見えるようになったのです。」彼は、疑わずに実行しました。効果があるかどうかもわかりませんでした。けれども言われた通りに実行しました。私たちにも祈りの中で、時に「こうしなさい」と主の促しを覚えることがあります。でも、と言い訳して実行に移さないことがありはしませんか?「目が見えるようになる」には、主の示すことに忠実に歩むのが一番なのです。神様は創造の始めに、混沌な世界に「光あれ」と言われ、光さす世界を出現なさいました。この私に神様はどんな業をなしてくださるのだろうか?ワクワクしてきます。「主よ、私にあなたのみ業が現れますように」と祈りましょう。

ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。

 ・・・イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」するとユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。       

             (ヨハネ福音書8:48-51、58-59)

 

 相変わらず、ユダヤ人とイエス様とのかみ合わない論争が続きます。言葉は互いを理解する上で、大事な手段ですが、時にはとらえ方の違いにより通じないことがあります。ユダヤ人たちの実証主義と言いましょうか、目に見えるところ、自分達が理解する範囲でしか物事をとらえられないがゆえに、イエス様が示す真理を知ることが出来ません。そしてイエス様を排除しようと「サマリア人で悪霊に取りつかれている」と主張します。これは二つとも事実とは異なります。彼らの罪は、神様を敬い、神様から遣わされた救い主を受け入れず、悪霊扱いしたことでした。

 これらのユダヤ人に対して、イエス様は、もう一度永遠の命を得るためのチャンスを与えます。それは、イエス様の言葉を守ることでした。しかし、医学的な「死」しか見えていないユダヤ人にとって、それは理解不可能なことだったようです。「アブラハムも預言者も死んだ。いったいあなたは自分を何者だと思っているのか。」と言うだけでした。

 彼らは、イエス様が自分を誇っているかのように思っていました。それに対してイエス様は、ご自分に栄光を与える方は父なる神様であることを知っておられ、父なる神様の前で謙遜でした。と同時に遣わされた者としての自覚を持ち、それをユダヤ人たちに示されました。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」この言葉は、召命を受けたモーセが、神様の名前を尋ねた時に頂いた答えでした。(出エジプト記3:14)

不思議な表現ですね。目には見えないけれども「わたしはある。」のです。

 ユダヤ人たちは、イエス様の語ることが理解できず、受け入れられませんでした。だから、イエス様に石を投げつけようとしました。

 私たちも周囲の人々に福音を知らせようとして、理解されず受け入れられないことがあるかもしれません。その時はあくまで「私メッセージ」を伝えてください。「私は主を信じて喜んで生きています。」と。かみ合わない言葉で議論しないことです。私たちの生き様そのもので導くのです。

「わたしはある」とおっしゃった主は、今なお生きておられ、私たちを導き、励まし、慰めてくださいます。めげることなく、主が語られた言葉に信頼し、歩みを進めてまいりましょう。主よ、あなたを崇め賛美します♪

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

       (マタイ福音書7:7-12)

 

 聖書の中でも一般的に良く知られた箇所であります。今年度の教会主題が「祈り」であるならば、このイエス様の勧めを何よりも大切に、心に留めて実行したいところです。

 求める、探す、門をたたく。ごく普通の私たちのとっている行動です。しかし、それを神さまに向かってする、ということに私たちはなぜか躊躇するのです。こんな事を祈っていいのだろうか、本当に祈りはきかれるのだろうか、しつこく祈ったら神さまに嫌われるのではなかろうか等々。

しかし、牧師として声を大にして言います。何かが「必要な」ときには、それを願いましょう。神さまはあなたの幸せを願っておられるのです。

 そして大事なことは、求めてよい、探して見出すがよい、門を叩き続けて良いと主がおっしゃっていることです。私たちの祈りの声はむなしく消えていくのではないのです。私たちの祈りの声を聞いてくださる方がいる、応えてくださる方がいる、私たちの命に責任をもって対応してくださる方がいる、という幸い。目には見えない神さまですけれども、この「祈り」という対話を通して、私たちは人として生きる道を示され、「私は生きていていいんだ。」と確証を得られるのです。あまりにも、祈りがきかれないと言って、祈り続けることをやめてしまわれる方が多いことに、はがゆくてなりません。もっとシンプルに生きようじゃありませんか。祈り求める、祈り続ける、そしてそれが神さまのみこころであればきかれる。みこころでなければ、「しばし待て」とされる。時には、その内容に変更が求められるかもしれない。けれども、たゆまず祈るという神さまとの応答の中で、整えられ、人は人として生きていくようになるのです。

 最後のところで、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われています。祈りをしているつもりでも、仕事をいやいやしたり、人のことに無関心でいたりするなら、それは祈りではありません。本当の祈りは、人の世話や奉仕の実を結ぶものです。神さまは良い物をくださるにちがいないと思って祈ることは幸いです。祈り続けることを通して、その幸せの実を味わおうではありませんか。隣人の喜びや苦労を自分のものにしましょう。「祈りあい励まし合う群れ」に!

五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

       (使徒言行録2:1-4)

 

 最初のペンテコステの出来事が記されています。主イエスは自分が十字架にかかられ、死んで復活し、天に昇ることを知っておりました。そして生前、弟子たちに助け主「聖霊」が来られることを語っておりました。

 イエス様が天に昇られた後、弟子たちは寂しさを感じ、また先生がおられないという頼りなさを覚えていたかもしれません。しかし、めげてばかりはいられません。イエス様が約束していた「聖霊」を待ち望んで、集まり祈っておりました。そこに聖霊が降りました。

 教会のいっさいのわざは「待つ」ことから始まります。弟子たちは、祈りつつ待っていたのです。そうして彼らは神様の霊を受けました。神様の働き人とされたのです。「祈りつつ待つ」信仰の大事なところです。

 彼らの変貌ぶりには、周りの人々が驚き怪しみました。ガリラヤ出身の彼らがなぜ他の国々の言葉を話すのか?と。共通の言語を持つ、というのには、因縁があります。というのも、創世記11章において、人々は天まで届けとバベルの塔建設に着手しました。けれどもそれを喜ばなかった神様は、人々の言葉を互いに通じ合わないようにして、工事を中止に追い込みました。人々は全地に散らされたとあります。それがこのペンテコステにおいて共通の言葉をもつことが可能になりました。不思議です。

 また、聖霊を受けてペトロは他の弟子たちと共に立ち、声を張り上げて語り始めました。人々を恐れ、主イエスを三度も知らないと言った弱いペトロはもうここにはおりません。彼は助け主である聖霊によって大胆に勇ましく「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。わたしたちは皆、そのことの証人です。」と説教したのです。ペトロの説教を聞いた人々は心打たれ、悔い改めて洗礼を受けた人の数は三千人ほどあったとあります。

それほどまでに聖霊の働きは大きいのです。

 常陸大宮チャペル礼拝の最後に、派遣の言葉を宣言します。その中で「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と主イエスの言葉を用いています。真理といわれるものは、幾つもあるわけではなく、ただ一つです。イエス様ご自身と主のなさった救いのみわざこそ、唯一の真理です。聖霊の働きは、この真理を世の人々にことごとく悟らせ、救いに導くことなのです。そう言うと「だって、でも、どうせ」という言い訳が私たちの心に生じてしまいます。それを乗り越えて私たちに宣教のエネルギーを与えてくださるのも聖霊です。聖霊なる神様を頼ってよいのです。

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