メッセージ
サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの心の中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」イスラエルの人々はバアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。サムエルは命じた。「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。」人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、「わたしたちは主に罪を犯しました」と言った。サムエルはミツパでイスラエルの人々に裁きを行った。
(サムエル記上7:3-6)
サムエルがイスラエルの全体にまず勧めたことは、偶像を捨て、ただ一筋に主にのみ仕えることでありました。彼は、ペリシテの脅威から救われるには、一つ心になって、力ある主に立ち帰ること以外にないことを教えました。そこで、イスラエルの人々は、豊かな収穫の神としてカナンの地で拝まれていたバアルと、その妻とされている愛と戦争の神アシュトレトを捨て去り、主にのみ仕えるようになりました。サムエルは祈りの使命を果たし、民は断食をもって悔い改めの心を示しました。指導者としてのサムエルの働きが鮮やかに示されるところです。
ところで、ペリシテ人は、祈りのために集まったイスラエル人の集会を、戦闘のための集結と誤解して、先手を打って攻撃をしかけてきました。イスラエルの人々は恐れ、サムエルに熱心な祈りをささげてくれるように願いました。サムエルはその依頼に応え、いけにえをささげて主に助けを求めて叫びました。「主は彼に答えられた(9節)」とあります。
このように、彼らが主なる神に立ち帰っている最中に、ペリシテの攻撃が始まりましたが、この時主は雷鳴を用いてペリシテ軍を混乱させ、イスラエルに勝利をもたらしました。この個所で、祈りを「叫び」と呼んでいることが印象的です。求めが切実になってくると、また事柄が切迫してくると、祈りはどうしても「叫び」になる傾向があります。そして、その大声の祈りに、主も大声(雷鳴)で応答されたのですねぇ。私たちの祈りもまた、そうであっていいのではないかとも思います。お行儀良く、節度ある祈りは、周りからは歓迎されるかもしれません。しかし、緊急かつ必然な時に、私は叫びにも似た祈りがあってもいいかもしれないと思います。そして、それがまた自分自身に跳ね返って、クリスチャンとして生きる力、自らの信仰を奮い立たせる結果につながったらステキですね。
サムエルは、記念の石を取り、「今まで、主は我々を助けてくださった(12節)」と助けの石を置きました。この後、ペリシテ人はサムエルの時代、二度とイスラエルの国境を侵すことはありませんでした。
私たちもまた、神さまを仰ぎ見つつ、私たちの救い主イエス・キリストに望みをおいて生きたいと願います。「主よ、あなたにより頼みます。」
ペリシテ人は、祭司たちと占い師たちを呼んで尋ねた。「主の箱をどうしたものでしょう。どのようにしてあれを元の所に送り返したらよいのか、教えてください。」彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すにあたっては、何も添えずに送ってはならない。必ず賠償の献げ物と共に返さなければならない。そうすれば、あなたたちはいやされ、神の手があなたたちを離れなかった理由も理解できよう。」
「はれ物の模型と大地を荒らすねずみの模型を造って、イスラエルの神に栄光を帰すならば、恐らくイスラエルの神は、あなたたち、あなたたちの神々、そしてあなたたちの土地の上にのしかかっているその手を軽くされるだろう。なぜ、あなたたちは、エジプト人とファラオがその心を固くしたように、心を固くするのか。神が彼らを悩ませたので、彼らはイスラエル人を行かせざるえなくなり、イスラエル人は去って行ったではないか。」
(サムエル記上6:2-3、5-6)
神の箱を置いたことでペリシテ人の町々に、災厄が起こりました。そこで、神の箱を元の所に送り返そうとなり、占い師たちに返還方法を尋ねました。彼らは金の品物を雌牛の鞍袋に入れ、その牛車の上に神の箱を載せて送り返す方法を提案しました。これによって、迷信的不安を静め、幾分か残っていた疑い(これらの災厄には、本当にイスラエルの神の働きがあるのだろうかという疑問)をも晴らそうとしたのでした。罪過の為のいけにえが動物でなく、金と考えるのも異邦の民の特徴ですね。
