こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへと出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一体の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の使わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
(ヨハネ18:1-5)
今週3月5日からレントが始まります。主イエスのご受難を覚え、その深い恵みを味わい知る教会暦です。今年はヨハネ福音書の記事を読み進めながら、この季節を過ごしたいと考えています。
最初にイエス様が弟子たちと一緒に、「キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。」と記されています。このキドロンというのはヘブル語で「暗い」という意味のことばです。イエス様は弟子たちと共にその谷に降りて行かれました。その谷の「向こうへ」出るために。
イエス様はいつもキドロンの谷の「向こう」へと、私たちを導いてくださいます。私たちに先立ってくださる方は暗黒の「向こう」の命へと一緒に歩いてくださるのです。暗黒を通って、であります。
さて、ユダに引き連れられた一団がやってきます。その時、イエス様は「御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て」とあります。すべてを引き受ける覚悟をもって、逃げも隠れもせずに捕縛の一団の前に進み出ます。「わたしである」と言います。そう言われたとき、彼らは後ずさりして地に倒れます。ヨハネ福音書は「栄光の主」のお姿を記します。そして弟子たちを去らせようとします。「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」との御言葉が実現します。
ところで軽挙妄動のペトロがとんでもない行動に出ます。剣を抜いて、大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としてしまったのです。ペトロとしては決死の覚悟で剣をふるったのでしょう。押し迫ってくる者たちの卑怯、卑劣な行動に我慢できなかったからです。しかし、イエス様はペトロの闘いを制止されました。そういう人間たちを切り捨てたとしても、問題は解決しないからです。私たちも取り巻く悪人たちを皆切り捨てたら、問題は解決するでしょうか?いえ、解決しないのです。深刻な問題は自分を含めた人間すべての中にあるからです。この問題を解決するために、救い主は自らを神様の審きの下に置かれたのです。神の子の受難を外にして人間の救いはどこにもありません。