メッセージ
ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましよう。サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのべリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出てきて群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のべリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましよう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」
(サムエル記上1 7 : 3 2-3 6 )
ダビデはサウルのもとと自分の家を行き来する生活を送っていたようです。サウルが悪霊に苦しめば、ダビデは行って竪琴を奏でてサウルを癒やし、サウルの調子が良ければ父の家で羊飼いをしていました。ゴリアトがイスラエル軍を挑発する言葉を、安否確認を父から言われ、戦場にいる兄たちを訪れた際に、ダビデは耳にします。
ゴリアトを見て、イスラエルの兵士たちはみな恐れました。彼らは自分とゴリアトを比較して「勝ち目はない」と絶望していました。しかし、ダビデは、自分と共におられる生ける神様に目を向けました。ダビデは恐れではなく、生ける神の戦列をそしるゴリアトに対する憤りを抱きました。
サウルに呼び寄せられたダビデは、王から勝ち目はないと告げられます。けれどもダビデは、自分の力ではなく、共におられる生ける神さまの力に信頼しておりました。羊飼いとしての自分を、主が獅子や熊から守ってくださった経験から、主の揺るぎない信頼をもつダビデは、主がゴリアトの手からも自分を救ってくださると確信していたのです。
戦場に丸腰で現れた美少年。ゴリアトはダビデを侮辱し、異教の神々によってダビデを呪いました。それに対してダビデは「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされないことを、ここに集まったすべての者は知るであろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」と。
羊飼いの石投げで放った一つの石は、ゴリアトの額に食い込み、彼はうつぶせに倒れました。たった一つの石でダビデは勝利しました。生ける神様の力にまさるものはありません。ゴリアトにとどめを刺すと、ペリシテ軍は総崩れ状態になりました。
私たちは日々の生活の中で、様々なことに立ち向かわなければなりません。それらすべてが神様をそしるようなものではないかもしれません。ときには、戦うより引くほうが良い場合もあります。けれども、それが私たちの神様の信仰に関わるものだとわかったなら、戦うのです。私たちの武器は、聖書の言葉です。「命の言葉をしっかりと保つ」(フィリピ2:16)みことばによって支えられ、助けられた経験は、私たちの主への信頼を強めていきます。主を信頼すると弱い者も強くされるのです。ハレルヤ!
だから、 わたしたちは落胆しません。 たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
( コリントの信徒の手紙Ⅱ 4:16-18 )
日本基督教団は教会行事の中で11月第一日曜日を「聖徒の日」 (永眠者記念礼拝)と定めています。この小さな群れでも、昨年度2人の兄弟が在天会員となりました。今朝は5年前に召された二宮幸雄牧師を含めて、3人を覚えて記念礼拝を持ちたく思います。讃美歌21が導入されてから、385番「花彩る春を」が歌われるようになりました。この歌詞に、先に召された信仰者の方々を重ね合わせて覚えるようになり、嬉しいですね。
青田光晴兄は、2017年イースターに受洗され2024年7月に召されるまで7年間、 教会員として礼拝を共に献げました。凜とした姿勢で讃美歌を歌っている姿を思い起こします。280番「馬槽の中に」、493番「いつくしみ深い」が愛唱歌でした。孤独をかこつことなく、主にある交わりを体験し、時には「寄せ鍋つながり」もなさったことでした。
藤田三郎兄は、2011年に常陸大宮伝道所に転籍し、目が不自由でしたけれども、おつれあいの十九姉共々、欠かさず礼拝に出席なさっていました。若い頃、親に心配をかけた時に母親が交通事故に遭い、それをきっかけに求道して20歳の時に洗礼を受けられました。私たちは信仰者として堅く立っておられた三郎さんに、どれだけ励まされたことでしょう。常陸大宮の日曜礼拝は、祝祷後奏の直後に散会するのではなく、二三人の祈りのグループを作って、祈り合い励まし合う、というスタイルを取っています。先に召された幸雄牧師、青田兄、藤田兄は「男性3人グループ」を作って祈り合っていました。その中でも藤田兄の朗々とした祈りの声は礼拝堂に響き渡ったことでした。愛唱讃美歌は、58番「み言葉をください」、新聖歌325番「歌いつつ歩まん」です。三郎さんの生きる姿勢が見事に歌い出されています。
