悲しみを担う

 

ペリシテ軍はサウルとその息子たちに迫り、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを討った。サウルに対する攻撃も激しくなり、射手たちがサウルを見つけ、サウルは彼らによって深手を負った。サウルは彼の武器を持つ従卒に命じた。「お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ。あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない。」だが従卒は非常に恐れ、そうすることができなかったので、サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した。 

                 (サムエル記上31:2-4)

 

 サウルの生涯は悲劇的なものでした。民が願い、イスラエルの初代王として歓呼して迎え入れられ、勝利の喜びを味わいました。けれどもダビデとの蜜月時代から一転して猜疑心が芽生え、殺害の意志をもってダビデを追いかけます。私たちが彼の生涯を見渡すとき、その悲劇性は神さまとのかかわりから来ていることに気づき、恐れおののくばかりです。

 サムエル記上31章は、サウル王が失意の中で霊媒の女性のもとを去った翌日の出来事を記しています。前日、サウルは敵陣を見て恐怖を覚え、神さまの伺いを立てました。しかし、神さまは沈黙され、サウルは霊媒に走ったのです。発狂寸前のぎりぎりの精神状態の中で、ただ一つ、神さまが自分を捨てておられるとハッキリわかったのです。

 捨てられる、とはどういうことでしょうか。これは周囲の者から見放されることも含みますが、根本的には神さまから遺棄されたということです。一人の人間が罪の故に神さまから見放されたというより、サウルが王であったからこそ、捨てられたのです。王にふさわしい神さまへの従順を全うしなかった故に、王としての職務を解かれた者の死でありました。そして31章はサウル王が死の宣告を受けてもなお、戦いを放棄せずに、国民を守り抜く者として、最後の力を振り絞って戦死する姿を記しています。

 しかし、王として一番大事なこと、「神さまへの信頼と服従に生きなければならない」ことを最後まで理解できなかったのです。以前に預言者サムエルによって厳しい指摘があったこともそうでした。その意味を理解できずに悩み、他方王として国を守るという確信に満ちた責任感に生きようとする。それで彼自身だけでなく、周囲の者も振り回されたのです。

 このことは牧師である私も厳しく受け止めなければ、と思うところです。

 サウル王の欠陥を指摘して終わり、ではいけません。人間が持つ罪の実体が露わになっているのです。そして、欠陥を追究するのではなく、捨てられた者の悲しみに共鳴し、共有することができるようにしたいものです。サウルと神さまのつながりという核心に少しでも近づけたら、と願います。

 悲しみを共に担ってくださり、捨てられた者を拾ってくださる方の存在を私たちは知っています。私たちは罪人でありながらも、安心して生きていけます。その方を覚えて、日々祈りつつ生きていきましょう。アーメン。