御言葉を行う

メッセージ

 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

(ヤコブの手紙1:22-25)

 人生とは試練の連続かもしれません。しかし、神さまは天から恵みを注いでくださいます。何よりも神さまの言葉が私たちに伝えられています。御言葉は私たちのうちに植え付けられ、芽生え、育ち、成長へと導き、救いの完成に至ります。神さまの御言葉を素直に受け入れることが大切です。

今日の箇所で「御言葉を行う人になりなさい。」と勧めがなされています。

「御言葉を行う」とはどういうことでしょうか?

 主イエスの「種まきのたとえ」を思い出してみましょう。御言葉の種が道ばたに、岩地に、茨の間に、そして良い地に落ちたたとえです。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(マルコ4:8)「・・・善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ8:15)と主イエスは語られました。弟のヤコブは、子供の頃から兄の姿を見てましたので、納得していたかもしれません。

 「自分を欺いて」と「鏡に映った自分の姿を眺めても立ち去る人」と結びつけて感じることがあります。鏡というのは、神さまの御言葉です。鏡を見ると自分の本当の姿を知らされます。顔が汚れているとか髪の毛がくしゃくしゃであることを知らされ、顔を洗わなくちゃとか、髪の毛に櫛を入れなきゃと気づかされます。けれどもそれに気づきながら、何もしないでそこから立ち去り、忘れてしまうことが「自分を欺く」ということです。

私たちは罪ある自分を神さまの御言葉によって知り、悔い改めや信仰を求めることにつながります。しかし、それをしないまま立ち去ってしまうのです。神さまの「立ち帰りなさい」との呼びかけを無にしているのです。

 神さまの御言葉は、私たちが静まって聴き、鏡をじっと見ることで、「実行する人」を生み出します。実行しようと願い始め、心がけていき、実行へと導かれるのです。それは私たちの努力というより、神さまが御言葉によって開いてくださる道、恵みの賜物です。人間が思う幸せというより、神さまによって祝福された状態を指しています。見えない信仰を具体的に見える行いによって証明していく。祝福を体現しているのですねぇ。

 「御言葉を受け入れる」(21節)と「御言葉を行う」(22節)には密接なつながりがあります。御言葉という鏡を見て、それから知らされたことを心に留め、日々積み重ねて、実行する人に育てられていくのです。