メッセージ
ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
・・・ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。
(サムエル記上1:10-11,15-17)
「熱心に祈る」特に乞い願うことがあれば、そうなろうかと思われます。ハンナは子どもがいない故にもう一人の妻ペニナから、さげすまれ苦しめられておりました。悩み嘆いて必死に祈る姿は、祭司エリの目には、まるで酒に酔っているのかと見えるほどでした。だからエリから「酔いをさましてきなさい」と声がけされた時、「酒を飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」と答えました。祈りにはいろいろなスタイルがあります。ハンナにはハンナなりの方法があったのです。他人の目にどう映るか、それを気にしないで彼女は祈りました。
何かが「必要な」時、それを祈るのです。神さまはあなたの幸せを望んでおられます。祈りはきかれるのです。祭司エリも「イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように。」と言ってます。
なかなか祈りがきかれない、という思いにとらわれることがあるかもしれません。しかし、祈りが無味乾燥に思えても、たゆまずに続けることです。干上がった土地だからこそ、恵みの雨が降り注ぐことを喜び迎えることが出来るでしょう。
私の母飛田知恵子はいわゆる「祈り屋」さんでした。常に祈る。その祈りのリストは膨大で、彼女いわく「毎朝2時間は祈っている」と。親子だからか、娘としてあきれておりました。特に勝田教会員のどなたかに会うと「あなたのこと、ご家族の救いのこと、毎日祈っていますよ」と言っておりました。それに反発を感じていたのも事実です。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と聖書が言っているんだから、恩着せがましく当の相手に言うもんじゃない、と。けれども多くの方が、母の言葉を喜び、嬉しそうにしていました。「とりなしの祈り」は大切なんですね。
今日はペンテコステ。聖霊が弟子たちの群れに降った記念の日。また、力を得た弟子たちが伝道に遣わされ、教会が誕生した日です。一同が一つになって集まっていた所に聖霊が降ったのです。現代を生きる私たちも、今このように礼拝堂に集い、主を賛美して力を得ます。「聖霊よ、降りてかわける心 恵みの雨にて 潤したまえ♪」祈り願って進みましょう。
喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。(詩編100:2)
兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
(ローマ12:10-11)
このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
(ヘブライ12:28)
「主に仕える」という言葉は余りピンとこないと思われる人もいるでしょう。私自身も「仕える」なんて自分になじまない言葉のように思われたことがあります。けれども、先週一週間の皆さんの働きについて言えば。まさに「仕える」日々でした。おかげさまでバザーは11万4千円の収益がありました。こうして実績が目に見える場合は嬉しいですし、よく分かります。けれども普段は「仕える」ことは地味すぎて分かりにくいことです。(なかなか評価されないだけに、自分だけ犠牲を強いられているような気にもなるからです。)私自身、今回のバザーにおいて様々な感情に揺り動かされることがありました。特にある程度の数量を焼きませんと、バザーに来てくださった方々の要望に応じられないとのプレッシャーがあり、平安を保つというわけにはまいりませんでした。(きつめの言葉を受けた方、おゆるしください。)「仕える」ということは難しいと思いました。
まず「仕える」と言った時に、相手を愛しているかどうかが鍵になってきます。「主に仕える」ということは「神さまを愛する」ことに他なりません。ではどうしたら、神さまを愛することが出来るのでしょう。まずは、神さまの愛に気づくことかなぁと思います。神さまは、私たちが愛する前から、私たちを愛してくださっています。恩知らずで、わがままで、欠点だらけの私たちを、あるがままに受け入れ、愛してくださっているのです。神さまの愛に気づくことから、神さまへの愛が始まります。そんな神さまの愛に気づくとき、私たちは喜びと感謝に満たされ、神さまを賛美せずにいられなくなるのです。
神さまと愛の絆で結ばれたら、今度は「隣人を愛する」のです。大切なのは順番です。まずは、自分自身をあるがままに受け入れ、愛する必要があります。どれほど弱く、欠点だらけだったとしても、神さまはそんな私たちを「神の子」として愛してくださっています。御国の世継ぎとして受け入れてくれています。欠点だらけに見える隣人も「神の子」なのです。
気をつけることもあります。神さまから愛されるために頑張る私たちは、愛することを仕えることを自分の努力の結果と勘違いします。しかし、神さまの愛に包まれて頑張る私たちは、頑張れること自体を感謝します。神さまの愛のうちで、あるがままに頑張って生きたいものです。
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。・・・・・・・三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして、言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることも、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
(ヨハネ21:15、17)
復活の主が網を打つように命じ、それに従うと大漁になりました。そして主イエスが炭火をおこしてパンを用意してくれたので、食事をとりました。弟子たちのお腹はさぞかし満たされたことでしょう。その食事の後で、主イエスはペトロに尋ねます。「わたしを愛しているか」と。もちろんペトロの答えは「はい」です。そして、主イエスはそれを受けて「わたしの小羊を飼いなさい」と言われます。再度の召命です。主イエスがいなくなり、意気消沈してもとの漁師に戻っていたペトロに出会い、またもや主の弟子としての働きに召したのです。なんという主の愛の深さ、大きさ、広さでしょう。赦されてあまりある、愛の交わりがそこにあります。また主イエスを愛する者は、人を養い育てる者となるのです。
