日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神はその保証として、”霊”を与えてくださったのです。

           (コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:1-5)

 本日は永眠者記念礼拝です。常陸大宮チャペルメンバーとして、天に召されたのは二宮幸雄牧師でしたが、(幸雄牧師については勝田教会で永眠者記念礼拝で毎年覚えられています。)今年7月に青田光晴兄が在天会員になりました。それで、今年初めて当教会でも「永眠者記念礼拝」を行う運びになりました。2人の写真が飾られている礼拝堂です。

 この二人について、それぞれ皆さんの中に思い出があるかと察します。

特に青田さんについてのエピソードは、7年ほどの主にある交わりで出てくるのは「とにかく優しい方」ということです。家庭的には、恵まれず晩年を「お一人さま」として過ごしておりました。その寂しさを、この教会での交わりの中でだいぶ慰められたのではないか、と思います。

 今日の礼拝の中で、讃美歌21の385番を歌います。この歌を賛美するとき、私たちは先に召された親しい友を思い出し、涙ぐむこともあります。そして主にある交わりを喜んで生きていこうと思いを新たに致します。

この秋のひととき、「主が与え、主が取り去りたもう」(ヨブ記1:21)を覚えるわけであります。

 また、葬儀の際によく読まれるⅡコリント5章において、私たちは「天にある永遠の住みか」を覚えます。この地上の生涯が終わり、天に住まいを移すことの幸いを覚えます。だから私たちクリスチャンは落胆しません。いっときの別れはつらく悲しいものがあります。しかし、その先に神さまが用意してくださる住みかがあります。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネ14:1-2)とイエス様もおっしゃっています。

 今日の箇所でも、神さまがその保証として「霊」を与えてくださっています。だから何も心配することはありません。90歳あるいは100歳まで生きられるかどうか、それは誰にもわかりません。しかし、その時が来たら、すべてを神さまに信頼し、委ねていけばいいのです。「神はすべてを時宜にかなうように作り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレト3:11)神さまの愛のうちに歩んで参りましょう。、あなたのくださる平和で心満たされ生きる者としてください。」日々、祈り続けてまいりましょう。

 

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。

(ヨハネによる福音書14:27-28)


 「平和」という言葉が昨今ほど取りざたされることはいまだありませんでした。ロシアのウクライナ侵攻、またイスラエルのガザ攻撃等々、心痛むニュースが配信されてきます。いったい神さまは何をしていらっしゃるの?とつい口から出てしまったりもします。けれども信仰者として、歴史を支配したもう神さまを信頼し、ただ祈り続けていくほかありません。

 山上の垂訓、マタイ5:9に「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。世界平和には遠くても、自分の身の回りにおける「平和」を維持するにはどうしたらよいのでしょう。特に常ならぬ事態が起きると、ばたばたしてしまい「平和」であることから遠ざかってしまいがちです。心が騒ぎ、おびえが生じた時に、私たちはいったいどうしたらよいでしょうか? 「私が我慢すれば波風立たない」と思う方が多いようです。しかし、それが真の平和になるでしょうか。自己犠牲が強いられるところに、まことの「平和」は成り立ちません。

 では、「平和を実現する」にはどうしたらよいでしょう。それはまず第一に、神さまとの平和を実現することです。神さまに対する罪を悔い改めて、神さまとの交わりを回復ることがどうしても必要です。第二には、自己中心から解放されていくことです。あらゆる争いは結局、自分のことしか考えない利己主義から生じるのですから。自分のメンツや人からの代償にこだわる人、自分のことばかり考えている人は、平和を実現しません。良いと思ってしたことが誤解されたり、中傷されたりしても意に介さないで、ただ神さまの栄光が現れることを願っている人、自らを忘れている人こそ平和を実現する人たりえます。

 

 嬉しいことに、今日の聖書において主イエスは「わたしは平和を与える。・・・心を騒がせるな。おびえるな。」とおっしゃっています。イエス様が私たちに、まず「平和」を与えてくださるのです。十字架が近い事を意識して、弟子たちに明言されました。私たちが自前で「平和」をふりかざす必要はありません。主イエスは、私たちを神さまと和解させるために、天の栄光を捨ててこの地上に来てくださいました。そればかりか、恥しめの十字架にかかり、ご自分の命を捨てられました。そのイエス様を思い、主イエスを私の心の王座に据えると、私たちも平和を実現する人に変わるのです。トラブルメーカーではなく、ピースメーカーに変えられましょう。そこに本物の幸せがあるのです。「主よ、あなたのくださる平和で心満たされ生きる者としてください。」日々、祈り続けてまいりましょう。

 

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

             (ヨハネによる福音書14:1-7)


 弟子たちの目前にあったのは、ユダの裏切り、そしてイエス様の十字架の死でした。しかしイエス様は、この死を通して、御父のもとへ弟子たちの(そして私たちの)場所を備えに行くのでした。イエス様は天に住まいを確保されたばかりでなく「戻って来て」、私たちの天への歩みを支えてくださるのであります。天にあって私たちを待っていてくださるというのでなく、私たちのところまで来て、永遠の住まいへと共に歩んでくださるのです。何という幸い!何という恵み!!

