舌は火です。舌は「不義の世界」です。・・・舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。
(ヤコブの手紙3:6,8-12)
ヤコブは舌について、「火」だと言います。そうですよね。舌が発する言葉によって他の人を傷つけたり、また発言内容によって「炎上する」ことが起きてしまいます。また舌の二面性も指摘します。主を賛美する同じ舌で、人間を呪うこともする。そのようなことがあってはならないので、ヤコブはしっかりと「わたしの兄弟たち」に書き送るわけです。
ヤコブがここまで語るのは、人間という存在を徹底して見つめているからでしょう。人は「神の似姿に造られた」存在です。舌は神さまを賛美するために与えられています。けれども現実はそうなりません。そう出来ないのです。はかなくもろい土の器にすぎません。
ヤコブのことばのうちには、人という存在の悲しさがあります。現実の私たちは、神さまによって造られたような形で自分を正しく用いることが出来ません。悪や汚れの部分が入り込み、他の人たちを巻き込んでしまいます。人生の歩みを狂わせてしまうこともあります。そういう危うさ!
泉が、イチジクの木が、ぶどうの木が、本来あってはならないようになってしまう危険性!!矛盾、存在の悲しさ、虚しさ、苛立ちが出てきます。
どうしたら、舌を制御できるでしょうか?また、他の人を批判せずにすむでしょうか? 主イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7:1-3)とおっしゃいました。「自分は正しい。あの人は間違っている。」との思いで私たちは行動しやすい。自分と違った意見を他の人が言うのを聞いて、許せない気持ちになったりします。こんなエピソードを紹介します。
猟師が鉄砲を撃って、鳥を仕留めました。それを目撃した3人が言いました。最初の人は「鉄砲を撃った」2番目の人は「弾を撃った」3番目の人は「鳥を撃った」。誰も間違っていません。しかし、表現の仕方が違いました。しかし、自分の言い方をベストと思い、他の人の表現を許容出来ないことがあり、諍いの種となります。私たちが主イエスの「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」に従ったならば解決の道が開かれます。土の器に宝を納めている(Ⅱコリント4:7)私たち。