ところで、ペトロは三度も同じように尋ねられたことを気に致します。そうですよね。大祭司の庭で「三度」も「イエスなんて知らない」と言ったのですから。けれども、主があえて言うので、「あなたは何もかもご存じです」と言いました。全てはあなたの御手のうちにあるというのです。
それから、ペトロの殉教を想像させるようなことを主は言い、「わたしに従いなさい」と言います。再び弟子としての活動をせよと言うのです。
ペトロがどんなに愛されていたか、よくわかります。
それから興味深い話も出ます。ペトロはもう一人の愛弟子を見て、主に「この人はどうなるのでしょうか。」と問いました。しかし主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。信仰生活にとって、兄弟姉妹の存在は欠かせないものです。私たちの信仰は交わりに生きる信仰だからです。しかし、ここで、この愛弟子がどうなるかはペトロに関係ないと言いました。主が問題にしているのは、「あなたは、わたしに従いなさい」との一点です。ペトロのこれから歩む道は厳しいでしょう。しかし、その厳しい道で主の慰めを知るのです。他の人のものでない、自分だけの人生の途上で、そこだけでしか味わえない神の恵みを知るのです。主が、今、私たちに命じていることは何でしょうか。
「主よ、私を、あなたの御声を聞き分け、従う者としてください。」
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べ物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
(ヨハネ21:3-6)
弟子たちは漁師にもどっていました。しかし、一晩中働いて、何の収穫もありませんでした。岸に戻ってみると、そこに主イエスが立っておられました。偶然立っておられたのではありません。弟子たちを待って、立っておられたのです。
一生懸命に働いたにもかかわらず、収穫は何もない。そういうこともあります。つまずいたり、失敗したりして無一物で帰ってゆかなければならない岸辺があります。その岸辺に、主イエスは立っていてくださるのです。失意の中にいる私たちを迎えるために。失意のなかでこそ、得ることの出来る再出発の地点があるのです。つまずき倒れないように、守り支え、導いてくださる主が湖畔で会ってくださいます。
復活の主は再び網を打つように弟子たちを促します。ルカ福音書5章に
同じような場面が出てきます。主イエスが「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモン・ペトロは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった、とあります。
ここでも、復活の主のもとで、弟子たちは網を打ちました。収穫が多くて引き上げることができませんでした。ルカ5章の出来事を鮮烈に思い出した弟子たちは、岸辺の人物が主イエスであることが分かりました。ペトロなどは、あわてて上着をまとって湖に飛び込んで、主イエスのもとへと急ぎました。そんな弟子たちを迎えるべく、主は炭火をおこしていました。
必要なパンも備えてあります。今、何が必要か、主はそれを分かって備えてくださるお方なのです。なんと素晴らしい!!
私たちもまた、同じような経験をすることがあります。私たちの労苦、祈りに収穫が見えない、そんな不安や焦りにとらえられることがあります。しかし、復活の主イエスのもとで、労苦は応えられ、祈りは聞かれるのです。そして、収穫が多すぎて網を引き上げることができないぐらいになります。ガリラヤ湖畔に出向いた主は、弟子たちを思いやり、また新たな使命へと導かれました。私たちもまた、たゆまず進んでいきたいものです。
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
(ヨハネ20:24-28)
復活された主イエスは、またも弟子たちの前に現れました。今度はトマスもおりました。不在で主イエスに出会えなかったトマスは、復活したことを信じておりませんでした。「指を釘跡に入れなければ・・・」と言ってました。実証主義というのでしょうか、自分で確かめなければ信じることが出来ないというのです。また、他の弟子たちが会えたのに、自分は会えなかった、ということで拗ねていたのかもしれません。意外と、この「疎外感」で人は自ら傷を深くしてしまうものです。
主イエスは「シャローム」と声をかけられました。平安あれ、ですね。そしてトマスにわざわざ声をかけられます。「あなたの指をここに当てて・・・」とトマスが納得するように、声がけしたのです。よく「百聞は一見にしかず」と言います。実証してみなさいというのです。
しかし、トマスは「どれどれ そうしましょう。」と応えませんでした。ここで、信仰の告白「わたしの主、わたしの神よ」を言っております。畏れるべきお方がここにいらっしゃる!復活の主こそ、わたしの神だと表明しております。
私たちはいかがでしょうか?トマスと同じような実証主義に陥りやすい自分を経験してはいませんか。「百聞は一見にしかず」に支配されてしまうのです。しかし、信仰の世界は「百見は一味にしかず」です。え?何を味わうの?私たちは聖餐式を体験しています。主が十字架におかかりになり、私たちを奴隷の身分から贖ってくださった。その恵みのしるしを毎月、この舌で味わい、主がなしてくださった「罪の赦し」を確認するのです。
それは二千年の時を経て、真実であります。見ずとも信じることが出来る、教会が伝統的に行ってきた喜びのわざです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と主イエスはおっしゃいました。
ヨハネ福音書の目的は「イエスは神の子メシアであると信じるため、信じてイエスの名により命を受けるためである」と記されています。あなたにとって、主イエスが与えてくださった「命」を豊かに生きるとは、どういうことでしょうか。「父よ、私を、御子を信じることで与えられた命を豊かに生きる者としてください。」