メッセージ
イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人も、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
(ヨハネ19:17-19)
イエス様は自ら十字架を背負って、ゴルゴタに向かいました。肩に食い込む十字架の重み。特にむち打ちの刑を受けて、体力的にダウンしている状態ですからどんなに辛かったことでしょう。(途中でクレネ人シモンが代わりに背負ったという事も他の福音書に記されています。)
私たちはその罪のゆえに、イエス様が十字架にかけられると決まった時から、イエス様にたいそうな苦難を背負わせているのです。このレントの季節、それを忘れてはならないかと思います。
ゴルゴタに到着し、イエス様は二人の罪人と共に十字架につけられます。
右と左につけられた二人は、自分が犯した罪の結末を迎えています。イエス様は何も罪を犯されなかったにもかかわらず、イエス様を快く思わない人々の陰謀によって十字架につけられました。なんという対照的な構図でしょう。またピラトは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と罪状書きを掲げました。つまり、イエス様は王の王、主の主であったからこそ、私たちの罪の身代わりの死を遂げたのです。ピラトは群衆の十字架刑を求める声には屈しましたが、罪状書きについては自分の意見を貫きました。時すでに遅し、ではありますが。ところで、この二人のイエス様に対する態度も対照的です。一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言い、もう一人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(ルカ23:39-41)私たちもいつかこの体の死の時を迎えなければなりません。罪の結末ですから楽ではないと思います。しかし、その死にはもはや呪いはないのです。私たちの隣で、救い主がその呪いのすべてを受け取ってくださっているからであります。苦しいけれど、それは命への入り口であります。
さて。イエス様の十字架のそばには、母マリアと三人の女性が立っていました。息子の死に立ち会うとは、それも罪人として十字架刑に処せられるとは、どんなにか辛かったことでしょう。想像に余りあります。
しかし、十字架の苦しみと悩みの「そばに」身を置くことによって、女性たちは、悲嘆の中にありながら、そこから流れ出る慰めと恵みを受け取るのです。そして、イエス様は最後までマリアのことを配慮しておりました。母マリアを愛する弟子ヨハネに託します。愛が愛を、配慮が配慮を生み出します。私たちの周りはいかがでしょうか。祈っていきましょう。
「主よ、あなたの愛によって、私をも愛を与える者としてください。」
そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。
(ヨハネ19:10-14a)
ユダヤ人たちが「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んでいる中で、ピラトは「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない」と言いました。ピラトは自分自身が釈放を決めることも十字架につけることも出来ることを承知していました。だからこそ、罪を認められないので、出来ることならば釈放したかったのです。
しかし主イエスを死罪にしようとたくらんでいるユダヤ人たちは、ピラトを「皇帝に背く者」と言い出します。もしピラトが本当に皇帝に忠実なら、ローマ法に基づいて正義を貫くことも出来たでしょう。しかし、彼は法に従うよりも、人々の目や声を恐れて動揺してしまいました。
結局、ピラトはその権限をもって主イエスを十字架につけました。しかし、主イエスはそのピラトに対して「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」と言いました。それはイスカリオテのユダでしょうか?
それとも裁判の席に引っ張り出した祭司長や律法学者たちでしょうか?
私たちは「悪者探し」をして、悪事の根源はここと決めつけたがります。そこで覚えたいのです。実は主イエスを十字架へと赴かせたのは、私たちであります。私たちの罪であります。悪人をどこかに探しているかぎり、十字架の恵みはわからないままなのです。
ピラトが主イエスを裁判の席につかせたその時は、過越祭の準備の時、犠牲の小羊が用意される時でありました。主イエスの十字架は打ち立てられなければならなかったのです。神様のみこころに従って、過越祭が始まりました。皇帝であろうと、総督ピラトであろうと、阻止することの出来ない、人類救済の過越祭がここに始まりました。
ピラトは念を押すように「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言います。祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えました。詩編10:16で「主は世々限りなく王」との信仰はどうしたのでしょうか。人々を導いて神様を礼拝する立場にいる祭司長たちは、主イエスを殺すためには「皇帝こそ王」であると告白します。
「主よ、私が罪の力に巻き込まれないように、日々守ってください。」
イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
(ヨハネ18:36-38)
ピラトから尋問を受けるイエス様。「御前がユダヤ人の王なのか」との問いに対し、この地上の王ではないと否定します。神の国の王として、毅然とした態度でピラトの尋問に対します。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と答えます。イエス様は、御自分の心に真理の支配を打ち立てられました。そして、神の前に正しく、清らかな心で生きたいと願う者は、みなこぞってイエス様に従ったのです。
イエス様は、どのようにして御自分の中に、真理の支配を実現したのでしょう。荒れ野で悪魔から誘惑されたとき、イエス様が決して誘惑に屈しなかったことを思い出してください。イエス様は御言葉をもって、悪魔の誘惑と戦い、自分自身の心を守り抜きました。空腹や厳しい荒れ野の自然にさいなまれながらも、イエス様は自身の心に真理の支配、「神の国」を打ち立てたのです。