 トマスが質問します。「どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエス様のお答えは「わたしは道であり、真理であり、命である。」常陸大宮礼拝の最後に「派遣祝祷」を献げます。その言葉はここに拠っています。イエス様こそ、私たちを御父に導く道であり、御父を教える真理であり、罪から救う命です。イエス様以外に私たちを御父のもとに導く方は他にいません。そしてまた、イエス様はここで、御自分と御父との特別な関係を証ししています。イエス様と御父は一つなのです。(ヨハネ10:30)だからこそ、「いや、既に父を見ている。」とまで言い切るのです。

 私たちの信仰生活の軸は、今まさに正面に見ている十字架です。父なる神さまの救いの計画により、独り子なるイエス様がこの地上に遣わされました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)その神さまのみこころが、これから成就されようとしています。また「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31)とイエス様が言われたように、イエス様こそ真理なのです。そしてヨハネ17:3の祈りには「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。イエス様は私たちを導き、共に歩んで下さいます。

 

シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」             

(ヨハネによる福音書13:36-38)

 「主よ、どこへ」というペトロの問いに、主は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と答えられます。「なぜ、今」はダメなのでしょうか?それは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と主が言われるほどに、ペトロはあまりにも、もろい罪人だからです。そのペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と言うのです。ペトロの粋がる気持ちに対して、主はその弱さ罪深さをご承知であえて「鶏が鳴くまでに・・・」と言われました。キツい告知のように聞こえます。しかし主は、信仰の歩みが私たちの覚悟や力でないことをよくご存じでした。まず主イエスご自身が、ペトロの為に命を投げ捨て、ペトロの為に十字架にかかって贖いの死をとげなければ、ペトロは何も出来ない人間なのです。主が極みまで愛し通された愛によって支えられているのです。私たちもまた、それに気づく者でありたいと願います。

 そういう意味で、「今はついて来ることは出来ない」けれども「後でついて来ることになる」のです。主が十字架におかかりになり、復活されるその時になったら、彼はついてくることの出来る者に造り変えられるのです。これはヨハネ福音書21章のガリラヤ湖畔の話へとつながります。主は「わたしを愛しているか。」と三度もペトロに確かめて、「わたしに従いなさい」と言われました。まず主イエスがペトロの為に命を捨て、罪から清めてくださることで、ペトロは生まれ変わります。そして主の後に従い、どこまでもついて行くことの出来る者に生まれ変わるのです。

「ドミネ・クォ・バデス」(主よ、どこへおいでになるのですか)

 ペトロが殉教するに際して、復活の主に出会い発した言葉と伝えられています。ペトロは主の十字架愛によって、愛のために自分の命を捨てる者に変わっていました。私たちもまた、いつも「主がどこにおいでになるのか」を繰り返し問い続けなければならないと思うのです。主は私たちの罪を贖うために十字架にかかられ、復活され、その後昇天されて栄光を受けられました。私たちは罪贖われた者として互いに愛し合う者に生まれ変わらされたはずです。クリスチャンどうしが愛し合わなければ、世の人は私たちを偽善者とみなすでしょう。主が指摘した事々を覚えて、主が私たちを愛して下さったように、互いに愛しあうことをしっかりと実行していきたく願います。「主よ、愛のない私たちを、互いに愛し合う者としてください。」

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

(ヨハネによる福音書13:34-35)


遠藤周作が『聖書の中の女性たち』で、一人の少女の詩を紹介している。


  わたしの咽喉が痛い時         あの子の咽喉も痛み
  わたしが夜 咳をする時        あの子も眼をさまして咳をする
  わたしがママから叱られて泣く時    あの子もわたしと一緒に泣いている
  タ陽にうつるわたしの影法師のように  あの子はいつもわたしと一緒だ


 この少女にとって「あの子」はキリストだったという。咽喉の痛みを癒やすのでもなく、咳を止めてくれるのでもないが、一緒に「痛み、 一緒に「咳をし」、一緒に 「泣く」 キリスト。奇跡を行うことによってでなく、共にいることによって愛を示すキリストの姿が、この十一歳で死なねばならなかった少女を、どれほどその淋しい病床で慰め、カづけたことでしよう。べツレヘムの幼子の姿は、私たちの主が、このような愛の持ち主であることを示すものです。「共にいることの素晴らしさ」 讃美歌21-533番。


 忙しいことを言い訳に、私たちは近頃「用事」のためにだけ人と共にいることが多くなってはいないでしようか。キリストは「用事」のためにだけ、この世に来た方ではなかったのです。「救い」という用事のためだけならば、幼子の姿をとることも、三十年をナザレで過ごすことも、苦しみ、死ぬことさえ不必要だったのかも知れません。「赦す」という父なる神様のお墨付きを、人間に手渡すだけでよかったのかも知れません。愛ゆえに主イエスは人々と共に住み、その生活を分かち合ったのです。
 実に、人間は赦されるにも値しませんでした。放っておかれてもいたしかたない人間を神様は見捨てませんでした。主イエスの地上での生活は、「どうでもいいような」人々、「放っておけばいい」と考えられた人々との温かいかかわりに終始した生涯でありました。それを歌い上げたのが、讃美歌21-280番「馬槽のなかに」であります。娼婦、税吏、子どもたち、病気に苦しみ、悲しむ人々と思いを分かち合い、席を共にする日々。


 私たちは、主が十字架に向かう最後の時、弟子たちに与えられた新しい掟に心留めたく思います。「わたしがあなたがたを愛したように」と主は言われました。そう。主の愛に支えられ、導かれてここまで歩んできた私たちです。そして「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」私たちの愛の行為は微々たるものかもしれません。しかし主がなさったように「寄り添う」ことで私たちはその愛を示すことが出来るのです。教会は愛ある交わりの場!

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