日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

 ペリシテ人は神の箱を奪い、エベン・エゼルからアシュドドへ運んだ 。ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた 。翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。その翌朝、早く起きてみると、 ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない 。
 主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせた。


( サムエル記上 5:1-6)



 イスラエルはペリシテ人と戦いを始めました。劣勢になったイスラエルの長老たちは「主の契約の箱を運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう」と提案し、実行しました。 まさに「神の箱を担ぎ出し 」て安直に勝利を得ようとの魂胆でした。神の箱の到着は、間違った期待を持ったイスラエル軍には喜びを巻き起こしましたが、同時にペリシテ人にとっても恐怖ばかりか、死に物狂いの勇気を奮い起させる結果となりました。敗北したのはイスラエル軍でした。エリの息子ホフニとビネハスも戦死し、その報告を受けた祭司エリも死にました。先に主が、少年サムエルに告げた通りになりました。
 そして、神の箱はペリシテ人に奪われ、アシュドドへ運ばれました。 これは、人は神様を自分の都合に合わせて利用しようとするけれども、無駄であることを端的に示しています。神様の主権の前にひれ伏すことこそ、求められていることではないでしょうか。そして、人間の助けなくして、神様ご自身がひとりで戦われるのです。神様の勝利。神の箱が存在することで、不思議なことが起こります。
 まず、神の箱はダゴンの神殿に置かれます。翌朝、ダゴン像が神の箱にひれ伏して礼拝しているかのように、うつ伏せで倒れていました。あわてて元の状態に戻しておきましたが、次の朝、さらに悪い状態になっていました。ダゴン像が切り離されバラバラにされていたのです。神様の偉大な力を見せつけられたペリシテ人は、直ちに主に立ち返ったのでしょうか?いいえ。「ダゴンの敷居を踏まない」としただけです。その後、アシュドド地方に 災厄が起こり、人々は、はれ物に悩まされます。そこで「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめておいてはならない」として 、ガドへ移します。すると、ガドの住民がはれ物に悩まされます。次に神の箱はエクロンへ。そこでも神様の御手は重くのしかかりました。人々の叫び声は天にまで達した、と記されています。イスラエルに勝ったと思っていたペリシテ人たちは、夢から醒めたように自分たちの敗北を認め、神の箱をイスラエルに返すことを決めたのです。神様を神として崇める大切さ!

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

 喜び祝い、主に仕え

 喜び歌って御前に進み出よ。

                 (詩編100:1-2)

 

 今年度の教会主題は「賛美」です。しかし「賛美」しなければならない、というのではありません。神さまは私たちに、日々新たな恵みを与えられます。そして、私たちの口から賛美を引きだそうとしておられるのです。賛美することで、神さまは私たちに出会いたいと願っておられます。

 「題名のない音楽会」というテレビ番組があります。昨日放送されたのは、ウィーン少年合唱団の来日公演のステージでした。そこで、天使の歌声が聞けたのですが、最後に音楽監督の言葉が紹介されました。それは「歌うことよりも素晴らしいことは もっと歌うこと」でした。私たちに与えられた神さまを賛美するということは、さらに歌うことによって、より神さまに近づけることを意味します。

 先週、讃美歌510番「主よ、終わりまで」を歌いました。礼拝の後で、ある姉妹が「私も讃美歌の言葉が身に沁みました。私の葬儀で、この讃美歌を歌ってほしいと思いました。」と語ってくれました。讃美歌の歌詞は私たちの心の扉を開いてくれます。時には喜びどころか悲しくてたまらない時があるかもしれません。しかし、讃美歌を口にすることを通して、私たちの悲しみは喜びに変えられるのです。それはなぜか、わかりますか?

