メッセージ
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
(ヨハネ福音書11:4-6)
イエス様がことのほか親しくしていたマルタとマリア。その兄弟ラザロが瀕死の病になっているとの知らせが届きます。しかし主はすぐに駆けつけようとはいたしません。「神の栄光のため」にあえて留まります。それはどういうことか、と言うとラザロの死が確定し、葬られてから墓へ赴き、死から命へ復活するさまを人々に見せるためでした。神様の死を打ち破り、復活させる全能の一端を現そうとなさったのです。
しかし、状況は予断をゆるしません。先だってもユダヤ人たちは、主イエスを「神を冒涜する者」だと決めつけ、石で打ち殺そうとしたほどですから。弟子たちはまたそこへ行かれるのですか?と引き止めようとします。
しかしイエス様は「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」(11:9)と言われました。これはどういうことを意味するのでしょう。それは、神様の御心を中心にすえて考えるとよく分かります。神様の御心であるならば、人はつまずきません。神様の御心は光のように人の歩みを守ります。逆に神様の御心がないところを歩めば、人はつまずきます。どこにも光がないからです。
信仰は信念ではありません。自分の中に何らかの光があって、それによって歩むのではありません。神様の御心、その光に照らして頂きながら、私たちクリスチャンは歩むのです。だから大丈夫なのです。
「神の栄光のため」そう。まさにステージが用意されています。昨日の聖書日課サムエル記上17章の前半を読んで、ダビデが王となる前段階でゴリアトとの対決というステージが用意されていることを知りました。ラザロの死から復活というしるしを弟子たちに見せて、信じるようになることを願ったわけです。弟子たちは主イエスの深謀遠慮など、何も分かってはいません。ただただ状況の困難さしか見えていません。だからトマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と発言しています。
私たちはややもすると神様の栄光に目をとめません。暗い中を歩んでしまう、つまずきやすい者です。その弱く、暗い中に閉じこもる私たちを愛し、導き、「私は世の光である」と言って、光の内を歩む者としてくださいました。主イエスは、ラザロの病気を通して、神様と御自分の栄光が現されることを見ていました。私たちの生活のどんなことを通して、主は栄光を現そうとしているか考えてみましょう。「主よ、こんな私の生活を通して、栄光を現してくださることを感謝します。」と祈る者でありたい。
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。
(ヨハネ福音書10:27-30)
イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とおっしゃいました。命をはってくださる主に従う幸いを覚えます。それに対し「わたしの羊ではない」ユダヤ人たちから拒絶されます。
たしかに当時のユダヤ人たちからすれば、イエス様のおっしゃることはことごとく「神を冒涜している」としか思えませんでした。「あなたは人間なのに、自分を神としているからだ。」と言います。実は問題点は明らかです。ヨハネ福音書は最初の書き始めから、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)と記しております。また、イエス様は神様だ、という書き方を様々な所でしております。ですから冒頭で引用した聖句も、それを明らかにしています。
しかし当時の宗教的指導者層にあたるファリサイ派や上流のサドカイ派は、この発言をゆるしがたいものとしてとらえます。イエス様に対して「もしメシアなら、はっきり言いなさい。」と詰め寄ります。彼らは自分たちが納得する答えを得ようとしているだけで、信じるつもりはありません。
彼らは「目が見える」と自認する罪に気づいておりません。
羊が声を聞き分ける、ということではヨハネ20:11のマグダラのマリアに現れたイエス様との会話を思い起こします。イエス様のご遺体が見当たらなく泣いていたマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と訊きます。園丁かと思ってかくかくしかじかと彼女は訴えます。その時イエス様が「マリア」と声をかけられます。彼女はすぐにその方がイエス様であることを悟ります。マリアの頑なな思い、生ける主ではなく、遺体となった主を求めるこだわりが打ち破られたのは、ただ「マリア」という愛に満ちた主の呼びかけによってでした。その一言がマリアを振り返らせたのです。主はご自分の羊の名を呼んで、彼女を死の絶望から命の希望へと導き出してくださったのです。死から命へ。墓の中の死者から復活者イエスへと。
イエス様を拒絶するユダヤ人たちがいる一方で、ヨルダンの向こう側に行った際には、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。(10:41-42)とあります。主イエスを信じ、主に従う者の生活とは? それはいかなる時でも、イエス様のことを聖書に記されている通り、忠実に話す者になることです。聖霊が助けてくださいます
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
(ヨハネ福音書10:7-11)
イエス様は御自分を羊飼い、私たちを羊になぞらえ、「私は良い羊飼い」であると宣言なさっています。なんという幸い、なんという嬉しさ!!
それも、イエス様がいらしたことを通して、羊が豊かな命を受けるとおっしゃられています。私たちは主を知らなかった時、みじめで自己嫌悪のかたまりだったかもしれません。もしくは、主にあって初めて真理を知るまでは、この世の知恵に支配されたり、しがらみでがんじがらめになっていたかも知れません。しかし、「罪の奴隷状態」でありながら、それに気づかず生きてきた私たちに、主は出会ってくださり、永遠の命にあずからせてくださいました。私たち自身を養う牧草や水を見つけさせてくださいました。今日のみことばから、まずは私たち自身が受けている恵みを味わい知って、喜んでいきたいと思います。
そういう私たちの姿を見て、周りの方々は「クリスチャンって不思議な人たちねぇ」と言うかもしれません。そんな喜べない状況にあっても、ほほえんでいるし、愚痴らずに「神様ありがとう」と言えるなんて!
