メッセージ
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。・・・ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
(ルカ福音書2:1、4-7)
「ローマ帝国の住民は全員住民登録をせよ」という命令が、皇帝アウグストゥスから出されました。人々は自分の出身地で名前を届け出なければなりません。ヨセフがダビデ王の子孫だったので、ナザレからダビデ王の町ベツレヘムまで110㎞ほどの道を行かざるをえませんでした。おなかが大きくなってきたマリアにとって、どれほど大変な旅であったか察することができます。ようやくベツレヘムの町に到着しました。ところが町は同じように住民登録のために来た人であふれ、ごった返していました。ヨセフは泊まれる宿を探しましたが、どこもお客でいっぱいです。「妻がもうすぐ赤ちゃんが生まれそうなんです。」「どの部屋もいっぱいでねぇ。」との問答を繰り返して何軒の宿にも断られてしまいました。しかし「家畜小屋でよければ使っておくれ」と言ってくれる人がいました。家畜小屋とは!決して清潔ではありません。それでも二人は休む場所が与えられたことを感謝して、そこに泊まりました。そして、マリアはその家畜小屋で元気な赤ちゃんを産んだのです。皆が待ち望んでいた救い主イエス様が世のすべての人のために、誕生なさったのです。
私たちはクリスマスの度に、イエス様の誕生を喜び心からクリスマスの讃美歌を歌います。初代教会のパウロがフィリピの人々へ書き送った手紙の中でもイエス様をほめたたえる賛美の言葉を記しました。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)
イエス様は神様の御子であり、私たちの救い主であるお方なのに、罪深い私たちと同じ人間の姿になって私たちの間に住んでくださいました。お生まれになった時から、貧しさや、泊まる所がないなどの惨めさ、弱さも経験なさったのです。
そしてイエス様は最後にどのように死なれたのでしょうか? そう。私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったのです。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。(Ⅰテモテ1:15)
私たちが罪赦されて永遠の命を受けるためにお生まれくださったイエス様に感謝して、私たちの救い主イエス様をお迎えしましょう。
わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、このはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
(ルカ福音書1:46-50)
人間の歴史上だれひとり経験したことのない経験をマリアはいたします。神の救い主が彼女から生まれるというのです。どうしてそんなことが信じられるでしょうか。マリアにはとうてい理解できないことでありました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は告げます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(35-37節)
彼女はこの約束を受け入れました。「わたしは主のはしためです。御言葉どおりに、この身に成りますように。」(38節)神様の大いなる救いの御わざは、一人のおとめの受容の信仰をもって、この世に実現したのです。信仰は納得してわかるということから始まるのではありません。神様のご計画をそのまま受け入れることによるのです。たしかに戸惑うことがありましょう。マリアも「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28節)との天使の挨拶を受けたとき、戸惑い、この挨拶は何のことかと考え込んだとあります。あれこれ思案しつつ、神様の御心を問い、祈るのです。そうして神様からの答えを頂くのです。神様の言葉を思いめぐらす者に、神様はしるしを見せてくださいます。主はほむべきかな。
「主のはしため」という言葉に現されているように、マリアの基本姿勢は「へりくだり」です。私たちはともすると傲慢になり、人を見下したりします。時には神様に向かってさえ文句たらたらです。「神にできないことはない」と言われて、38節のように返答します。この答えにはマリアの決心と覚悟が詰まっています。天使の言葉通りになれば、ヨセフと周囲から不貞を疑われ、婚約解消となり、最悪の場合は石打刑になるかもしれません。しかし、マリアはそのようなことも覚悟のうえで、主の御前にへりくだり、主に従う信仰を告白したのです。
マリアは神様の憐れみを深く覚えています。神様はアブラハムに語られた約束の通り、失敗を繰り返す子孫への憐れみを決して忘れず、助けてくださいます。御前に低くされへりくだる小さき者や罪人を高く上げ、飢えている者を満ち足らせてくださいます。罪人を救うために、救い主イエス様を遣わしてくださるのです。マリアは神様の救いの御計画を知らされ、自分が救い主の母という特別な立場になって喜んだのではなく、神様が民を思い救ってくださることを喜んで心が満たされました。メリーXマス!
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。
(ルカ福音書1:76-79)
主イエスの先駆者としての洗礼者ヨハネ。その誕生の次第が記されています。このザカリアという人物にスポットをあててみましょう。彼が、ある意味、とても私たちの信仰の姿に似ているからです。
彼は祭司として、清く正しい生活を送っておりました。クリスチャンとして生きている私たちにも反映されます。そして妻エリサベトとの生活は穏やかなものでした。ただ一つ不足していると思っていたのは、子どもがいないことでした。それを長年、祈り願っておりましたけれど、いつの間にか年を取ってしまいました。だからもぉ子どもについては「諦めた」という状態でした。自分の残りの生涯をつつがなく過ごし、もはや奇跡など起きないと思っていたはずです。ところがです。人生には上り坂、下り坂、があります。もう一つ「まさか」があるんですねぇ。その、まさかの出来事が起こりました。今回至聖所に入っていた時に、天使が現れました!
