日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

  ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、主にかけて誓って言う。明日または、明後日の今ごろ、父に探りを入れ、あなたに好意的なら人をやって知らせよう。父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように。主が父と共におられたように、あなたと共におられるように。そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい。」

            (サムエル記上20:11-15)

 

 ダビデはひそかにラマのマヨトから逃げ戻り、ヨナタンにサウル王から命を狙われていると伝えました。ヨナタンは父王の思いを確認し、二人だけがわかる方法でダビデに伝えることを約束しました。ヨナタンとしてはかつてサウル王が言った「主は生きておられる。彼を殺しはしない。」(19:6)を信じたかったでしょう。しかし、新月祭の食事の席で、ダビデの不在理由を伝えたヨナタンさえも怒りの対象となり、槍を投げつけられました。ヨナタンの淡い期待は打ち破られ、ダビデの言うとおりだったことが証明されたのです。

 ヨナタンは約束どおりの時刻に野に出て、矢を三本射ると連れてきた少年に「矢はお前のもっと先ではないか。」と叫びました。それはダビデにサウルが命を狙っていることを伝える合図でした。さらに「早くしろ、急げ、立ち止まるな」と声をかけました。すぐに逃げよとの警告を発したのです。従者を帰らせた後、ヨナタンとダビデは顔を合わせてあい、主の前に契約を交わしました。神様が、それぞれの子孫の間の永遠の証人であるとの約束です。(その後ヨナタンが戦死し、サウル王朝も滅び、ヨナタンの家系が絶えそうになったときに、ダビデはその契約を思い起こし、ヨナタンの息子を救いました。サムエル記下9章)この後、ダビデはサウルの殺意から身を守る為に、ひたすら逃亡の生活を送ります。

 ダビデとヨナタン。二人は心から相手を尊敬し、大切に思っていましたが、サウルがダビデを敵視するようになってからは、その友情は引き裂かれてしまいます。それでも二人には、自分の思いよりも神様のみこころを第一にする姿勢がありました。また、相手のために行動する愛がありました。「どのようなときにも、友を愛すれば 苦難のときの兄弟が生まれる。」(箴言17:17)私たちが生きていくためには誰かとの関わりが必ず必要です。ダビデとヨナタンのように、よい友人が与えられることは人生の祝福です。あら探しをしがちな私たち。互いの足を引っ張り合うことはエネルギーの無駄遣い。互いに助けあうことにエネルギーを使いたいですねぇ。相手のよいところを見つけ出し、共に生きていく道を探しましょう。「主よ、この私がそう出来るように助けてください!」と祈りましょう。

 

 

 ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三弦琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。

            (サムエル記上18:5-9)

 

 ダビデがゴリアトを討伐した後、サウルは彼を召し抱えました。ダビデの戦功をほめた「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」との喜びの歌声を耳にしたサウル王は激しく怒りました。自分は「バカにされた!」妬みにかられたサウル王は、ダビデが自分の王位を脅かすと恐れ始めておりました。一方ダビデは、サウルの命令に従順で、遣わされる先々で勝利を収めました。主がダビデと共におられたからです。サウルの恐れは次第に敵意と殺意へと変わっていきます。

 サウルに災いをもたらす神の霊が降ると、狂乱状態になりました。そこでいつものように竪琴を奏で、サウル王をいやそうとするダビデに、サウルは手にしていた槍で彼を突き刺そうとします。ダビデは身をかわして難を逃れます。

 

 サウル王の悲劇はどこに起因するのでしょうか。それは自らとダビデを比べたことによります。自分が過小評価され、ダビデがより高く評価されている!と。そして妬みが芽生えます。幸雄牧師はよく言っておりました。「比べることは不幸の始まり」そうなんです。あるがままの自分を肯定し、神様に愛されていることを喜んでいれば、誰彼と比較する必要はなくなるわけです。ところが、私たちはつい比較してしまいがちです。自分にないものを他人がもっていると妬むのです。そして最終的に、自分が一番でないと満足しないということに陥ります。

