メッセージ
門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ベトロは、「違う」と言った。
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「おまえもあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
(ヨハネ18:17、25-27 )
イエス様が逮捕され、大祭司のもとに連行されました。イエス様のことが心配であったペトロは大祭司の屋敷の中庭に入って様子をうかがっていました。たき火をしている人々の輪の中に入りました。弟子たちを危険な集団とみなし、あやぶんでいる人々の中に。敵対する人々の中で、身の置き所がないはずでありながら、人々のぬくもりを求めないではいられない、ペトロの弱さ、悲しみが伝わってまいります。しかし、やはり安心安全な場所ではありませんでした。「あの人の弟子の一人ではないか」と言われてしまいます。彼は必死になって「違う」と言い張ります。
なんと、先ほどイエス様の逮捕された現場に立ち会っていた人がおりました。ペトロに耳を切り落とされた人の身内の者です。「あの男と一緒にいるのを見た!」と。(だから蛮行に及ぶとあとあとまで影響が大きいですよねぇ。)ペトロは否認します。これで三度目。するとすぐ、鶏が鳴きました。
ルカ22章61-62節にはこう記されています。
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」
イエス様はそのペトロを見つめられます。弱い私たちを包む主のまなざしがあるから、私たちは繰り返し、立ち上がることが出来るのです。歩き始めた子どもが、母親の前で何度も倒れては起き上がるように。先ほど讀美歌21-197番「ああ主のひとみ」を賛美しました。その2節の歌詞そのままです。♪ああ主のひとみ、まなざしよ、三たび我が主をいなみたる よわきペトロをかえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや。♪
ペトロは主のまなざしに心を刺し貫かれました。外に出て、激しく泣きました。ペトロが新たに生き始めるには、この号泣が鍵になっています。主のまなざしを振り払って逃げたイスカリオテのユダは行く先を失い、自ら命を絶ってしまいました。一方ペトロは主のためなら命も捨てる覚悟でした。(ヨハネ13:37 )けれども身の危険を感じた時、三度もイエス様の弟子であることを否認しました。鶏が鳴いて、ペトロは自分の弱さ、愚かさ、惨めさに打ちひしがれました。そのペトロに向けられた主の慈しみにみちたまなざし。ここから新たに生き始めることが出来るのです。
こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへと出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一体の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の使わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
(ヨハネ18:1-5)
今週3月5日からレントが始まります。主イエスのご受難を覚え、その深い恵みを味わい知る教会暦です。今年はヨハネ福音書の記事を読み進めながら、この季節を過ごしたいと考えています。
最初にイエス様が弟子たちと一緒に、「キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。」と記されています。このキドロンというのはヘブル語で「暗い」という意味のことばです。イエス様は弟子たちと共にその谷に降りて行かれました。その谷の「向こうへ」出るために。
イエス様はいつもキドロンの谷の「向こう」へと、私たちを導いてくださいます。私たちに先立ってくださる方は暗黒の「向こう」の命へと一緒に歩いてくださるのです。暗黒を通って、であります。
さて、ユダに引き連れられた一団がやってきます。その時、イエス様は「御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て」とあります。すべてを引き受ける覚悟をもって、逃げも隠れもせずに捕縛の一団の前に進み出ます。「わたしである」と言います。そう言われたとき、彼らは後ずさりして地に倒れます。ヨハネ福音書は「栄光の主」のお姿を記します。そして弟子たちを去らせようとします。「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」との御言葉が実現します。
ところで軽挙妄動のペトロがとんでもない行動に出ます。剣を抜いて、大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としてしまったのです。ペトロとしては決死の覚悟で剣をふるったのでしょう。押し迫ってくる者たちの卑怯、卑劣な行動に我慢できなかったからです。しかし、イエス様はペトロの闘いを制止されました。そういう人間たちを切り捨てたとしても、問題は解決しないからです。私たちも取り巻く悪人たちを皆切り捨てたら、問題は解決するでしょうか?いえ、解決しないのです。深刻な問題は自分を含めた人間すべての中にあるからです。この問題を解決するために、救い主は自らを神様の審きの下に置かれたのです。神の子の受難を外にして人間の救いはどこにもありません。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」
(ヨハネ17:21-22)
イエス様の祈りの言葉、「大祭司の祈り」の3回目です。
先々週読んだ17:11にこうあります。「わたしは、もはや世にいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」との祈りです。
イエス様は、最後まで弟子たちを愛し通されて、「守ってください」と祈り、「一つとなるため」にと言葉を重ねています。
イエス様は驚くべきことを語ります。父なる神様が子なるキリストの内におられ、子なるキリストが父なる神様の内におられるように、私たちが一つとされること。これがイエス様の思いです。人々がイエス様を信じるようになるのは、この思いによって成り立つのです。