占い師たちは、出エジプトの歴史を少なからず知っていたようで、その方法はすぐに実行されました。また、牛車の牛についても、まだ乳離れしていない子牛を持つ2頭の雌牛に引かせ、どこへ行くかは牛に任せてみようとなりました。そして、子牛のところに行きたいという本能に逆らってまでイスラエルの地に向かうなら、この災厄がイスラエルの神からのものと断じ、そうでないなら、これは偶然起こったものだと結論づけようとしてのです。結局、2頭の雌牛は、子牛恋しさから鳴きながらも、子牛の方には行かず、右にも左にもそれずにベト・シェメシュに通じる一筋の道をまっすぐに進んで行きました。これによって、一連の災厄は主の手によるものであったことが誰の目にもはっきりと分かりました。
ベト・シェメシュの人々は神の箱が返還されたのをみて、たいそう喜びました。主に感謝のいけにえを献げました。しかし、神の箱の扱いには慎重を期さなければなりませんでした。うっかりのぞいてしまった70人は、打たれて死にました。ここでも神の箱は脅威となります。今更ながら、聖なる神の御前に恐れおののき、自分たちでは神の箱を見守る責任を負いきれないと考え、十数㎞離れた所に住むキルヤト・エアリムの住民に、その務めをゆだねることを決意しました。そうしてキルヤト・エアリムの地に神の箱は20年間安置されました。
神の箱に関して、敬虔な態度でこれに近付くことが求められました。
私たちの信仰生活においても「神さまを神とする」ことが大切です。
ペリシテ人は神の箱を奪い、エベン・エゼルからアシュドドへ運んだ 。ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた 。翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。その翌朝、早く起きてみると、 ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない 。
主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせた。
( サムエル記上 5:1-6)
イスラエルはペリシテ人と戦いを始めました。劣勢になったイスラエルの長老たちは「主の契約の箱を運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう」と提案し、実行しました。 まさに「神の箱を担ぎ出し 」て安直に勝利を得ようとの魂胆でした。神の箱の到着は、間違った期待を持ったイスラエル軍には喜びを巻き起こしましたが、同時にペリシテ人にとっても恐怖ばかりか、死に物狂いの勇気を奮い起させる結果となりました。敗北したのはイスラエル軍でした。エリの息子ホフニとビネハスも戦死し、その報告を受けた祭司エリも死にました。先に主が、少年サムエルに告げた通りになりました。
そして、神の箱はペリシテ人に奪われ、アシュドドへ運ばれました。 これは、人は神様を自分の都合に合わせて利用しようとするけれども、無駄であることを端的に示しています。神様の主権の前にひれ伏すことこそ、求められていることではないでしょうか。そして、人間の助けなくして、神様ご自身がひとりで戦われるのです。神様の勝利。神の箱が存在することで、不思議なことが起こります。
まず、神の箱はダゴンの神殿に置かれます。翌朝、ダゴン像が神の箱にひれ伏して礼拝しているかのように、うつ伏せで倒れていました。あわてて元の状態に戻しておきましたが、次の朝、さらに悪い状態になっていました。ダゴン像が切り離されバラバラにされていたのです。神様の偉大な力を見せつけられたペリシテ人は、直ちに主に立ち返ったのでしょうか?いいえ。「ダゴンの敷居を踏まない」としただけです。その後、アシュドド地方に 災厄が起こり、人々は、はれ物に悩まされます。そこで「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめておいてはならない」として 、ガドへ移します。すると、ガドの住民がはれ物に悩まされます。次に神の箱はエクロンへ。そこでも神様の御手は重くのしかかりました。人々の叫び声は天にまで達した、と記されています。イスラエルに勝ったと思っていたペリシテ人たちは、夢から醒めたように自分たちの敗北を認め、神の箱をイスラエルに返すことを決めたのです。神様を神として崇める大切さ!
