メッセージ
終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。 (コリントの信徒への手紙Ⅱ 13:11)
明けましておめでとうございます。新しい年、私たちは心新たにして、「新年の目標」を立てるかと思います。(それが出来るかどうかは別として)そして、それ自体はいいことかなぁと思います。私も牧師として、聖書の御言葉によって励まされたいと願い、2026年度の教会主題「仕える」を先取りして、今朝の聖句を掲げました。
初っぱなから「喜びなさい。完全な者になりなさい。」と来ました。おお!とのけぞった方もいらっしゃるかもしれません。特に「完全な者」という言葉に抵抗があるかもしれません。シニアになればなるほど、自分がどれだけ努力したところで「完全な者」になれないと分かってしまうものです。特に「完全」をふりかざす「完全主義者」には辟易したことがあるからでしょう。「完全主義者」というのは、えてして不機嫌なものです。なぜならその人にとって不完全な人間をゆるすことが出来ないからです。そういう一般的な解釈から離れて、私たちは信仰者としてもう一度「完全な者」という言葉を吟味しましょう。実は信仰の完全は完璧ということではありません。自己の存在を喜び、他者の存在を喜ぶということになるかと思います。欠け多い者であるけれども、お互いに神様の赦しの下に生かされていることを喜ぶのです。幸雄牧師がよく言っていたことに「私たちが平等だ、というのは赦された罪人として平等だということだ」であります。神様の光に照らし出されて、私たちは暗闇から明るみにと移されました。クリスマスに「闇に輝く光・救い主の誕生」を喜び、祝いました。
赦されて生きている私たち。どんな正しさもそうした喜びにまさるものではありません。そうして私たちは罪から救い出されて、互いに励まし合うようにと置かれています。先日の信徒の友取材の折に、祈り合う群れの姿を見て頂きました。小さな群れではありますが、祈り合い、励まし合うことを通して「地上における神の国」を実現したいと願っていることを取材の方にお話しました。先ほども申し上げた通り、私たちは誰一人として完璧ではありません。しかし、主イエスの十字架によって罪の奴隷の身分から自由な人に変えられました。何という神様の深い愛、大きな恵み、それを互いに喜びあいたいと思います。
思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。とパウロは手紙の最後に言葉を重ねています。問題が多く、もめ事が絶えなかったコリントの教会に、パウロはあえて信仰者としてもう一度原点に戻り、平和な群れとなるようにと願っています。最後の13節は祝祷の原型になった言葉です。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」私たちは礼拝の最後にこの祝福の祈りを受けます。そして、祝福のうちにそれぞれの場に派遣されていきます。ハレルヤ!
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れ なさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイによる福音書1 :19-23 )
「天使が告げる」第二弾です。マリアに現れた天使は、夫になるヨセフの夢の中に登場します。そして秘かにマリアとの結婚を破談にしようとしたヨセフに、心を翻すように宣言します。自分の体面を保つ為にも、ここは破談にするのが妥当と考えたのでしょう。自分たちを世間はどう見るか、「恐れていた」のは間違いありません。だから天使も「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言います。なおその理由も述べられます。「胎の子は聖霊によって宿った」また「この子は自分の民を罪から救うから」そして「預言者を通して言われていたことが実現するため」と。夢の中で矢継ぎ早に言われ、とんでもない神様の計画が展開することを理解することも納得することも出来なかったかもしれません。
しかし、「正しい人ヨセフ」は、これを夢まぼろしと片付けませんでした。眠りから覚めると、妻マリアを迎え入れました。はからずも、自分た ちが神様のご計画に組み入れられたこと、その厳粛な事実を受け入れたのです。天使が告げるメッセージは、一瞬では「幸せ」とは感じられないかもしれません。神様に従うことで起こり得るリスク!それを感じたでしょう。しかし、そのリスクをもまた、主に委ねて一歩踏み出したのです。
「天使が告げるメッセージ」によって、新しく人は生き始めることが出来るのです。この自分をあてにせず、主にお任せするのです。
クリスマスシーズン、街中はハッピーな雰囲気に包まれます。見えない神様より見える楽しみを求めたくなります。しかし、主は私たちがイエス様を求めていなくても、私たちと同じ人間になられ、この地上に来て、「あなたと共にいる」と語りかけてくださる方なのです。居場所を探し求める私たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と言ってくださる主がおられます。乙女マリアにも、人間的な考えが先行するヨセフにも、主が共におられること忘れやすい私たちにも恵みを一方的に与え、決して離れることなく共にいてくださいます。罪から私たちを救い、約束を必ず果たしてくださる主が、いつまでも共にいてくださることをしつかりと覚えていきましょう。「インマヌエル」の主を喜びあふれて賛美してまいりましょう。メリークリスマス!