それは私たちの耳がその言葉をいち早くキャッチするからです。そして、讃美歌を歌い上げる時、「そうだ、この通りだ!」と心に響くからです。口にした言葉が実体化する、と言ったら良いでしょうか。愚痴をつぶやきますと、ますますネガティブ思考に陥ります。その逆ですね。喜び賛美することで、前向きに切り替わることが出来るのです。愛唱讃美歌が何曲かあって、それをそらで歌えたらいいですね。

 賛美の力はいろんな面で活力となります。久喜復活伝道所の山野裕子牧師が先年信徒の友に「整然とした礼拝でなくても」という文章を載せていました。その中で交通事故で高次脳機能障害を負った息子さんを含めて、共に献げる礼拝の様子を記しています。息子さんは歌詞が読めません。礼拝で周りの人の声を聞いて歌うので、皆に「大きな声で歌ってほしい」と頼みます。讃美歌に慣れない人は、息子さんの大きな歌声に合わせて歌うと言います。補い合っての元気な賛美の声は、隣の公園にも届きます、と。

 

 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから無分別な者とならず、主の御心が何であるか悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エフェソの信徒への手紙5:16-20

 

 

 

少年サムエルは、エリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。・・・主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と応えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました。」と言った。しかし、エリが「わたしは呼んでいない。戻ってお休み」と言ったので、サムエルは戻って寝た。主は再びサムエルを呼ばれた。・・・主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。

                 (サムエル記上3:1-9)

 

 主の言葉が臨むのはまれであった時に、少年サムエルは主から呼ばれ、言葉を預かることになります。それは就寝時に起きたことでした。最初は祭司エリに呼ばれたと思ったのですが、エリは呼んだ覚えがありません。三度目に呼ばれた時、エリはサムエルを呼んだのは主であると悟り、サムエルに「僕は聞いております」と答えて、聞きなさいと伝えます。

 そうしてサムエルはエリの家に関する主のお考えを知ることになります。その内容が厳しかったゆえに、最初はエリに告げるのを恐れました。しかし、エリに促され全てを話します。エリも「主が御目にかなうとおりに行われるように。」と受け止めます。これを手始めに、サムエルは主の預言者として用いられるようになりました。「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」とあります。彼は「主の預言者として信頼するに足る人」になります。

 皆さんは、聖書を読んでいる時や、教会で説教を聞いている時、神さまが自分に向かって語っていらっしゃると感じたことがありますか?もちろん、サムエルのように神さまの声を、実際にこの耳で聞くケースはまれでしょう。けれども、私たちの心に神さまが直接語りかけてくることがあるのです。私たちクリスチャンの願いは、神さまの御心を知ることです。その為には「主よ、あなたの言葉を聞きたいです。私に必要なことを教えてください。」と祈ります。しかしですねぇ。そうして祈り願ったことが、示されたことが、「イヤ」だったり、「無理!」と思えたりすることがあるかもしれません。そういう場合にどうしたら良いでしょう。実はそういう時こそ、自分の生き方が「自己中」から「神さま中心」へと軸が変わるチャンス!都合のよいことだけ受け入れる生き方自体を変えて頂くのです。

神さまが御心を示してくださったら、それが自分にとってハードなことであっても、神さまを信頼して逃げずに受け止めようとすれば良いのです。神さまは決して私たちが重荷に耐えかねて、よろめき倒れることを望んではおられません。もっと「この私を主として頼ってほしい」と願っておられます。「主よ、お話しください。僕は聞いております。」と祈りましょう。

 

 

サムエルは、亜麻布のエフォドを来て、下働きとして主の御前に仕えていた。母は彼のために小さな上着を縫い、毎年、夫と一緒に年ごとのいけにえをささげに上って来るとき、それを届けた。エリはエルカナとその妻を祝福し、「主に願って得たこの子の代わりに、主があなたにこの妻による子供を授けてくださいますように」と言った。こうして彼らは家に帰った。主がハンナを顧みられたので、ハンナは身ごもり、息子を三人と娘を二人産んだ。少年サムエルは主のもとで成長した。

                 (サムエル記上2:18-21)

                  

 ハンナの祈りがきかれ、与えられた幼子は、乳離れをした後でエリのもとに置かれました。我が子を献げる感謝の祈りが記されています。

 「主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。

 主は貧しくし、また富ませ  低くし、また高めてくださる。

 弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ

 高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。」

 

 「主に仕える者」として献げる。母親としては辛かったことでしょう。エリのもとに置いたサムエルへ、毎年上着を縫って届けたと記されています。母親の愛が見えるところです。サムエルの感情については記されていませんが、エリのもとに置かれた自分の状況をそのまま受け入れていたようです。「少年サムエルは主のもとで成長した。」とあります。

