日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

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希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

(ローマの信徒への手紙12:12 )

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

(ローマの信徒への手紙5:3-5)

2024年度の教会主題聖句はローマ12:12の2回目です。

 「苦難を耐え忍ぶ」であります。

 「苦難」というと、私たちは良くないこと、避けたいことと捉える傾向があります。苦難にある人に対しては「お気の毒に」とさえ思ってしまいます。私たちはどうしても世間一般の価値観に支配されがちであります。というのは「家内安全」「豊作繁盛」「保障完備」「生活安泰」「無事息災」といった事柄が良いので、苦難や試練は良くないことであるという考え方です。

 しかし、本当に苦難は良くないことでしょうか。また避けたいことでしょうか。私たちの周りには苦難を経験した方が一人でもいたら、その方をよく見て判断してください。その人はいったんは苦難にうちひしがれたものの、そこから立ち上がり、よみがえった後には逆に苦難に出遭ってもがいている人に助けの手を差し伸べていることがあるのです。苦難にあったからこそ、恵みによってそこから立ち上がる勇気を得て、新しい人に変えられていったのです。

 確かに、人間は弱い存在です。くじけそうになります。けれども試練や困難を通して、生きることにまったく新しい意味を見出すのです。苦難を克服する度に、「新しい人として生き始める」のではないでしょうか。

 パウロは自分自身の弱さについて嘆きました。しかし、それ以上に神さまの恩寵に気づいたのです。「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9-10)

 私たちは困難や試練に出遭います。しかし、その時その時に与えられるみことばによって活路を見出すのです。私も父の病気を通して、その経験をしました。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる。」(Ⅰコリント10:13)

主が共にいて苦痛を堪え忍ぶことを学ばせ、乗り越えさせてくださいます。

 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

(ローマの信徒への手紙12 : 9-12 )

 2024年度の教会主題聖句はローマ12:12です。3回に分けて、この主題聖句を味わい、またその指し示すところを歩んで参りましよう。

 12節~21節には 「キリスト教的生活の規範」という見出しがつけられております。キリスト者としてどういう生活を送ったら良いか、ということが記されているわけです。 まず愛について語られています。

 偽りがあってはならない、兄弟愛をもって愛せ、また互いに相手を優れた者と思え、とあります。特に「相手を優れた者と思え」と言われると、正直な人ほど「うーん」と唸らざるを得ません。なぜなら私たちは、相手の長所を見つけるよりも、相手の短所にきづき自分を棚にあげて「この人がここを直せ…」なんて思いがちなのです。しかし、聖書の勧めは「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」です。長所を見出す訓練を自らに課して行く必要があるのですねぇ。

 また、「霊に燃えて、主に仕えなさい」とあります。「霊に燃える」と聞きますと、熱烈な聖霊派の教会を思い浮かべることでしょう。どちらかというと日本基督教団の教会は熱に浮かされることがなく、クールな教会だと思われるかもしれません。いえいえ。ペンテコステの出来事は私たちの教会でも起こりました。高齢であるにもかかわらず「弟子訓練」を受け、教会役員の責任を担っています。それこそ「主に仕える」のモデルです。

 また鐘つきや清掃などの奉仕も喜んでしています。隣の芝生ではなく、私たちの芝生も緑に覆われているのです。

> 霊に燃え、主に仕えるとき、私たちは希望をもって喜ぶことが可能になります。主がなしてくださることに期待できるからです。私が良く言うので耳ダコかも知れませんが、「他人に期待すると失望する。自分を見つめれば絶望する。しかし主を仰ぎ見れば希望が湧いてくる。」

 そうなんですぅ。私の母飛田知恵子がよく言っていたのは「鼻で息している者に頼っちゃだめよ」でした。「人間に頼るのをやめよ。鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザヤ書2: 22) 私たちはともすると見えるものに頼りたくなります。お金や財産を偶像化しがちです。しかし、神さまは「あってある者」として私たちに臨んでくださり、必要なものを与えてくださるのです。私たちはともすると「希望がみえてこない」と言います。(白内障の手術をして鏡に映る顔のしわやシミにビックリしても。) 確かに私たちの目には鮮やかに見えないかもしれません。また、うっかり「希望」ではなく「野望」を抱くあまり、それが実現しないと嘆くこともあります。私たちは主にあって希望することが可能であり、実現してくださるのは神さまです。お任せでいきましよう!

しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。

                                            (ヨハネ8:45-47)

イエス様とユダヤ人とのかみ合わない会話の続きです。自分たちの正義をアブラハムの子孫であることを根拠に主張するユダヤ人たち。それに対してイエス様はこう言われます。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。・・・」(42-43節)父なる神さまとイエス様との関係について、聞こうともしない、知ろうともしないユダヤ人たち。だから、イエス様も口を極めて、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしていない。」とまで言い切ります。対立の構図が見えてきます。

真理をよりどころにするには、イエス様を信じるほかないのです。

でも、それを拒んでいるユダヤ人たち。彼らの所属意識が問題になるのです。

ひところ、アイデンティティー(自分はどこに所属しているか)という言葉が流行りました。自分はいったい何者か、どこに立っているのか、それが問題だというのです。そこから「自分探しの旅」というのが始まり、目的地を見出せないまま、いまだに旅なかばという人までおりました。