ザカリアは「恐怖の念に襲われた」のです。
天使は言いました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」その誕生には喜びがあふれ、またその子の使命も告げられています。神様の救いのご計画に組み込まれているのです。
そう。長年の祈りが聞き入れられました。しかし、天使に告げられた時、ザカリアは恐れました。私たちクリスチャンも、心にかかる課題があり、その為に祈りを積み重ねています。その祈りはなかば習慣化しています。
しかし、祈りというのは私たちが「かないそうにないけれども、まずは祈っておこう」というのではないんですね。口から出るため息ではなく、聞いてくださる方がおられます。いつか思いがけない時に、思いがけない仕方で応えられるのです。その時祈った者自身が恐れるのです。
神様はそのように私たちを圧倒することによって信仰を新たにしてくださいます。ザカリアは常識をもった者として「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と反論します。主がなそうとする奇跡を信じなかったので「この事の起こる日まで話すことが出来なくなる。」と言われました。そしてその通りになり、ヨハネが誕生しました。主は奇しきかな。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。
(イザヤ書9:5、11:1-2)
アドベントに入りました。主イエス・キリストのご降誕を待ち望む季節です。(日本では、この世的にプレゼントを待ち望む季節となっていますけれども。最大のプレゼントはイエス・キリストであることを教会は高らかに宣伝していきたいと思っています。)教会の一年はここに始まります。
クリスマスツリーを飾り、アドベントクランツのキャンドルに灯がともり、私たちの心にも光がともることを祈っています。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(テトス2:11)
上記のイザヤ書の御言葉は、イエス・キリストの誕生を告げる預言と言われています。イザヤが活躍した年代は紀元前7世紀です。そう、キリストが誕生するまでに700年も年月を経たのです。この事は、私たち人間の思いをはるかに超えた、神様のお考え、ご計画の年月を思わされます。私たちは「すぐに実現する」ことを一番と考え、時にはそれが叶わないと、祈りをやめてしまうことさえあります。しかし、神様の時は、人間の思いを超えて、はるかに長~いのです。最初に主の誕生預言を告げられたユダヤの人々は、子ども讃美歌にあるとおり、「♪昔、ユダヤの人々は神様からのお約束、尊い主の誕生を何百年も待ちました♪」であったのです。そうして久しく待ち望んだイエス様が、ダビデの子孫としてお生まれになりました。神様はお約束を違える方ではありません。
そして、誕生を告げるイザヤ書はイエス様の生涯の最後をも告げています。「神に従ったあの人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。しかし、平和が訪れる。」(57:1-2)また、「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために。わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる」(57:18-19)
私たちは平和を願っています。戦争のニュースを聞く度に心がふさぎます。そして「神様、これはいつまで続くのですか?」と祈りの中で問わざるを得ません。しかし、創造主である神様は人間の世界をしっかりと御覧になっておられます。そして、私たち人間が、自分中心の利益追求することから変えられていくことを願っています。気づきが与えられるように、御言葉を示してくださいます。「あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、ま昼のようになる。」(58:10)喜んで生きましょう。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
(ヨハネ福音書15:11-16)
イエス様は、私たちがご自分の愛にとどまり続けること、そして互いに愛し合うことをお命じになりました。この戒めは重荷ではなく、私たちが喜びで満ちあふれるようになるための祝福です。主の愛にとどまり、互いに愛し合うことで、喜びで満ちあふれる生活を送りたいものです。
また「あなたがたはわたしの友である。」との言葉、嬉しいですねぇ。イエス様と弟子たちの関係は「主人と僕」ではない、と言うのです。「友」と呼び、またそれにふさわしい間柄になろうとされています。これは13節にあります「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と関わってきます。私たちは短絡的に「友のために」か、じゃあ私はどんな自己犠牲を払ったらいいのかとの思いに走りがちです。しかしイエス様は弟子たちを「友」と呼び、弟子たちを始めとする多くの人の罪を帳消しにするために、十字架にかかり命を捨てられました。その愛の大きさ、深さを覚えます。だからイエス様と私たちの間柄について、しっかりと確認しておきましょう。イエス様が「友」と呼んでくださり、その手をさし延べてくださっています。私たちはその手を握り返すだけでよいのです。そして「共にいます主」は私の友なんだ、と喜んで生きていけばよいのです。
イエス様の友であるしるしは二つあります。イエス様の命じる愛の掟「互いに愛し合いなさい」を行うこと。それと父なる神様のみこころを知らされていることです。「互いに愛し合う」は実践ですから、それをするかしないかにかかってきます。けれども「神様のみこころを知らされている」については、「はて?」と思ってしまう方がいるかもしれません。そこで大切なのは、「祈って読んで賛美して」です。「主を主として過ごす」ことで、不安が確信に変えられます。信仰生活の基本を大切にしてください。恵みあふれる生活を送ることが出来ます。
ここでもう一度覚えたいのは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」とのイエス様の言葉です。ここでイエス様は、私たちではなく、イエス様ご自身が主であり、主権者であることをはっきりさせています。イエス様は、私たちが実を結んで父なる神様の栄光を現すために、私たちを選んでくださったのです。