今や三人は主のみもとに召され、憩いを得ていることでしょう。そして「わたしたちの本国は天にあります。」(フィリピ3 : 20)との御言葉に励まされ、私たちは天を見上げます。 見えるものでなく、 見えないものに目を注ぎます。私たちもまた将来、そこに移されることが約束されていますので、望みを抱いて生きていけるのです。別離の時には悲しさや寂しさが私たちの心を支配していたかもしれません。しかし、主にあって癒やされ、永遠に存続するものに私たちは依り頼んで生きていけるのです。なんという幸い、なんと素晴らしい深い恵みでしよう。
私たちはこれからも、先に召された方々を覚え、また続く者としての幸いをかみしめていきたいと願っています。主よ導きたまえ、と祈ります。
主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。この僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の気分を良くするでしょう。」サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して連れて来なさい。」・・・
ダビデはサウルのもとに来て彼に仕えた。王はダビデを大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。
(サムエル記上16:14-17,21-23)
ダビデに主の霊が注がれた一方で、サウルからは離れました。そして更に悪いことには、主からくる悪霊にさいなまれるようになったのです。「主から」という言葉が出てくるように、サタンや悪霊すらも、主の支配のもとにあったことが分かります。サウルは度々悪霊におびやかされていました。そこで、家臣が「竪琴を弾く名手を探しましょう。」と提案します。
この頃、すでに「音楽療法」があった、ということが分かります。その提案をサウルが受け入れ、人材を探した時、ダビデが見出されました。このダビデは、竪琴に巧みであったばかりでなく、戦術の心得もあり、言葉にも分別があって外見も良いとまさに三拍子も四拍子もそろった人物と推奨されています。特に「主がともにおられる人」ということは大切なことでした。こうしてダビデは王宮に出入りする「音楽療法士」となったわけです。また武器持ちとしても用いられるようになり、将来王として国を治める基礎訓練を始めることとなったのです。もちろん、サムエルによって「油注ぎ」がなされたことを、サウルが知ったら大変なことになるという危険はありました。しかし、突然サウルを襲う悪霊による病的な症状を、竪琴を奏でることによって心安らかにさせ、気分を上向きにしました。
悪霊を離させることに実に効果がありました。
私たちが心に留めたいのは、サウル王に「仕えた」とあるダビデの姿勢です。もちろんサウルは王様でしたから主従関係という意味で「仕えた」になるのでしょうが、心身ともに「仕える」ということは努力がいることです。生前二宮幸雄牧師は、「我が家には女王様と王女様と召し使いがいる」と言っていました。当事者である私には、その言葉には限りない愛情を感じていました。自分は神さまから託された家族を、力の限り愛し抜こうとの思いです。それはイエス様が弟子たちの足を洗ったことに通じます。洗足は綺麗事ではすまないことです。汚くなる自分を承知で、目の前にいる人に出来うる限りのことをする。私たちは主イエスの愛に支えられています。「仕える」ことは主に愛されているからこそ、出来ます
サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招かれた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
(サムエル記上1 6 : 5b-7)
私たちが支配されやすい「ルッキング」に関して、今日の所は明解な答えを出しています。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と。だから私たちは安心して生きていかれます。
主はサウル王を退け、エッサイの息子の中に将来王となるべき者を見出しました。そこでサムエルを遣わし油注ぎをさせようとしました。主のご計画を知ったサムエルは、サウル王に殺されるのではないかと恐れました。そこで主は「主にいけにえをささげるために来ました」と言い、サムエルをベツレヘムに行かせました。主のシナリオ通りに彼も実行しました。
