闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光りが輝いた。・・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 (イザヤ書9:1,6)
今日は待降節第二主日です。信仰によって、クリスマスの喜びを先取りすることが出来ます。預言者イザヤの力強いメッセージを聴きましょう。預言者とは、現状を分析して「ここが問題だ」と批評する者でもなく、また、人々を一時的に安心させる「偽りの平和」を宣べ伝える者でもありません。厳しい苦難と暗闇があっても、神様の約束を語り続けるのです。
北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、その脅威が南王国ユダにも迫っている状況です。その恐れを感じている苦難と暗黒の時代です。
けれどもイザヤは、闇を覆す神様の約束を取り次いでいます。「闇の中を歩む民は大いなる光を見た。」と宣言します。まるでもぉ神様の約束が実現しているかのように、信仰の目でその光を見ています。(ミカ5章)
この光こそ、イエス・キリストです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)とある通り。イザヤを通して「ひとりのみどりごが与えられる」との約束がなされます。それは700年後に実現します。神様のご計画、年月はかかるようですが、必ずや実現します。私たちはすぐに実現しないと、「まるで神様は私たちを愛してくれていない」と、ふてくされます。けれども、絶望的な暗闇のような世界に光が射し込んできている、その「希望の光」を待ち望みつつ、ユダヤの民は喜び、前を向いていくことが出来たのです。
私たちにおいて「暗闇」とは何でしょう。神様の愛ゆえにこの世に送り出された人間は、互いに愛し合うことによってのみ、幸せになることが出来ます。ところがそれを覆い隠すものがあります。「人のことなぞかまってられない。自分さえ良ければいい」というわがままがあったり、「あんな人は絶対にゆるせない。」という憎しみにとらわれてしまったりして、私たちは愛することから遠ざかってしまいます。この愛を遠ざけてしまうもの、それが闇なのでしょう。競い合ったり、憎み合ったりして、本来の姿を忘れてしまうのです。神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない命、かぎりなく尊い命であることを忘れてしまいがちです。
そういう私たちを見るに見かねて、愛そのものである神様御自身が、人間となってこの世界に現れました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:1,14)神の愛そのものであるイエス・キリストは、私たち一人ひとりが神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない存在であること、競い合う必要などまったくないということ、互いに愛し合うことによってのみ幸せになれるのだということを思い出させるために、この世界にやって来られたのです。暗闇の中に輝く光、イエス様を喜んで迎えたいと願います。