ハンナは言った。 「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたがたのそばに立って主が祈ったあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」 彼らはそこで主を礼拝した。
(サムエル記上1:26-28)
熱心に祈ったハンナの祈りはきかれました。「主は彼女を御心に留められた。」(1:19)とあります。 苦しみ悩んだハンナではありましたが、主が絶望の底から引き上げてくださいました。私たちの人生においてもそういうことがあるのです。ひたすら絶望的な状況にあって、これは「祈るしかない!」と。そうです。 他に方法がなく、「この類いは祈りによらなければ解決しない」と感じて「祈る!!」そして、私たちの涙をぬぐってくださる方にお会いして、平安と希望を見出すのです。 (クリスチャンと言いながら、余りにも主に頼ることをせず、祈らない方が多いような気が致します。) 祈るとき、私たちは両手を組みます。心と思いと願いを両手で包みます。 「主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れくださる。」(詩編6:9)2章冒頭のハンナの祈り「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き御救いを喜び祝う。 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。 岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」 主による救いを高らかに賛美します。 祈りがきかれたことへの感謝があふれ出ています。
私たちの生活において、どれだけ「神さまつながり」をしているだろうか、そこが信仰のポイントになってきます。 祭司エリに酒に酔っていると誤解されるほど熱心に祈っていたハンナ。 彼女は祈りの手応えを感じ、そして願った通りサムエルを産むことが出来ました。 そして規定に従って、わが子を祝福して頂く為に祭司エリの前に出て「あなたのそばに立って主に祈っていたあの女」と自らを現し、「この子を主にゆだねます。」と言い切ります。 祈り願って叶えられた!その感謝を表し、サムエルを献げます。
「子どもが与えられ自分の悩みは解決した。」で問題解決、すべて終了!というのではないんですね。 ここがハンナの信仰が「篤い」と言えるところです。 主が為してくださったことへの感謝と共に、それに対してどう応えたらいいのか、それが分かり、実行にうつします。 説教の後に、讃美歌21の521番「とらえたまえ、われらを」を賛美します。 その4節で、「♪とらえたまえ、われらを。満たしたまえ、聖霊を。わがすべてをささげて 主のみ旨に 従わん♪」と歌います。 先週はペンテコステを記念して礼拝をささげました。 聖霊降臨を願う讃美歌を歌うタイミングの良さを覚えます。 神さまを自分の願いをきいてもらうATMかなんかのように勘違いしやすい私たち。 しかしハンナの信仰ならい、感謝をどういう形で表していくかを課題にしたいと思います。 「主よ、とらえてください。」