メッセージ
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」
(ヨハネ17:21-22)
イエス様の祈りの言葉、「大祭司の祈り」の3回目です。
先々週読んだ17:11にこうあります。「わたしは、もはや世にいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」との祈りです。
イエス様は、最後まで弟子たちを愛し通されて、「守ってください」と祈り、「一つとなるため」にと言葉を重ねています。
イエス様は驚くべきことを語ります。父なる神様が子なるキリストの内におられ、子なるキリストが父なる神様の内におられるように、私たちが一つとされること。これがイエス様の思いです。人々がイエス様を信じるようになるのは、この思いによって成り立つのです。
私たちが主との交わりに入れられ、そして信仰共同体として教会を形づくるのも、そういう意味合いをもっているのです。「一つになるため」なのです。それも「あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(23節)と愛の関わりを強調なさっています。弟子たちにとっても、そして現代を生きる私たちにとっても、思いもよらないことであります。そんな愛の交わりの中に生かされているんだ!改めて主の愛の大きさ、深さ、広さに気づかされるところです。
これは、主の復活と昇天後、弟子たちに少しずつ理解され、聖霊を受けたあと誕生した初代教会において実践されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」(使徒言行録4:32-33)聖書が語っているところを抽象的にとらえず、具体的に行動することが求められているのです。
ローマ12:4-5にあるように「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」とある通り。出会った相手のよいところを見て学び、互いに寄り添ってキリストの体なる教会を形づくりたいですね。
「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることでなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
(ヨハネ17:13-17)
イエス様の祈りの言葉、「大祭司の祈り」の2回目です。
先週読んだ17:11にこうあります。「わたしは、もはや世にいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」との祈りです。
イエス様は、自分がこれからどうなるかを知っており、その後に起こる弟子たちの身を案じています。弟子たち自身は何が何だか、これからのことをイエス様が話されても、理解しかねたようです。だからこそ、これから起こることの中で、愛する弟子たちが守られるようにと願い、切に祈ってくださっているのです。この「イエス様に愛されている、祈られている」という感覚を現代に生きるクリスチャンである私たちも持ちたいと思います。イエス様つながりを覚えて、私たち自身が祈れば、その確信はいよいよ深まるかと思います。
そして、ここで注目したいのは、イエス様と弟子たちの関係は御言葉を仲立ちとして出来たものであるということです。御言葉が語られ、それが聞かれている。その一点に主と弟子たちの結びつきがあるのです。弟子が弟子たるゆえんは、その品性や性格によってではないのです。(あらまぁ、そうなんですねぇ。と安心する方もいらっしゃるかもしれません。)
主が語り、弟子たちが聞いている。そこに新しい世界が出現しています。
そして「世に属していない」という価値観に支えられています。ある意味、この世に「属している」のであれば、周りの誰とも摩擦を起こさず生き易くなるのは分かりますよね。しかし、主が伝えた「真理」によって、「聖なる者」とされる。その価値観は、信仰をもっていないとなかなか分かりにくいことです。ある意味、分かってもらえないというか、時には「世は彼らを憎みました」という事態になるわけです。けれども主イエスは祈っています。「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」これは主の祈りにも通じている言葉です。「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」です。
私たちには常に悪との戦いが強いられます。しかし、イエス・キリストがまず私たちの為に祈ってくださったことを覚え、感謝していきましょう。
「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
(ヨハネ17:1b-3)
イエス様の祈りの言葉、「大祭司の祈り」と言われていますのが、この17章です。ここを3回に分けて味わっていきたいと思っています。
今日のところで、しっかりと覚えたいのは、「永遠の命」です。
以前、私が大学生の頃参加した松原湖バイブルキャンプのお話をしました。そのキャンプで「永遠の命」という言葉に出会って、それが地上における命が永遠に続くことなのか何なのか、リーダーに質問しました。しかし、納得できる答えを得ることが出来ませんでした。なんとか答えを見つけるべく、お昼の休憩時間に湖岸に出て、ヨハネによる福音書を通読しました。6章40節で「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである。」とあり、終末に向けての希望を得ました。そして、今日の個所では「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあって、なるほどそうなのか、と思い至ったのです。
この「知る」という言葉ですが、知的に知るという意味合いではありません。人格的に知る、すなわち「出会う」「交わりを持つ」という意味で用いられているのです。(ルカ1章で天使から主イエスの誕生を告げられたマリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言った「知る」がそれに相当します。)