 主イエス・キリストに従っていた弟子たちですら、誰が一番弟子かということでもめておりました。家も財産も捨てて主に従った弟子たちの間でそんなことが起こるなんて!主イエスは言いました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35)ダビデはサウル王に仕えました。

 もし、誰かに対して妬みや怒りが生まれるのは、それはまだ、私たちが神様の愛で十分に満たされていない証拠です。そんな時にこそ、心を落ち着けましょう。悪霊に支配されないよう心したいものです。そして、神様に向かって心を開きましょう。私たち一人ひとりの心を、神様が愛で満たしてくださるよう祈りましょう。その祈りは必ずや聞きとどけられます。

 

 ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましよう。サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのべリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出てきて群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のべリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましよう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」

(サムエル記上1 7 : 3 2-3 6 )

 ダビデはサウルのもとと自分の家を行き来する生活を送っていたようです。サウルが悪霊に苦しめば、ダビデは行って竪琴を奏でてサウルを癒やし、サウルの調子が良ければ父の家で羊飼いをしていました。ゴリアトがイスラエル軍を挑発する言葉を、安否確認を父から言われ、戦場にいる兄たちを訪れた際に、ダビデは耳にします。
 ゴリアトを見て、イスラエルの兵士たちはみな恐れました。彼らは自分とゴリアトを比較して「勝ち目はない」と絶望していました。しかし、ダビデは、自分と共におられる生ける神様に目を向けました。ダビデは恐れではなく、生ける神の戦列をそしるゴリアトに対する憤りを抱きました。
サウルに呼び寄せられたダビデは、王から勝ち目はないと告げられます。けれどもダビデは、自分の力ではなく、共におられる生ける神さまの力に信頼しておりました。羊飼いとしての自分を、主が獅子や熊から守ってくださった経験から、主の揺るぎない信頼をもつダビデは、主がゴリアトの手からも自分を救ってくださると確信していたのです。
 戦場に丸腰で現れた美少年。ゴリアトはダビデを侮辱し、異教の神々によってダビデを呪いました。それに対してダビデは「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされないことを、ここに集まったすべての者は知るであろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」と。
 羊飼いの石投げで放った一つの石は、ゴリアトの額に食い込み、彼はうつぶせに倒れました。たった一つの石でダビデは勝利しました。生ける神様の力にまさるものはありません。ゴリアトにとどめを刺すと、ペリシテ軍は総崩れ状態になりました。
 私たちは日々の生活の中で、様々なことに立ち向かわなければなりません。それらすべてが神様をそしるようなものではないかもしれません。ときには、戦うより引くほうが良い場合もあります。けれども、それが私たちの神様の信仰に関わるものだとわかったなら、戦うのです。私たちの武器は、聖書の言葉です。「命の言葉をしっかりと保つ」(フィリピ2:16)みことばによって支えられ、助けられた経験は、私たちの主への信頼を強めていきます。主を信頼すると弱い者も強くされるのです。ハレルヤ!

 

 だから、 わたしたちは落胆しません。 たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

( コリントの信徒の手紙Ⅱ 4:16-18 )

