メッセージ
あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネ8:7b-11)
イエス様を陥れようと、姦通した女性が引っ張られてきました。モーセの律法においては「石打ちせよ」と定められていました。だから、「石で打ってはならない」とイエス様が言えば、律法に反するかどで告発できるでしょう。逆に「石で打て」と言えば、罪人に対する神様の憐れみを説いてきた教えと矛盾します。また石打=死刑を宣言することは、ローマ帝国が死刑の権限を持つという状況下では、ローマ帝国の権威に立ち向かうことになるわけです。いずれにせよ、イエス様は苦境におかれたのです。
彼らの意図を知るイエス様は、最初関わろうとしないで、地面に書き物をしておりました。しかし、人々はしつこく迫ります。イエス様は身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。罪を犯した人に石を投げることはたやすいことかもしれません。正義感にかられて石を投げるのです。特に群衆心理が働くと、余計にそうなります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
けれども、イエス様はあえて一人一人に問うています。石を投げる前に、自分はそうした罪に本当に無関係かどうか吟味しなさいと。
その結果、年長者から始まって、一人また一人と立ち去りました。最後にイエス様とこの女性とが残りました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、だれも」この会話の後で、主は宣言なさいます。「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」主はこの女性の罪を見て見ぬふりをなさったのでしょうか。いいえ。主はこの女性の罪を御自分で引き受けられたのです。そして、罪の赦しを宣言なさったのです。もう罪を犯すな、と言って解放なさったのです。これは、私たちにも向けられている主の憐れみに裏打ちされた言葉です。罪にふける生活に後戻りするな、と言われています。
かえりみれば、私たちもまた罪に足をすくわれる愚かで弱い人間です。「罪に定めない」はまさに私たちに向けられています。「主よ、あなたが私たちの罪を引き受けて十字架にかかられたことを覚えます。主の深い恵みを味わい知ることが出来ますように。主の恵みに応えて生きていきます。」と日々祈ってまいりましょう。
こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はいなかった。さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。
(ヨハネ 7:43-46)
イエス様をめぐっては、人々の間でいろんなことが言われました。「あの預言者だ」とか「この人はメシアだ」とか。また「メシアはガリラヤから出るだろうか。」と疑問が出され、人々の間で対立が生じた、とあります。
イエス様が何者か、ということは主イエスの復活と昇天を経て、初代教会の群れが信じて仰ぎ、またペンテコステの出来事を通して確信が与えられ、伝道が展開されていったことにより、2千年の時を経た私たちには、自明のことであります。使徒信条によって信仰する内容が明確に現され、復活の主イエスに対しては「わが主よ、わが神よ」という信仰告白がなされています。
しかし、生前のイエス様に出会った人たちには「この人はいったい誰なのか?」という疑問がわきおこっていました。福音書を読み進めていきますと、イエス様を中心として同心円で現されるような人間模様があることがわかってきます。中心にイエス様、その周りに弟子達、またその周りに群衆といった人々の構図があります。それに対して、イエス様を快く思わない祭司長・ファリサイ派という集団があります。それはイエス様を中心とする円には組みこまれない人たちです。イエス様が人々を驚嘆させるような知恵ある教えを語ったり、奇跡を行ったりすることで、その対立の構図はいちだんと激しさを増します。「悔い改めよ、神の国は近づいた」と促されても、耳を閉じて聞こうとしない宗教者、それも特権階級に属する人たちがいたんですね。自分を保持して、神様の働きかけに対して心組みを変えようとしない人たち。主イエスはそれらの人々の捕縛しようとする策略をかいくぐって来ました。まだ「主イエスの時」が来ていないから。
一方において祭司長やファリサイ派の下役たちは、むしろ心が柔軟であったようです。「イエスを捕らえる」という目的を託されて来てみたけれど、???手をかけることは出来ませんでした。むしろ、イエス様のそば近くに来て、話を聞くに及ぶと「ひょっとしてこの人がメシアかも」という思いに変えられていきます。それは彼らの祭司長たちへの答えの中に現れています。「今まで、あの人のように話した人はいません」イエス様を知れば知るほど、心が砕かれ、メシアかと思うほどになったのです。これはすごいことです。律法を守っていると豪語していたファリサイ派の学者たちよりも、純粋にイエス様の語ったことに心砕かれ、手をかけることをしなかった下役たちに柔軟な姿勢があります。「打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)とある通り。
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
(詩編96:1-2)
仮庵祭りの後半に登場したイエス様に対して、人々は論議します。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。・・・議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、・・・メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」などなど。イエス様の登場はそれほど衝撃的であり、捕らえようとしたが、手をかける者はいなかったとある通り、「主イエスの時」はまだ来ていなかったのです。けれども人々の心には「メシアが来られても、この人より多くのしるしをなさるだろうか」との思いも出てきました。
イエス様を快く思わない祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエス様を捕らえるために下役たちを遣わした、とあります。その時もイエス様は人々を煙に巻くような言葉を発します。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と。え!見つけることがない、とはどういうこと?と混乱します。