いけにえの会食にエッサイとその息子たちが招かれました。長男のエリアブは容姿に恵まれており、サウルを選んだ時と状況が似ていました。しかし、主は彼を退けました。アビナダブ以下、他の兄弟達も主はお選びになりませんでした。そこでサムエルはエッサイに尋ねます。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の息子が残っていますが、今、羊の番をしています。」ダビデは連れてこられ、主は「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」と宣言します。
ここで心に留めたいのは、祝宴に招かれたのはエッサイの息子全員であったにもかかわらず、末息子ダビデはのけ者にされていたことです。エッサイも兄たちも、まだ少年だったダビデのことを軽く見ていたからでしょう。しかし、主はまさに取るに足りないと思われている者、見下されている者、人の目には無に等しい者をお選びになるのです。「天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:9)
末息子ダビデは血色が良く、目は美しく、姿も立派でした。目については、主イエスはこうおっしゃっています。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」(マタイ6: 22) ダビデの目の美しさは、彼の内にある光によるものでした。主に従う心からあふれ出す信仰の光と言えます。主はこのダビデの心をごらんになったのです。見かけの善し悪しは二の次でした。
ダビデは容姿端麗でしたから、やはり見かけが良いので、と私たちは思いやすい。しかし、主は見かけではなく心を見るお方。ダビデが実際に王となるにはまだ長い年月を要します。けれども、彼はさまざまな試練を通して、共におられる神に信頼することを学んでいきます。私たちもまた、主が見てくださる「信仰する心」を保って生きていけるよう祈りましょう。
サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの上に王とされたのだ。主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」
(サムエル記上1 5 : 1 7-1 9 )
サウル王の失敗、 その②です。 なぜサウルが王としての資格を奪われ、ダビデが新たに王として擁立されたかを説明する個所です。 彼をむしばみ始めていた神さまへの不従順は、ここでしっかりと明らかにされています。
「罪」とは何でしようか?それは、神さまの御心にそむくことです。
神さまの命令に従わないこと、それに尽きるのです。ですから、私たちもまた「今していることは『神さまがしてはならない』と言っていることかどうか」の吟味が大切です。
「アマレク人を聖絶せよ」とは厳しい命令です。遊牧の民アマレク人は、エサウの子孫でしたが、神さまを畏れず、出エジプトの際には、疲れて弱っていたイスラエルの民を背後から襲い、落伍者を切り倒すという卑劣な行為をしました。その時からすでに二百年ほど経過していますが、ここで神さまはサウルに、その刑罰としての「聖絶」を命じられたのです。
神さまへの献げ物として、容赦なく滅ぼし尽くせと。
サウルは戦いをしかけ、勝利します。ところが、サウルの不従順が表れ、彼はアマレク人の王アガグ及び上質の家畜を惜しんで聖絶しませんでした。つまらないもの、値打ちのないものだけ滅ぼしました。
サムエルは、サウルに会う前にその不従順について知らされていました。神さまはサウルに失望し、「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ」とまで告げました。サムエルも心を痛め、世を徹して祈りました。しかし、そのサムエルの怒りや悲しみを知らないサウルは、 カルメルに戦勝碑を立てて、自分自身をたたえています。サムエルに聖絶しなかった事実を指摘されると、サウルは責任を兵士に転嫁して、これら最上の家畜を残したのは主の供え物とするためだと言い逃れをしています。
サムエルが主から語られたことを告げますが、なおも先の主張を繰り返します。けれども服従の伴わない供え物は、主に喜ばれません。後に預言者アモスは広義を欠いた献げ物は顧みられないと言います。(アモス5章)
さすがにサウルは権威あるサムエルの言葉を聞いて、自分の罪を率直に認めざるを得ませんでした。(24節以下)サムエルの言葉はさらにむち打つように響きます。「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる。」(28節)サムエルのサウルに対する思いは、主イエスのイスカリオテのユダに対する思いに近いようでしょう。 今こそ 「主の御心に従います!」 と祈り願っていきましょう。