 この「主のもとで」という言葉がキーワードになっています。実の親に育てられることこそ最善だ、という原理があります。しかし、その親が「毒親」だったり、過剰に「理解ある親」だったりすると、必ずしも最善とは言えないこともあります。一方で、主の祝福のうちに成長することはなんと幸いなことでしょう。私自身、「母の胎にいた時から祈られた者」として生まれ、その後も、主が守り導いてくださった、なおかつ献身へと導かれ、伝道者として立てられたことの幸いを身にしみて味わっています。

 しかし「私はそんな恵まれた生育環境ではなかったわ」とおっしゃる方がいるかもしれません。そんな方からみれば「お嬢様育ちの苦労知らず」の人が言うことなんて・・・と思われるかもしれません。確かにその通り。性格形成や行動様式はその生育暦と深く関わりがあります。

 

 信仰者の生き方は「主のもとで」成長できるかどうかに関わってくるのです。逆に成長しない人に「アダルトチルドレン」なる呼び名もあるほどです。成長は、幾つになっても可能なのです。信仰が成長する為に必要なことは何でしょうか? それは「祈って、聖書を読んで、賛美する」ことにつきます。2002年、勝田教会にビジョンが与えられ、「牧師が祈る」だけでなく「牧師の為に祈る」教会に変わりました。主を愛し、主を賛美し、主の御用に用いてくださいと祈る時、私たちは更なる信仰の深みへと導かれるのです。「主よ、献げます。みむねのままに用いてください。」

 

 ハンナは言った。 「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたがたのそばに立って主が祈ったあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」 彼らはそこで主を礼拝した。

(サムエル記上1:26-28)

 熱心に祈ったハンナの祈りはきかれました。「主は彼女を御心に留められた。」(1:19)とあります。 苦しみ悩んだハンナではありましたが、主が絶望の底から引き上げてくださいました。私たちの人生においてもそういうことがあるのです。ひたすら絶望的な状況にあって、これは「祈るしかない!」と。そうです。 他に方法がなく、「この類いは祈りによらなければ解決しない」と感じて「祈る!!」そして、私たちの涙をぬぐってくださる方にお会いして、平安と希望を見出すのです。 (クリスチャンと言いながら、余りにも主に頼ることをせず、祈らない方が多いような気が致します。) 祈るとき、私たちは両手を組みます。心と思いと願いを両手で包みます。 「主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れくださる。」(詩編6:9)2章冒頭のハンナの祈り「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き御救いを喜び祝う。 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。 岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」 主による救いを高らかに賛美します。 祈りがきかれたことへの感謝があふれ出ています。

 私たちの生活において、どれだけ「神さまつながり」をしているだろうか、そこが信仰のポイントになってきます。 祭司エリに酒に酔っていると誤解されるほど熱心に祈っていたハンナ。 彼女は祈りの手応えを感じ、そして願った通りサムエルを産むことが出来ました。 そして規定に従って、わが子を祝福して頂く為に祭司エリの前に出て「あなたのそばに立って主に祈っていたあの女」と自らを現し、「この子を主にゆだねます。」と言い切ります。 祈り願って叶えられた!その感謝を表し、サムエルを献げます。

 「子どもが与えられ自分の悩みは解決した。」で問題解決、すべて終了!というのではないんですね。 ここがハンナの信仰が「篤い」と言えるところです。 主が為してくださったことへの感謝と共に、それに対してどう応えたらいいのか、それが分かり、実行にうつします。 説教の後に、讃美歌21の521番「とらえたまえ、われらを」を賛美します。 その4節で、「♪とらえたまえ、われらを。満たしたまえ、聖霊を。わがすべてをささげて 主のみ旨に 従わん♪」と歌います。 先週はペンテコステを記念して礼拝をささげました。 聖霊降臨を願う讃美歌を歌うタイミングの良さを覚えます。 神さまを自分の願いをきいてもらうATMかなんかのように勘違いしやすい私たち。 しかしハンナの信仰ならい、感謝をどういう形で表していくかを課題にしたいと思います。 「主よ、とらえてください。」

 

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