この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
(ヨハネ19:28-30)
イエス様が十字架につかれて息を引き取られる場面です。しかし、ヨハネ福音書は他の福音書と違った書き方をしています。それは「渇く」という言葉です。これは詩編22:16の言葉の成就です。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」 苦難の僕としてのお姿です。イエス様は十字架の上で、私たちの罪のために渇いた者となってくださいました。御父に愛されたhとり子として栄光に満ちていた方が、渇きを味わったのです。このように苦しまれ、みじめな姿におなりになって私たちの罪の赦しを実現なされたのです。なんという恵み、なんという深い憐れみでしょう。 そしてまた「成し遂げられた」ともおっしゃいました。何が成し遂げられたのでしょうか?そう。主が十字架につかれたことで、決定的なこと、救いのみわざが成し遂げられました。私たちのすべての罪を御自分が背負い、御父のすべてのさばきを受けてくださったのです。それはそれは重い任務でした。ゲッセマネの園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈ったほどでした。傍らにいた弟子達はどうだったでしょう。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と主が言ったにもかかわらず眠りこけていました。そして逮捕の折には、主を見捨てて逃げ去りました。そういう弟子達の弱さ愚かさという罪も含めて、主は十字架についたのです。これほどの赦し、これほどの愛が他にあるでしょうか。 ヨハネ福音書10章で、主は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とおっしゃっています。また「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」と言明しています。一匹の迷いやすい羊ですある私たち。しかし主はこの私を覚え、愛し、慈しんでくださいます。迷わないように、囲いの中に入れてくださいます。迷った時には捜して見出してくださるお方です。2千年前に打ち立てられた十字架は、罪人のしるしでしたが、教会を通して救いのしるしに変わりました。十字架のそばに婦人たちが立っていました。苦しみ悩みのそばに身を置きそこから流れ出る慰めと恵みを受け取りました。「主よあなたの傍らにおいてください。」