ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。… 主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主が あなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。」
(サムエル記上24:5b-11,13)
兵を率いてダビデを追ってきたサウルは、洞窟に入って用を足そうとしました。ところがその奥に、ダビデと兵がひそんでおりました。ダビデの兵はサウル王を討つまたとないチャンス!と勧め、ダビデもひそかに近付いてサウルの上着の端を切り取りました。が、それにとどめ、サウルを討とうとしませんでした。切り取ったことにも良心の呵責を覚えたほどです。
「主が油注がれた方に、わたしが手をかけることをしない。」と言います。
たしかに、ここでサウル王を討取れば、もう逃げ回らなくていいのです。けれどもダビデは自分の利益となるよう行動するのではなく、神様を中心に物事を見極め、それを第一する生き方をするのです。
サウルの後から洞窟を出て行き謙遜に臣下として礼をつくします。証拠としての上着の端を見せ、自分には皮逆心が全くないことを言明します。自分を「死んだ犬、一匹の蚤」と呼び追跡するに値しない存在であると。復讐や裁きは主の御手に全く委ねていると言い切ります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ12:19)を思い出します。
サウルも悪霊の支配下にない時は、ものの道理もよくわかり、自分の非を悔い、感動して涙を流すほどでした。ここでダビデを褒め称え、王位は必ずダビデのものとして確立する、とまで言うのです。しかし、悲しいことに、サウルが正気に戻り、心が柔らかになったのは一時的なことでした。そのことをよくわきまえていたダビデはこの後、サウルと行動を共にせず、エン・ゲディの要塞に上って行きました。
私たちの生活において相手と争い、憎んだりしませんか。憎しみの炎以上に、悪魔を喜ばせるものはありません。燃え上がった炎は、双方を焼き尽くすまで消えません。悪魔の挑発にはのりたくありませんねえ。
相手と争ったとき、「自分が勝つか、相手が勝つか」と思わず、「悪魔が勝つか、神様が勝つか」と考えることです。憎しみに負ければ悪魔の勝ち、愛が憎しみを打ち破れば神様の勝ちなのです。主が勝利してくださる!