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。
(詩編100:1-2)
今年度の教会主題は「賛美」です。しかし「賛美」しなければならない、というのではありません。神さまは私たちに、日々新たな恵みを与えられます。そして、私たちの口から賛美を引きだそうとしておられるのです。賛美することで、神さまは私たちに出会いたいと願っておられます。
「題名のない音楽会」というテレビ番組があります。昨日放送されたのは、ウィーン少年合唱団の来日公演のステージでした。そこで、天使の歌声が聞けたのですが、最後に音楽監督の言葉が紹介されました。それは「歌うことよりも素晴らしいことは もっと歌うこと」でした。私たちに与えられた神さまを賛美するということは、さらに歌うことによって、より神さまに近づけることを意味します。
先週、讃美歌510番「主よ、終わりまで」を歌いました。礼拝の後で、ある姉妹が「私も讃美歌の言葉が身に沁みました。私の葬儀で、この讃美歌を歌ってほしいと思いました。」と語ってくれました。讃美歌の歌詞は私たちの心の扉を開いてくれます。時には喜びどころか悲しくてたまらない時があるかもしれません。しかし、讃美歌を口にすることを通して、私たちの悲しみは喜びに変えられるのです。それはなぜか、わかりますか?
それは私たちの耳がその言葉をいち早くキャッチするからです。そして、讃美歌を歌い上げる時、「そうだ、この通りだ!」と心に響くからです。口にした言葉が実体化する、と言ったら良いでしょうか。愚痴をつぶやきますと、ますますネガティブ思考に陥ります。その逆ですね。喜び賛美することで、前向きに切り替わることが出来るのです。愛唱讃美歌が何曲かあって、それをそらで歌えたらいいですね。
賛美の力はいろんな面で活力となります。久喜復活伝道所の山野裕子牧師が先年信徒の友に「整然とした礼拝でなくても」という文章を載せていました。その中で交通事故で高次脳機能障害を負った息子さんを含めて、共に献げる礼拝の様子を記しています。息子さんは歌詞が読めません。礼拝で周りの人の声を聞いて歌うので、皆に「大きな声で歌ってほしい」と頼みます。讃美歌に慣れない人は、息子さんの大きな歌声に合わせて歌うと言います。補い合っての元気な賛美の声は、隣の公園にも届きます、と。
時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから無分別な者とならず、主の御心が何であるか悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エフェソの信徒への手紙5:16-20)
少年サムエルは、エリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。・・・主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と応えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました。」と言った。しかし、エリが「わたしは呼んでいない。戻ってお休み」と言ったので、サムエルは戻って寝た。主は再びサムエルを呼ばれた。・・・主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
(サムエル記上3:1-9)
主の言葉が臨むのはまれであった時に、少年サムエルは主から呼ばれ、言葉を預かることになります。それは就寝時に起きたことでした。最初は祭司エリに呼ばれたと思ったのですが、エリは呼んだ覚えがありません。三度目に呼ばれた時、エリはサムエルを呼んだのは主であると悟り、サムエルに「僕は聞いております」と答えて、聞きなさいと伝えます。
そうしてサムエルはエリの家に関する主のお考えを知ることになります。その内容が厳しかったゆえに、最初はエリに告げるのを恐れました。しかし、エリに促され全てを話します。エリも「主が御目にかなうとおりに行われるように。」と受け止めます。これを手始めに、サムエルは主の預言者として用いられるようになりました。「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」とあります。彼は「主の預言者として信頼するに足る人」になります。
皆さんは、聖書を読んでいる時や、教会で説教を聞いている時、神さまが自分に向かって語っていらっしゃると感じたことがありますか?もちろん、サムエルのように神さまの声を、実際にこの耳で聞くケースはまれでしょう。けれども、私たちの心に神さまが直接語りかけてくることがあるのです。私たちクリスチャンの願いは、神さまの御心を知ることです。その為には「主よ、あなたの言葉を聞きたいです。私に必要なことを教えてください。」と祈ります。しかしですねぇ。そうして祈り願ったことが、示されたことが、「イヤ」だったり、「無理!」と思えたりすることがあるかもしれません。そういう場合にどうしたら良いでしょう。実はそういう時こそ、自分の生き方が「自己中」から「神さま中心」へと軸が変わるチャンス!都合のよいことだけ受け入れる生き方自体を変えて頂くのです。
神さまが御心を示してくださったら、それが自分にとってハードなことであっても、神さまを信頼して逃げずに受け止めようとすれば良いのです。神さまは決して私たちが重荷に耐えかねて、よろめき倒れることを望んではおられません。もっと「この私を主として頼ってほしい」と願っておられます。「主よ、お話しください。僕は聞いております。」と祈りましょう。