私たちが主との交わりに入れられ、そして信仰共同体として教会を形づくるのも、そういう意味合いをもっているのです。「一つになるため」なのです。それも「あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(23節)と愛の関わりを強調なさっています。弟子たちにとっても、そして現代を生きる私たちにとっても、思いもよらないことであります。そんな愛の交わりの中に生かされているんだ!改めて主の愛の大きさ、深さ、広さに気づかされるところです。
これは、主の復活と昇天後、弟子たちに少しずつ理解され、聖霊を受けたあと誕生した初代教会において実践されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」(使徒言行録4:32-33)聖書が語っているところを抽象的にとらえず、具体的に行動することが求められているのです。
ローマ12:4-5にあるように「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」とある通り。出会った相手のよいところを見て学び、互いに寄り添ってキリストの体なる教会を形づくりたいですね。
「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることでなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
(ヨハネ17:13-17)
イエス様の祈りの言葉、「大祭司の祈り」の2回目です。
先週読んだ17:11にこうあります。「わたしは、もはや世にいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」との祈りです。
イエス様は、自分がこれからどうなるかを知っており、その後に起こる弟子たちの身を案じています。弟子たち自身は何が何だか、これからのことをイエス様が話されても、理解しかねたようです。だからこそ、これから起こることの中で、愛する弟子たちが守られるようにと願い、切に祈ってくださっているのです。この「イエス様に愛されている、祈られている」という感覚を現代に生きるクリスチャンである私たちも持ちたいと思います。イエス様つながりを覚えて、私たち自身が祈れば、その確信はいよいよ深まるかと思います。
そして、ここで注目したいのは、イエス様と弟子たちの関係は御言葉を仲立ちとして出来たものであるということです。御言葉が語られ、それが聞かれている。その一点に主と弟子たちの結びつきがあるのです。弟子が弟子たるゆえんは、その品性や性格によってではないのです。(あらまぁ、そうなんですねぇ。と安心する方もいらっしゃるかもしれません。)
主が語り、弟子たちが聞いている。そこに新しい世界が出現しています。
そして「世に属していない」という価値観に支えられています。ある意味、この世に「属している」のであれば、周りの誰とも摩擦を起こさず生き易くなるのは分かりますよね。しかし、主が伝えた「真理」によって、「聖なる者」とされる。その価値観は、信仰をもっていないとなかなか分かりにくいことです。ある意味、分かってもらえないというか、時には「世は彼らを憎みました」という事態になるわけです。けれども主イエスは祈っています。「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」これは主の祈りにも通じている言葉です。「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」です。
私たちには常に悪との戦いが強いられます。しかし、イエス・キリストがまず私たちの為に祈ってくださったことを覚え、感謝していきましょう。
「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
(ヨハネ17:1b-3)
イエス様の祈りの言葉、「大祭司の祈り」と言われていますのが、この17章です。ここを3回に分けて味わっていきたいと思っています。
今日のところで、しっかりと覚えたいのは、「永遠の命」です。
以前、私が大学生の頃参加した松原湖バイブルキャンプのお話をしました。そのキャンプで「永遠の命」という言葉に出会って、それが地上における命が永遠に続くことなのか何なのか、リーダーに質問しました。しかし、納得できる答えを得ることが出来ませんでした。なんとか答えを見つけるべく、お昼の休憩時間に湖岸に出て、ヨハネによる福音書を通読しました。6章40節で「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである。」とあり、終末に向けての希望を得ました。そして、今日の個所では「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあって、なるほどそうなのか、と思い至ったのです。
この「知る」という言葉ですが、知的に知るという意味合いではありません。人格的に知る、すなわち「出会う」「交わりを持つ」という意味で用いられているのです。(ルカ1章で天使から主イエスの誕生を告げられたマリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言った「知る」がそれに相当します。)
ですから、永遠の命の祝福は、終末の希望でもあり、父なる神様とのつながり、主イエスとの出会いの中にあるのです。私たちの地上の生涯は遅かれ早かれ終わりを迎えます。その体は土葬にせよ、火葬にせよ、朽ち果てます。塵は塵に帰ります。しかし、父なる神様と主イエスに出会い、そのつながりの中にある者には、その先に思いをはるかに超えた永遠の命が約束されています。なんという恵み、なんという幸い。だから、死に際しても私たちは「父のみもとに召された」と言い、地上でのしばしの別れを悲しむとも、「地上での生涯を終えて神様のもとに憩う幸い」に思いをはせることが出来るのです。これは、クリスチャンの特権かもしれません。
永遠の命とは、父なる神様と主イエスを知ること、深い交わりに入ることです。だからこそ、信じていれば安心して生きていけるのですね。
永遠の命が約束されている幸い、それをじっくり感じましょう。そしてまだ主を知らない周りの方々に「私って幸せ!」と言い続けたいものです。