 日本基督教団は教会行事の中で11月第一日曜日を「聖徒の日」 (永眠者記念礼拝)と定めています。この小さな群れでも、昨年度2人の兄弟が在天会員となりました。今朝は5年前に召された二宮幸雄牧師を含めて、3人を覚えて記念礼拝を持ちたく思います。讃美歌21が導入されてから、385番「花彩る春を」が歌われるようになりました。この歌詞に、先に召された信仰者の方々を重ね合わせて覚えるようになり、嬉しいですね。
 青田光晴兄は、2017年イースターに受洗され2024年7月に召されるまで7年間、 教会員として礼拝を共に献げました。凜とした姿勢で讃美歌を歌っている姿を思い起こします。280番「馬槽の中に」、493番「いつくしみ深い」が愛唱歌でした。孤独をかこつことなく、主にある交わりを体験し、時には「寄せ鍋つながり」もなさったことでした。
 藤田三郎兄は、2011年に常陸大宮伝道所に転籍し、目が不自由でしたけれども、おつれあいの十九姉共々、欠かさず礼拝に出席なさっていました。若い頃、親に心配をかけた時に母親が交通事故に遭い、それをきっかけに求道して20歳の時に洗礼を受けられました。私たちは信仰者として堅く立っておられた三郎さんに、どれだけ励まされたことでしょう。常陸大宮の日曜礼拝は、祝祷後奏の直後に散会するのではなく、二三人の祈りのグループを作って、祈り合い励まし合う、というスタイルを取っています。先に召された幸雄牧師、青田兄、藤田兄は「男性3人グループ」を作って祈り合っていました。その中でも藤田兄の朗々とした祈りの声は礼拝堂に響き渡ったことでした。愛唱讃美歌は、58番「み言葉をください」、新聖歌325番「歌いつつ歩まん」です。三郎さんの生きる姿勢が見事に歌い出されています。
 今や三人は主のみもとに召され、憩いを得ていることでしょう。そして「わたしたちの本国は天にあります。」(フィリピ3 : 20)との御言葉に励まされ、私たちは天を見上げます。 見えるものでなく、 見えないものに目を注ぎます。私たちもまた将来、そこに移されることが約束されていますので、望みを抱いて生きていけるのです。別離の時には悲しさや寂しさが私たちの心を支配していたかもしれません。しかし、主にあって癒やされ、永遠に存続するものに私たちは依り頼んで生きていけるのです。なんという幸い、なんと素晴らしい深い恵みでしよう。
私たちはこれからも、先に召された方々を覚え、また続く者としての幸いをかみしめていきたいと願っています。主よ導きたまえ、と祈ります。

 

 主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。この僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の気分を良くするでしょう。」サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して連れて来なさい。」・・・

 ダビデはサウルのもとに来て彼に仕えた。王はダビデを大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。

            (サムエル記上16:14-17,21-23)

 

   ダビデに主の霊が注がれた一方で、サウルからは離れました。そして更に悪いことには、主からくる悪霊にさいなまれるようになったのです。「主から」という言葉が出てくるように、サタンや悪霊すらも、主の支配のもとにあったことが分かります。サウルは度々悪霊におびやかされていました。そこで、家臣が「竪琴を弾く名手を探しましょう。」と提案します。

 この頃、すでに「音楽療法」があった、ということが分かります。その提案をサウルが受け入れ、人材を探した時、ダビデが見出されました。このダビデは、竪琴に巧みであったばかりでなく、戦術の心得もあり、言葉にも分別があって外見も良いとまさに三拍子も四拍子もそろった人物と推奨されています。特に「主がともにおられる人」ということは大切なことでした。こうしてダビデは王宮に出入りする「音楽療法士」となったわけです。また武器持ちとしても用いられるようになり、将来王として国を治める基礎訓練を始めることとなったのです。もちろん、サムエルによって「油注ぎ」がなされたことを、サウルが知ったら大変なことになるという危険はありました。しかし、突然サウルを襲う悪霊による病的な症状を、竪琴を奏でることによって心安らかにさせ、気分を上向きにしました。

悪霊を離させることに実に効果がありました。

 

 私たちが心に留めたいのは、サウル王に「仕えた」とあるダビデの姿勢です。もちろんサウルは王様でしたから主従関係という意味で「仕えた」になるのでしょうが、心身ともに「仕える」ということは努力がいることです。生前二宮幸雄牧師は、「我が家には女王様と王女様と召し使いがいる」と言っていました。当事者である私には、その言葉には限りない愛情を感じていました。自分は神さまから託された家族を、力の限り愛し抜こうとの思いです。それはイエス様が弟子たちの足を洗ったことに通じます。洗足は綺麗事ではすまないことです。汚くなる自分を承知で、目の前にいる人に出来うる限りのことをする。私たちは主イエスの愛に支えられています。「仕える」ことは主に愛されているからこそ、出来ます

 

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