日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

 イエスは言われた。「光はいましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

(ヨハネ福音書12 : 35-36 )


 イエス様の十字架におかかりになる前の発言は、聞いている人々を困惑させるものでした。それは、ふつうメシアに期待していたイメーシとかけ離れていたからでしょう。それに対し、イエス様は上記のような発言をします。御自分を「世の光」(ヨハネ9:5)と明言したイエス様です。光のあるうちに歩きなさい、と勧めているのです。光の子となるために、とイエス様は私たちの弱さを思いやり、道筋を明確になさっているのです。エフェソの信徒の手紙5:8以下の御言葉が思い起こされます。

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。-光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです。-何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、ロにするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。」光の子として歩むように促されております。


 現代は悪い時代なのかもしれません。絶対者を畏れ敬うことを忘れている方々に私たちは囲まれています。信仰深そうなお盆行事ですら、自分の体裁体面を保つために行っているように見えてしまいます。自らに利益を誘導する為の行事に化しているのかもしれません。ですからクリスチャンとして違和感を覚えても、じっと我慢の子であることに徹さざるを得ません。常陸大宮の土地柄は勝田と全然違う、と夏が来るたび感じます。勝田は全国から人が集まる所で、お盆は連休となり、皆さんふるさとへ向かって散ります。街は閑散とします。ところが、この常陸大宮こそ、その「ふるさと」なんですね。だから、普段は帰省しない子どもとその家族が集まり賑やかになります。ですから、そこでクリスチャンとして生きるのは、「いったん横に置いて」となるワケです。接待に忙殺されるかもしれません。しかし、日々の御言葉と祈りの生活習慣は忘れないでください。そして、主にご自分の心持ちを正直に言い表し、重荷を軽くしてください。
 せめて教会の礼拝に出席した時に喜びを現わしましよう。


 ゴスペル曲「パラダイス」に こういう歌詞があります。
♪パラダイス、ここはパラダイス。神様の愛で満ちている。♪パラダイス、ここはパラダイス。光が降り注いでいる。♪さあとびらを開けて 歌おう 踊ろう 心合わせて一緒に歌おう♪ 重い荷物はここに下ろして 上を見上げて 一緒に賛美しよう♪ 光が満ちてる この地に満ちてる さあ行こう♪ バラダイスのとびらはもう開いている♪

イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

               (ヨハネ福音書12:23-26)

 

 過ぎ越しの祭りの最中に、イエス様はエルサレムに入ります。イエス様は戦に用いられる馬ではなく、ろばの子に乗って行きます。ゼカリヤ書9:9の御言葉が実現致します。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って。」そのままの光景が繰り広げられています。

 ローマ帝国の属国であったユダヤが、この方をリーダーとして立ち上がる時が来た!と当時の民衆は願い、その熱狂がつたわってまいります。

 

 しかし、その熱狂ぶりをよそに、この時イエス様がおっしゃられたことは、不思議な言葉でした。「人の子が栄光を受ける時が来た。」ん、ん。それは群衆の熱狂ぶりを反映しているかのようです。しかし、その後に続く言葉の意味はいったい何を?と思わせるものです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。

 これは主がこれからどういう歩みをなさるか、を示したものです。十字架にかかって地上での命を全うする、それを言っております。もちろん、この時弟子たちですら、その意味をはっきりとわかった者はおりません。

けれども、イエス様は大熱狂で迎えられた後に、しっかりとご自分のこれからの姿を言葉で示されたのです。

 一粒の麦は土の中に自分を埋めて、死んで、新たな生命を生み出します。多くの実りを生み出すために一粒が死ぬのです。自分自身を隠すことで、多くを生かします。それがイエス様の示す私たちのあるべき姿であるのかもしれません。しかし、私たちはどうでしょうか?「自分が自分が」と自己主張をして、うっかりすると神様は後回しにして、自分を隠すことが出来ないのです。それは信仰者としては不毛な姿です。実りを得られない姿になってはいないでしょうか?「自分の命を愛する」そう。自分がどう取り扱われるか、それが最重要な課題で、それを中心にぐるぐると生活が回っているのです。しかし、「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあるように、自分はどう扱われようともかまわない、しかし、神様につながることこそ最重要なことだと考えて行動できたら、永遠の命が約束されています。シニア世代であればこそ、この世での生き方を顧み、主が約束してくださる永遠の命を望みつつ喜んで生きましょう。

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

               (ヨハネ福音書12:3-8)

 

 千載一遇のチャンス、という言葉があります。またチャンスは前髪だけで、後ろ髪がないので、出会った時に掴まなければ後にはチャンスはない。

そういう意味で、ここでマリアがした行為はイエス様がほめていたように、後には出来ないことでした。それは度肝を抜く行為でありました。高価なナルドの香油でもってイエス様の足を塗り、自分の髪でその足をぬぐったのですから。家は香油の香りでいっぱいになったのです。

 私たちクリスチャンはこの美しい話にうっとりします。マリアがその持てる最も高価な物を死に赴くイエス様に全て捧げて、愛と感謝と献身の一切を尽くしていますことに。この行為に見習いたいと憧れてしまいます。