真理に生きる人は、自分の心の中だけでなく地上にも真理を実現して行きます。社会の片隅に追いやられ、苦しんでいる人たちがいれば、出かけて行って、「神様はあなたを愛している」と告げずにはいられません。また思い上がって悪事を働く人たちには悔い改めと謙遜を説かずにはいられません。そうした行動の結果、イエス様は十字架につけられました。それは敗北に見えますが、実は勝利でした。暴力に対して力で立ち向かうことによっては、決して平和が実現することはないとわかっていましたので、イエス様はその真理に従ったのです。
真理による支配は、一日で実現できるものではありません。悪魔の誘惑は日々私たちに攻撃をしかけてくるからです。「あの人だけは、何があっても絶対にゆるせない」とか「悪いとはわかっているけれども、このくらいならまぁいいだろう」というような考え方が私たちの心にやってくる時こそが、決戦の時です。悪魔は、怒りや憎しみを掻き立てたり、欲望に訴えたりして、真理の支配を崩壊させようとします。
心に真理の支配が実現すると、私たちは真理を生きる人になり、この世界に真理を実現してゆく人になります。王であるイエス・キリストに従って、私たちも、地上に「神の国」を実現するための戦いに参加できるよう祈りましょう。「主よ、私はあなたの羊です。あなたの声に聞き従います。」
門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ベトロは、「違う」と言った。
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「おまえもあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
(ヨハネ18:17、25-27 )
イエス様が逮捕され、大祭司のもとに連行されました。イエス様のことが心配であったペトロは大祭司の屋敷の中庭に入って様子をうかがっていました。たき火をしている人々の輪の中に入りました。弟子たちを危険な集団とみなし、あやぶんでいる人々の中に。敵対する人々の中で、身の置き所がないはずでありながら、人々のぬくもりを求めないではいられない、ペトロの弱さ、悲しみが伝わってまいります。しかし、やはり安心安全な場所ではありませんでした。「あの人の弟子の一人ではないか」と言われてしまいます。彼は必死になって「違う」と言い張ります。
なんと、先ほどイエス様の逮捕された現場に立ち会っていた人がおりました。ペトロに耳を切り落とされた人の身内の者です。「あの男と一緒にいるのを見た!」と。(だから蛮行に及ぶとあとあとまで影響が大きいですよねぇ。)ペトロは否認します。これで三度目。するとすぐ、鶏が鳴きました。
ルカ22章61-62節にはこう記されています。
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」
イエス様はそのペトロを見つめられます。弱い私たちを包む主のまなざしがあるから、私たちは繰り返し、立ち上がることが出来るのです。歩き始めた子どもが、母親の前で何度も倒れては起き上がるように。先ほど讀美歌21-197番「ああ主のひとみ」を賛美しました。その2節の歌詞そのままです。♪ああ主のひとみ、まなざしよ、三たび我が主をいなみたる よわきペトロをかえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや。♪
ペトロは主のまなざしに心を刺し貫かれました。外に出て、激しく泣きました。ペトロが新たに生き始めるには、この号泣が鍵になっています。主のまなざしを振り払って逃げたイスカリオテのユダは行く先を失い、自ら命を絶ってしまいました。一方ペトロは主のためなら命も捨てる覚悟でした。(ヨハネ13:37 )けれども身の危険を感じた時、三度もイエス様の弟子であることを否認しました。鶏が鳴いて、ペトロは自分の弱さ、愚かさ、惨めさに打ちひしがれました。そのペトロに向けられた主の慈しみにみちたまなざし。ここから新たに生き始めることが出来るのです。
こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへと出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一体の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の使わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
(ヨハネ18:1-5)
今週3月5日からレントが始まります。主イエスのご受難を覚え、その深い恵みを味わい知る教会暦です。今年はヨハネ福音書の記事を読み進めながら、この季節を過ごしたいと考えています。
最初にイエス様が弟子たちと一緒に、「キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。」と記されています。このキドロンというのはヘブル語で「暗い」という意味のことばです。イエス様は弟子たちと共にその谷に降りて行かれました。その谷の「向こうへ」出るために。
イエス様はいつもキドロンの谷の「向こう」へと、私たちを導いてくださいます。私たちに先立ってくださる方は暗黒の「向こう」の命へと一緒に歩いてくださるのです。暗黒を通って、であります。
さて、ユダに引き連れられた一団がやってきます。その時、イエス様は「御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て」とあります。すべてを引き受ける覚悟をもって、逃げも隠れもせずに捕縛の一団の前に進み出ます。「わたしである」と言います。そう言われたとき、彼らは後ずさりして地に倒れます。ヨハネ福音書は「栄光の主」のお姿を記します。そして弟子たちを去らせようとします。「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」との御言葉が実現します。
ところで軽挙妄動のペトロがとんでもない行動に出ます。剣を抜いて、大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としてしまったのです。ペトロとしては決死の覚悟で剣をふるったのでしょう。押し迫ってくる者たちの卑怯、卑劣な行動に我慢できなかったからです。しかし、イエス様はペトロの闘いを制止されました。そういう人間たちを切り捨てたとしても、問題は解決しないからです。私たちも取り巻く悪人たちを皆切り捨てたら、問題は解決するでしょうか?いえ、解決しないのです。深刻な問題は自分を含めた人間すべての中にあるからです。この問題を解決するために、救い主は自らを神様の審きの下に置かれたのです。神の子の受難を外にして人間の救いはどこにもありません。