しかし、そういう人々を前にしてイエス様は声を大にして、招きます。聖書に書いてあるとおり、ということではゼカリヤ書14:7-8を御覧ください。「ただ、ひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなくタベになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。」旧約聖書に記されていることが、今、主イエス・キリストにおいて実現しているのです。主のもとに招かれて進み出るとき、私たちは生きた水が川となって、流れ出る体験をするのですね。これはまた、イエス様を信じる者が受ける聖霊のことを言っています。だれでも、イエス様のもとに来るなら、例外なく、この御言葉の約束が実現します。
あなたがこの聖霊のいのちを経験するために、妨げになっているものは何でしようか。私は今回自分の身体の不具合を経験していろんなことを考えさせられました。2/1に横浜行きの予定を組み、早割高速バスチケットも購入しました。しかし歩くことすら出来なくなって、予定が狂いました。新しい状況下におかれて、ベストを尽くして対応するしかない、と思いました。焦らず、急がず、無理をしないで、一歩一歩を踏み出すしかないと思いました。また何とかしなきゃ、と頑張るのでなく、周りの人に甘えて頼ることの大切さを知りました。心組みを変える必要があったのです。
イエス様は弱い私たちを承知で招いてくださっています。だから信じる者の幸いを覚えましよう。「イエス様、あなたの聖霊のいのちの豊かさを私に経験させてください」と祈り続けていきましよう。
新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
(詩編 9 6 :1ー2)
今年度の教会主題聖句をもう一度取り上げて、深く味わいたいと思います。今年は賛美を中心テーマにして、教会生活を展開してきました。幸いにコロナ禍も収束の傾向を見せており、私達の礼拝が高らかに賛美しても大丈夫!というようになりました。
その中で今回、あるキリスト教関係の先生の言葉が心にとまりました。
「キリスト教は歌う宗教だ」というのです。なるほど、と思いました。その先生は続けてこうもおっしゃっていました。「なぜなら、キリスト教はゆるしの宗教であり喜びの宗教だからです。どこまでいってもエゴイズムの虜である私達を、主は赦してくださり、そのままでよいからわたしのところに来なさい、と招いてくださっているのです。これほどの喜びはありません。」そうなんですよねえ。主の赦しがあるから生きられる!これが実感出来るとふつふつと喜びがわき上がってくるんですね。だからその先生は「私達のような人間が神に愛されている、その喜びがあふれ出て歌になるのです。だから歌わないのはキリスト教ではありません。」と。
私達の群れは喜び、賛美の声高らかにあげているでしょうか。もちろん年齢的なものもありますから、若い方々のように声張り上げて歌うとは、いかないのかもしれません。しかし、確実に救いの喜びを味わった者だけが経験する、心からの賛美はそれぞれのレベルにおいてしていると言い切れることでしよう。同じ詩編に「主を賛美するために民は創造された。」(詩 102:19 )とあります。神様が第一にお喜びになるわざが「賛美」なのです。幸雄牧師が生前「私の苦手は悪魔とおたまじゃくし」と言っておりました。自分が音痴でダミ声なのを気にしていたんですね。牧師仲間には美声で朗々と歌い上げる方々がいますので、そんなことを感じていたようです。しかし、私達は幸雄牧師の信仰に裏打ちされた説教を聞いて、カづけられたのも事実です。キリストに倣おうと努力していたことも知っています。だからプロの声楽家ならいざ知らず、プロのキリスト者として心からの賛美を献げたら良いのです。少々音程を外そうとも、イエス様に出会った喜びが賛美の原動力になっていれば良いのです。自分など神様から愛されるに値しない者だけれども、神様に覚えられ愛されている。この愛があるから大丈夫。ベトロなどイエス様を3度も否定したけれども、赦されて再び伝道へと遣わされていきます。すんばらしい主イエスの愛というキャンプソングがあります。主の愛は深く広い。それを歌います。
この小さな群れですけれども、赦しがあり喜びが湧き出す時、地上における神の国となっているのです。主の十字架を仰ぎ見て、賛美しましょう。
祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
(ヨハネ 7:14-18)
行かないと言っていたイエス様でしたが、兄弟たちが仮庵祭に上って行ったあとで、隠れるようにして祭りに行かれました。それが父なる神様の御心だと分かったからです。そして祭りの後半で、神殿の境内において教え始められました。イエス様の教えの素晴らしさにユダヤ人たちは驚愕します。「この人は学問したわけでもないのに」とまで言います。ラビの学校に行っていないのにもかかわらず、と。 ここに現代の私達にも通じる、「見かけで判断する」誤りが見受けられます。〇〇学校の出身とか、××企業に所属しているとか、外見や経歴で判断してしまう傾向がある訳です。
しかし、人の思惑を超えて、イエス様はおっしゃいます。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」人に評価されて天狗になるのではなく、自分自身を誇示するのではなく、
「わたしをお遣わしになった方の教え」であると言うのです。あくまで父なる神様との関係を重視し、自分の発する言葉がその方に依ることを強調しているのです。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」イエス様の謙虚さ、すなわち父なる神様に栄光を帰すことが明確です。
「真実な人」とは、どういう人を言うのか。私達が生きる基本です。礼拝で歌っている讃美歌280番は、主イエスのお姿をしつかりと歌い上げています。イミタチオ・クリスティ(キリストに倣いて)と何度か聞いてきました。また幸雄牧師が生きる基本線としてきたところです。私達はその姿を見聞きし、イエス様のごとく生きられたらいいなあとも思います。
それが真実となるには、どうすれば良いのでしようか。実は、「ステキ!」と憧れる、次の段階が大切なのです。「真実な人」でありたい、ならばそうなるように意志をもって始める、それが必須なのです。
こでもイエス様は律法や安息日厳守という形にこだわり、真実をないがしろにしている人々を糾弾します。うわべにこだわり、大切な本質の部分が押しやられてしまっている、その愚かさを指摘します。「正しい裁き」がなされるように願っています。主の御姿に我が身を映してみませんか。