さて。私たちはいったい何者でしょうか。どこに帰属しているのでしょうか。それを明らかにする為に、自己紹介では、まず名前を言います。年齢も明らかにする場合もありましょう。また自分がどこに住んでいるのかを言う場合もあります。しかし、重要なことは「私たちの本国は天にあります。」(フィリピ3:20)ということです。すなわち、主イエスの御言葉を聞いて信じる、神様に所属しているということになるのです。

> あんがい、このどこに属しているかをあまり考えずに日常生活を送っているのかもしれません。しかし、私たちキリスト者は「神に属する者」となり、それぞれの場に置かれています。そして置かれた場所にあって、花を咲かせ、豊かな実をみのらせる者とされているのです。

私たちは大事なことをあいまいにしてはいないでしょうか。「神に属している者としての自分」を大切にしていきたいですね。もちろん、キリスト者であることで八方ふさがりになってしまうこともあります。しかし、天窓は開かれています。そして、いつでも救いの御手が差し出されています。それを握り返せばいいのです。聞いて信じる者として生きましょう。

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。・・・」

(ヨハネ8:31-36)

 イエス様とユダヤ人とのかみ合わない会話。「真理はあなたたちを自由にする。」と聞いて、彼らは不自由=奴隷ととらえ「アブラハムの子孫たる我々はだれかの奴隷になったことはありません」と胸をはるわけです。イエス様がおっしゃる「罪の奴隷」ということには、とうてい考えが及ばないのです。父なる神様と子なるキリストとの関係についても思いもしないのです。主イエスが発する言葉にとどまる、すなわちイエス様を救い主として信じ、受けいれることをしません。殺そうとしているのです。

常陸大宮チャペル礼拝の最後に「派遣のことば」を牧師は宣言します。「安心して行きなさい。『わたしは道であり、真理であり、命である』とおっしゃられた主イエスが共にいてくださいます。主の道を共々に歩んでまいりましょう!」そして祝祷へと続きます。この派遣の言葉はヨハネ14:6のイエス様の言葉に拠ります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 だから真理はあなたたちを自由にする、という言葉を聞いて、真理=主イエスと置き換えれば、単純明快になります。私たちは意識している、いないにかかわらず、罪の奴隷であります。けれども、主はそういう私たちを憐れみ、その奴隷の鎖を断ち切って自由に生きられるようにしてくださいました。レントの期間、何度も「十字架、わが為なり」と賛美してきました。そしてイースターを喜び祝いました。主の復活を通して「死は終わりではない」ことを実感したことです。

私たちは、主イエスによって「罪の奴隷」から解放されて、自由人として生きるようになりました。そして信仰の対象をしっかりと見上げています。「ありがとう」と感謝しています。「信心」と「信仰」とは異なります。キリスト者でなくとも「信心深い人」はおり、その敬虔な姿勢は尊敬に値します。しかし、それはあくまで人間としての態度にかかっています。キリスト者の主に向き合う姿勢は様々かもしれません。でもしかクリスチャンも。けれども信じて仰ぐ方がどなたであるか、そしてそのお方がこの私を愛し、守り導いてくださることを信じ抜いています。自分の目で確認出来なくても「見ずして信じる幸い」を覚えています。ハレルヤ!

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

(ヨハネ21:17-19)

 復活なさったイエス様が、ペトロ達に会いに来た場面です。ペトロをはじめとする弟子達は先生がいらっしゃらないので、以前の仕事である漁師に戻って、漁をしておりました。ところがその夜は何もとれなかった、とあります。一生懸命に働いたのに収穫はなんにもない、そういうこともあるのです。つまずいたり失敗したりして無一物で帰って行かなければならない岸辺があります。その岸辺に主イエスは立っていてくださいます。私たちを迎えるために。人生には失うことによって初めて得ることが出来る出発点というものもあるのです。

けれども夜が明けた頃、岸辺にいた人が「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言うのです。そこで網を打つと、引き上げられないほど魚がとれました。この場面はルカ福音書5章の大漁の場面を思い起こさせるものです。そこで岸辺にいた人が、主イエスであることを弟子達は悟りました。そして主イエスはとれた魚で共に食事をしました。主は私たちを招いてくださり、日ごとの糧でもって養ってくださるお方です。私たちは、食べて満ち足り、安心して生きていけるのです。

その後、ペトロに質問を投げかけます。それも同じ質問を三度も!

ペトロが三度目に悲しんだのも、よくわかります。あの大祭司の庭で三度もイエス様を知らないと言い張ったのですから。しかし、主イエスはその罪を責めることをいたしません。ただ「わたしを愛しているか」とその一事だけを問います。救い主の受難、十字架、復活、あの一連の出来事は、まさしく躓くペトロのためであったことが分かっているならば、それで良いと言われるのです。本当に自分のしたこと、その弱い自分の為に主がなしてくださったこと、それらを分かっているならば、ただただ感謝するほかないのです。「主よ、感謝します!」その思いをもって、ペトロは羊を養うことが出来るのです。主を愛する人は、主から委ねられた他の人を養い育てることが出来るようになります。このイースター、私たちもまた主から託された羊がいることを覚えたいと思います。「主よ、あなたを愛し、託された羊を愛することが出来る者としてください。」と祈りましょう。

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