ぶどうの木の教え

 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

(ヨハネによる福音書15:4-5)

 最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた主イエスは、弟子たちに向けて「告別説教」を語り始められたのです。そこで、「互いに愛し合いなさい。」(13:34-35)という新しい戒めを与えられました。御自身と弟子たちの別れが近いことを知っておられた主は、弟子たちに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(14:1)と語ります。また、父の家には多くの住まいがあり、彼らのために場所を備えに行くと約束されたのです。(14:3)

 また、私が派遣の言葉に用いている「わたしは道であり、真理であり、命である。」(14:6)と語り、御自身を通してのみ、天の父に至ることが出来ると教えられたのです。弟子たちを思いやる言葉にあふれています。

 旧約聖書ではたびたび神の民イスラエルが、「ぶどう畑」や「ぶどうの木」に例えられています。しかし、イスラエルは神さまに背き、実を結ぼうとせず、神さまの期待に応えることができませんでした。その背景を承知で主イエスは御自身を「まことのぶどうの木」と語りました。そして、この主イエスにつながる弟子こそ、まことの神の民であることをおっしゃられたのです。

 イエス様につながる。これが大切なことです。特に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(15:9)とありますように、「とどまる」ことの大事さが言われます。「とどまる」とは一時的な関係ではなく、日々、絶え間なく主イエスと結びつき、深い交わりの中に生きることを意味しています。

 イエス様の愛にとどまることで、私たちには喜びがあふれます。私は牧師として、ぜひともその体験をみなさんにして頂きたいと願っています。それが顕著に経験できるのは、祈りのときではないでしょうか。私自身、人生の折々に辛い中で涙ながらに祈ったことがありました。そして、そのたびに「涙をぬぐってくださる方」(ヨハネ黙示録21:3-4)が傍らにいてくださっている幸いを味わいました。

 主が最後に弟子たちに遺した言葉を受け止め、今もなお主に従おうとする私たちクリスチャンに変わらぬ愛を注いでらっしゃることを覚え、このレントの季節「誰がために主は十字架におかかりになったか」に感謝の思いをもって生きていきましょう。たしかに自らの罪の深さにおののきます。けれども、それを覆う主の愛の深さを覚える時であります。アーメン