イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分 が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席 から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それか ら、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふ き始められた。シモン•ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あ なたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、わかるよ うになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないで ください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、 あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
(ヨハネ福音書13:3-8)
洗足の記事です。まず注目すべきは、イエス様が御自分の受難を想定し ながら、「弟子たちをこの上なく愛し抜かれた」ことにより、足を洗うと いう行動に出た、ということです。一日中、外歩きをして汚れた足を洗う ことは気持ちの良いことです。それは通常、奴隸の仕事でした。しかし、 ここでは、主イエス御自身がしもべの姿を取り、弟子たちの足を洗ったの です。その真意をはかりかねたペトロは「足を洗わないでください」と拒 もうとしました。けれども、そのペトロとの会話で、足を洗うことが、主 と弟子との関わりには大切なことだとおっしゃり、足を洗い続けたのです。 弟子たちと離れる前に、足を洗うことで弟子への愛を示されたのです。 そして主を裏切ることになるイスカリオテのユダの足も洗いました。彼の 裏切りを承知でその足をお洗いになりました。なんという愛の深さ。
次に注目すべきは、この洗足で弟子たちに教えられたことがあります。 弟子たちの足を洗い終えた主は、再び席に着かれました。そして「わたし があなたがたにしたことがわかるか」と弟子たちに問いかけます。「主」 であり、「師」であるイエス様が足を洗ったのだから、「あなたがたも互い に足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、 あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」と言いました。主 は口先だけで「互いに愛し合いなさい」と言われたのではありません。ご 自身が実際に奴隸の姿をとって弟子たちの足を洗い、愛をもって仕えられ たのです。これこそが、主が示された模範であり、弟子たちが見倣う道で あります。主イエスの弟子たる者、傲慢で横柄な生き方をするのではなく、
「仕える」者とならなければならないのです。
ただし、単なる謙遜さを示したのではありません。これから起こるであ ろう十字架の死と復活によって誕生する、新しい信仰者の交わり(教会) のあるべき姿を示したのです。主の愛に支えられ、主の愛のうちを歩み、 互いに仕え合って生きることを示されたのです。「兄弟たち、あなたがた は、自由を得るために召しだされたのです。ただ、この自由を、肉に罪を 犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5 :1
3)まず主が仕える模範を示してくださいました。それに倣って生きる!