だからこの香油でもって、貧しい者に施しが出来るのにとか、何百人もの命が救われるのに、というふうな業のあり方に心が向いてしまうことを警戒したいと思うのです。弱い私たちの罪を担って、十字架につかれた主を裏切ることになるのですから。

 誤解しないでほしいのは、決して聖書は貧しい人々に施すことを禁じているのではないのです。貧しい者はいつもいるのですから、いつでもそうしようとすれば出来るのです。教会はそういう愛の業をいつもすべきなのです。しかしそれが「三百デナリで売れる」から貧しい人々を救える、という数字で置き換えてしまうのは避けたいのです。私たちを罪の奴隷から解放し、死から命へと復活させてくださる主イエス・キリストへの感謝、主イエス・キリストの十字架の死への感謝、この感謝をまず心に刻み込むように、と言っているのであります。

 

 マリアはナルドの香油を、イエス様の葬りの日のために準備していたかもしれません。しかし、彼女は、イエス様が死んだ後にではなく、生きている今、捧げました。愛するイエス様の為に、長い時間をかけてためたお金で買い備えた香油。それを捧げる最後のチャンスを、マリアは逃さなかったのです。

 あなたがイエス様の為に、今、使うことが出来るものは何ですか?

「主よ、今生きているあなたに仕えることが出来ることを感謝します。」

イエスは、「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らのなかの一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

               (ヨハネ福音書11:47b-53)

 

 イエス様を殺そうとする悪しき計画は、大祭司カイアファのお墨付きも得られて、公然とされていきました。墓に葬られたラザロが復活して、「それを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」(11:45)とあるように、この奇跡を見て信じた人々の動きは、時の宗教指導者を恐れさせるに十二分でした。ローマ人によって神殿も国民も滅ぼされてしまう!と危惧した訳です。しかし、そのなかで大祭司カイアファが預言内容を伝えました。

 「一人の人間が民の代わりに死ぬ」と。これこそ、後の十字架上での死を指し示すものでした。それも国民ばかりでなく、神の子たちを一つに集めるためにも死ぬという意味でもありました。まさにイエス様が最後にどのような姿になられるのか、はっきりと示された訳です。以前にも説教でお話しましたが、マタイ・マルコ・ルカ三つの福音書では、「宮清め」がイエス様殺害計画の引き金となりましたけれど、ヨハネ福音書は「ラザロの復活」こそが引き金となっております。ファリサイ派のおそれを引き起こし、ここから十字架の道にイエス様は踏み出されて行くのです。

 イエス様を憎み続けてきたファリサイ派の人々はついにイエス様を殺す決定を下しました。罪の思いを抱き続けていると、それが罪の行為になります。あなたの心に、主の前で解決が必要な罪の思いはありませんか。

 御前で、御自分をさらけ出して祈ることが大切になります。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(詩編139:23-24)罪の思いから解放されるには、主の祈り「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく・・・」が決め手となります。 

 過ぎ越しの祭りが近づいてきました。祭司長たちはイエス様をとらえるために、人々にイエス様の居場所を知らせるよう命令を出します。人々の興味は、イエス様の行動範囲に向いています。すべてが十字架へとつながってきています。私たちもまた、何に対して興味や関心をもって生きているのか、が問われているようです。幸いな計画を立てられますように。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」                   (ヨハネ福音書11:38-42)
 
 イエス様は人間の常識に対して、時に憤りを覚えます。これからラザロを復活させようと、わざわざ墓に葬られてから来たというのに、マルタもマリアも「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と残念さを現すだけです。それに対して、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(25節)と言明されました。ご自分こそ、命を与える者であることを宣言されます。ラザロの復活です。またそれは、イエス様を信じる者は、たとえ死んでも、イエス様によって終わりの日によみがえることが示されています。  さらにラザロの死を悲しんで泣き悲しんでいる人々を見て、心に憤りを覚え、興奮したともあります。「イエスは涙を流された。(35節)のです。人々の諦めに対する、他には見られないほどのイエス様の感情の流出です。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者さえおりました。マルタとの会話でも、人間の常識にとらわれて、奇跡への期待が少しも見られないのに、憤慨なさっているかのようです。
 
 振り返ってみて、私たちの生活ではどうでしょうか? 死に直面して、人間は悲しみ嘆くことができるだけです。どんなに深く嘆いたとしても、やがて諦めるほかありません。「日にち薬」という言葉も。  しかし主イエスは諦めることをなさいません。死に対して「憤り」なおかつ激しく「興奮」します。主イエスは死と戦われる救い主だからです。死と闘うために、その身体をもって、全存在をかけて十字架への道を歩まれました。そして私たちは「永遠の命」にあずかる特権を得ています。なんという幸い、なんという恵み!
 「ラザロ、出てきなさい」主イエスは大声で叫ばれました。するとラザロが葬られたままの姿で出てきました。奇跡を目の当たりにした人々の驚きが想像出来ます。「死なないように」ではなく、「死んでも復活する」ことを目撃したのです。常識ではなく「超常識」の体験でもありました。
 私たちもまた、十字架の主に呼び出されて、死の墓から出ていくのです。「主よ、私のことも、死んでも生きる者としてくださり、感謝します。」

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