ですから、永遠の命の祝福は、終末の希望でもあり、父なる神様とのつながり、主イエスとの出会いの中にあるのです。私たちの地上の生涯は遅かれ早かれ終わりを迎えます。その体は土葬にせよ、火葬にせよ、朽ち果てます。塵は塵に帰ります。しかし、父なる神様と主イエスに出会い、そのつながりの中にある者には、その先に思いをはるかに超えた永遠の命が約束されています。なんという恵み、なんという幸い。だから、死に際しても私たちは「父のみもとに召された」と言い、地上でのしばしの別れを悲しむとも、「地上での生涯を終えて神様のもとに憩う幸い」に思いをはせることが出来るのです。これは、クリスチャンの特権かもしれません。
永遠の命とは、父なる神様と主イエスを知ること、深い交わりに入ることです。だからこそ、信じていれば安心して生きていけるのですね。
永遠の命が約束されている幸い、それをじっくり感じましょう。そしてまだ主を知らない周りの方々に「私って幸せ!」と言い続けたいものです。
「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
(ヨハネ16:30-33)
イエス様と弟子たちとのやりとりの中で、主が弟子たちを思いやる言葉が記されています。弟子たちの気づきの遅さに対して「今ようやく信じるようになったのか」と言います。確かに、イエス様と共に過ごし、数々の奇跡を目の当たりにし、主のストレートな語りかけに応じた弟子たちにしては、「ようやく」と言えるかもしれません。しかし、これが人間の現実です。そして、主の逮捕時を想定した言い方、「散らされてしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。」は、確かにその通りになりました。
弟子の一人、ペトロなどは「どこまでもついて行きます。」と言いつつ、自らの発言を裏切る行動をとってしまいます。しかし、弟子たちの裏切りに出会うことを想定しながらも、主イエスは「わたしはひとりではない。」と言います。「父が共にいてくださるからだ。」と重ねて言います。
これは、私たちの信仰においても大切なことを教えています。私たちは、敵対する人々の間で時には孤独感を深めます。しかし、自分は「ひとりぼっちじゃない」と感じることが出来たら、そのところから立ち上がれます。それはどうしたら感じられるのでしょうか?神様とのつながりを確認できるのは、祈りです。「神様、助けて!」と声をあげる。または「イエス様、一緒にいて守ってください」と祈る。そうすることで、私たちは力を得、困難な状況をくぐり抜けることが出来ます。もちろん状況が好転する場合ばかりではありません。むしろ状況は変わらず、つらいままかもしれません。しかし、その中でも「なんとか生きられる」との勇気が得られるのです。それはこの自分を頼りにすることなく、主を頼りにする生き方を再確認するからです。主が「わたしによって平和を得る」と言い切っています。だから大丈夫。主の十字架はその為にも打ち立てられています。
また「苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」との励ましの言葉が私たちの心に響きます。一見、敗北のように見える十字架です。しかし、十字架にかかられたイエス様は罪の奴隷であった私たちを贖い、解放してくださいました。十字架は勝利のしるしとなりました。キリスト教会はこの十字架をいつの時代にも掲げてきました。この勝利の十字架によって、私たちには平安と勇気が与えられています。
十字架を見上げて、「ハレルヤ!」と主をほめたたえましょう。
ルカによる福音書 19章1~10節
イエス様が町に来ると聞いて、徴税人のリーダーだったザアカイという男が一目見ようとやってきます。この時代の徴税人は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国のために働く者であり、しかもヒンハネして私服を肥やすのが常態化している仕事であったので、自他ともに認める「罪人」の代名詞のような存在でした。
そんなザアカイですが、何としてもイエス様に会いたかったようです。ザアカイを嫌う町の人々から遮られても、木に登ってまでイエス様を見ようとします。するとなぜかそのザアカイのいる木の下にイエス様はまっすぐ向かってきたのでした・・・(1~4節)
1.あなたの名を呼ぶイエス様
イエス様は木の下まで来て言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。(5節)」
不思議なことにイエス様は一度もあったことのないはずのザアカイの名前を知っていました。そしてその名を呼んだのです。それはイエス様が何でも知っている神様が人になられたからにほかなりません。もちろん、イエス様はあなたの名前も知っています。そして今日、あなたに呼びかけているのです。しかも、イエス様はあなたに迎えて欲しいと言っています。
2.イエス様を迎えて新しくなる
呼びかけられたザアカイは急いで降りてきてイエス様を迎えました。私たちが今、イエス様を迎えるのも簡単です。心をイエス様に向けて祈りましよう。「私はあなたをお迎えします。どうぞ、私の主として私の内においでください」と。周りの人の中にはザアカイの家に行くイエス様を見て、罪人の家に行っていると批判するものもいました。でも、イエス様は喜んでザアカイの家に行きました。周りの人がどういおうとイエス様は気にしません。わたしたちも気にせず来てくださるイエス様を迎えましよう。(6~7節)
3.イエス様の宣言の確かさ
さらにザアカイはこれまでの生き方を変えて、イエス様に相応しく生きようと宣言しました(8節)。実際できたかどうかは書いていませんが、イエス様はその言葉をとても喜んで救いを宣言しました。私たちもイエス様に相応しく生きる生き方を宣言して始めましよう。自信がなくても構いません(それが普通です)。変えてくださるのも、失敗しても助けてくれるのもイエス様なのです。それごと信じて一歩踏み出しましよう。何よりも、イエス様の救いの宣言は「今日、救いがこの家を訪れた(9節)」でした。一度、宣言した神様の救いの約束は取り消されることはありません。
安心してイエス様について行きましよう。