さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネ福音書20:26-29)
トマスには「疑り深い人」というイメージがあります。しかし、彼ほど正直で、自分の思っていることを率直に表現出来る人もいないでしょう。イエス様が危険にさらされていることを知ると「わたしたちも一緒に死のうではないか」(11:16)と言葉を発します。情熱を感じます。
イエス様が弟子たちに会いに来た時、どういう事情かその場にトマスだけおりませんでした。弟子たちは主が会いに来てくださったので興奮して、その感動をトマスにも語りました。しかし、トマスは寝食も苦楽も共にした仲間たちの言葉を信じられません。そして仲間以上に「体験」を求めました。「見る」だけでなく「触る」ことが必要だと。イエス様の両手の釘跡に自分の指を入れ、わき腹の傷口に手を入れたいと言います。それをしなければ決して信じないと断言します。
疑いそのものは悪くありません。疑うことで「問い」が生まれ、新たな発見に結びつき、誤解や偏見が取り除かれるよい場合もあるからです。しかし、疑いがかたくなさにつながる場合があります。トマスもそうでした。彼は、復活の主が来た時に居合わせなかったことで、自分だけが疎外されたと感じたことでしょう。体験しなかったので寂しかったかと思われます。
けれども、彼は弟子たちの交わりから離れませんでした。信仰の共同体の交わりにとどまり続けたのです。これはとても大切なことです。なぜなら、神様への疑い、信仰の不調、不満、霊的なスランプは信仰者の群れ、教会を離れては克服できないからです。仲間たちもトマスを非難しないで、「信じられないならよそへ行ってくれ」とは言わず、疑い深いトマスをそのまま受け入れています。仲間として認めていく、これもまた大切です。
そして、8日後にイエス様が現れ、トマスに語りかけられます。主はトマスの発言を心に留め、「あなたの指を•••入れなさい。」と自らに触れるように示します。マリアには「さわるな」と言ったイエス様でしたが、ここでは「さわれ」と。それぞれに適切な言葉がけをしています。人が信じて生きられるように、個別に対応なさっています。私たちに対してもそうですよね。聖書の言葉で示される方、霊的な交わりの中で示される方、それぞれに違いがあり、そうであっていいのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは応えます。「わたしの主、わたしの神よ」
