わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、ロにくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。
(ヤコプの手紙3:2ー5)
ヤコブは3章で「わたしたちは皆、度々過ちを犯す・・・」と語り始め、人と人との間で生きようとすれば、私たちは皆、過ちを犯すのだ、と現実を見据えています。神さまを信じ、主イエスを自分の救い主と信じて、「神の子とされているクリスチャン」は、その信仰が行いや生活に現れ出て当然なのですが、いかがでしょうか?そう。生きている以上、過ちを犯してしまいます。自分の尊厳を傷つけたり、他人を傷つけたり、傷つけられたりします。私たちは完璧な者ではあり得ないのです。
信仰が行いという形で外に現れます。そして、行うことで必ず挫折や失敗を経験致します。それは誰でも同じなのではないでしょうか。
とりわけヤコブは自分たち教師・指導者の責任を真っ先にあげます。キリスト教会内で教師の立場に立つ者たちは、人の前に立つ分だけ、信徒の方々以上に過ちを犯しもしますし、何よりもその過ちが目立つと言えましょう。その結果、周りに及ぼす影響力も大きいわけです。私自身、来て、「ロは災いのもと」という事を身に沁みて感じております。一昨年の年頭所感で「今年は人の悪口を言わない」と宣言しましたら、ある教会員から「先生、それは難しいでしょう」と言われてしまいました。まあ、それで諦めることなく、かなりの期間、自らのロに気をつけて過ごしました。だいたいそれが定着したかなあ、なんて思い、あまり注意しないで過ごすようになりましたら、まあなんでしょうねぇ、いろいろトラブルが起きた状況では、やはり批判ということを口にしてしまうのです。そして、牧師である私がロにすることで、平気で批判の拡大が起きてしまうのです。
舌は小さな器官ですが、からだ全体を制御するよりも難しいと語られています。その例として、馬と船が取り上げられています。馬はくつわでもって体全体を支配できます。船はごく小さな舵によって動かせるのです。それほどに小さなものが全体に影響を与えるというのです。舌は小さな器官ですが、大言壮語して取り返しのつかない事態を引き起こします。小さな火が始まりでも、大きな森をも燃やしてしまいます。
私たちは長い人生で数々の過ちを犯します。そしていろいろな経験を積んでいきます。謝ること、悔い改めること、赦すこと、赦されること。そして自分の器の大小ではなく、父なる神さまの大きさに気づくのです。そして過ちを犯す私たちを包んでくれる主イエスの愛!その広さ、深さに気づき、アーメン、ハレルヤと感謝して生きていくのです。嬉しいですね。