そうなんです。私たち自身も不思議に思います。「クリスチャンとして喜んで一日一日を精一杯生きていける」ということを。それには秘訣があるんですね。それぞれが祈りの生活、神様と格闘する生活を通してそれが可能になります。祈ることは綺麗事を並べることではありません。自分の思いをさらけ出して、主に吟味して頂くのです。時には悔い改めるばかりの時もあります。また不条理なことにもだえながら訴えることもあります。主はそういう私たちを顧みてくださり、広く深い愛で包み込んでくださっています。私たちはただ主に頼り、養っていただくだけで良いのです。
幸雄牧師は「クリスチャンとは気楽な稼業ときたもんだ!」と良く言ってましたが、その通りなんですね。その幸雄牧師が修士論文で扱ったのがこのヨハネ福音書10章、そこで展開したのが「教会論」でした。
羊飼いは門を通って羊に近づきます。柵を乗り越えてくるのは羊を奪う盗人であり強盗です。羊は傷つけられたり、殺されたりします。
羊飼いは羊に出会うために来ます。羊飼いが羊に出会うためには、ひとつの門を通るほかありません。罪の赦しという門。十字架という門を通って、イエス・キリストはこの罪人である私たちのそばに来てくださったのです。「主よ、あなたの命がけの愛に感謝致します。」ハレルヤ!
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 (ヨハネ福音書9:35-39)
シロアムの池で目が見えるようになった者にファリサイ派の人々が尋問します。彼は、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(9:25)と言いました。しかし、ファリサイ派の人々はイエス様をおとしめようとしました。なんとか、主を信じないですむ言い訳さがしをしているようです。それに対し、目が開かれた彼ははっきりと言います。「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
(9:31-33)と。彼自身、自分におきた癒やしの体験に根ざして、そのことが明確に分かり、言明できたのです。しかし、イエス様を信じようとしない人々は、この明白な事実を受け入れることができません。その結果、彼は外に追い出されます。人間の罪の性質は、自分の思い通りにならないことに関して、消し去ろう、心の中から排除しようとするんですね。
私たち自身はいかがでしょうか。「かたくなだった自分が主を信じました。これは神様の恵みの奇跡です。」というほかありません。
イエス様は、彼を見捨てておきません。人々からどんな仕打ちを受けようとも、彼を再び見出し、お会いになります。イエス様は彼の身体の不具合を癒やすだけでなく、ご自身を主として信じるところまで導きました。彼は率直に「主よ、信じます。」と告白します。
「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)主にあって無駄なことは何一つありません。
一方、ファリサイ派の人々はどうなのか?自分たちは真理を知っているとうぬぼれ、イエス様を退け罪の中にとどまり続けました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(9:41)厳しいです。「主よ、私の目を開いて真理をさとらせてください。」と祈りましょう。
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことが出来ない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
(ヨハネ福音書9:1-5)
盲人のいやしの記事です。幾つかポイントがあります。
まず、この盲人から癒やしを願って懇願したわけではなく、主が「通りすがりに」この盲人を見出し、弟子たちの質問に答える形で癒やしが行われたことです。弟子たちは質問こそすれ、生まれつき盲人であった者への憐れみを覚えていません。主はこの人の苦悩に寄り添い、奇跡を行いました。主のみこころであれば、奇跡がおきるのです。
続いて、最も注目すべきことが「罪」と「癒やし」のつながりです。
弟子たちの質問にもあるとおり、病気や身体の不具合は「罪の結果」と考えられておりました。だからこそ、「本人の罪か、それとも両親の罪ゆえか?」との質問が出たのです。それに対して、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と言われました。なんという神様の恩寵でしょうか!
私たちは行き詰まってしまいますと「なぜこんなことに?」と思います。しかし、神様の業が現れるために、とはなかなか思えないものです。常陸大宮に教会開拓をして、地域の保守性や土着信仰の強固さにため息をついていました。しかし今回熱にうかされながら、ふと神様の「強固な意思」と「深い憐れみ」を感じました。原因不明な熱から解放され、牧師として復活致しました。(バァバのお菓子屋のように、味の評価が浸透していくには、それなりの時間が必要でした。福音の浸透にもやはり時間がかかるのかもしれません。)福音の種まきに関わっている幸いを覚えます。
最後のポイントは、この盲人は主イエスが命じたとおりに行ったことです。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに言って洗いなさい』と言われました。そこで行って洗ったら、見えるようになったのです。」彼は、疑わずに実行しました。効果があるかどうかもわかりませんでした。けれども言われた通りに実行しました。私たちにも祈りの中で、時に「こうしなさい」と主の促しを覚えることがあります。でも、と言い訳して実行に移さないことがありはしませんか?「目が見えるようになる」には、主の示すことに忠実に歩むのが一番なのです。神様は創造の始めに、混沌な世界に「光あれ」と言われ、光さす世界を出現なさいました。この私に神様はどんな業をなしてくださるのだろうか?ワクワクしてきます。「主よ、私にあなたのみ業が現れますように」と祈りましょう。