天使は彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
(ルカによる福音書1:28-33)
今年のクリスマステーマは「天使が告げるメッセージ」です。私たちの日常生活では、あまり天使が登場しないかもしれません。しかし、クリスマスには天使の出番がたくさんあります。そして、最初のクリスマスが本当に不思議に満ちた、神様の深い愛にねざしたものであることが私たちに知らされるのです。今日読んだ個所は「受胎告知」の場面です。
大工ヨセフの婚約者となっていたマリア。その彼女を仰天させる知らせを天使が告げるのです。「おめでとう、恵まれた方」まだ内容は知らされてはいません。祝福に満ちた呼びかけ、これだけならステキです。さらに「主があなたと共におられる」ときました。マリアはこれらの言葉に「戸惑い」そして「何のことかと考え込んだ。」とあります。天使の登場とその言葉に、考えるマリア。この思い巡らす姿は彼女の特徴でもあります。
戸惑うマリアに対して、天使はこれからマリアが男の子を産むこと、名前をイエスと名付けること、その子はいと高き神の子であるということを告げました。しかし、マリアは状況がよく飲み込めませんでした。処女である自分が妊娠するなんて不可能だと思ったからです。けれども天使は、聖霊によって子どもを授かることを告げます。そして、マリアの親戚エリサベトが高齢でありながら妊娠したことを思い出させ、最後にこう言ったのです。「神にはできないことは何一つない。」
すごい決めぜりふですねぇ。決め手は人間であるマリアでなくて、神様の方にあるということを確認させています。神様のご計画というのは、いつの世にあっても、深く遠大であります。人間にとってそこに組み込まれた当初は、戸惑うことばかりなのです。「なぜ、今、この私が???」しかし、後になって「神様は、この私を選び、十字架(使命)を負わせてくださったのだ」と分かることがあります。私にとっても、献身へと向かわせてくださった、牧師である父親の病気という契機がありました。その時には試練以外の何物でもなかったことが、恵みあふれる導きに変えられていく、そういう体験が皆様にもあるのではないでしょうか。
マリアは戸惑いましたが、ただ主の恵みと聖霊なる神様の働きによって、男の子を授かることが分かりました。有無を言わさない神様のご支配。その御旨に添うことが幸いであると覚えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」全てを主に委ねていきます。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光りが輝いた。・・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 (イザヤ書9:1,6)
今日は待降節第二主日です。信仰によって、クリスマスの喜びを先取りすることが出来ます。預言者イザヤの力強いメッセージを聴きましょう。預言者とは、現状を分析して「ここが問題だ」と批評する者でもなく、また、人々を一時的に安心させる「偽りの平和」を宣べ伝える者でもありません。厳しい苦難と暗闇があっても、神様の約束を語り続けるのです。
北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、その脅威が南王国ユダにも迫っている状況です。その恐れを感じている苦難と暗黒の時代です。
けれどもイザヤは、闇を覆す神様の約束を取り次いでいます。「闇の中を歩む民は大いなる光を見た。」と宣言します。まるでもぉ神様の約束が実現しているかのように、信仰の目でその光を見ています。(ミカ5章)
この光こそ、イエス・キリストです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)とある通り。イザヤを通して「ひとりのみどりごが与えられる」との約束がなされます。それは700年後に実現します。神様のご計画、年月はかかるようですが、必ずや実現します。私たちはすぐに実現しないと、「まるで神様は私たちを愛してくれていない」と、ふてくされます。けれども、絶望的な暗闇のような世界に光が射し込んできている、その「希望の光」を待ち望みつつ、ユダヤの民は喜び、前を向いていくことが出来たのです。
私たちにおいて「暗闇」とは何でしょう。神様の愛ゆえにこの世に送り出された人間は、互いに愛し合うことによってのみ、幸せになることが出来ます。ところがそれを覆い隠すものがあります。「人のことなぞかまってられない。自分さえ良ければいい」というわがままがあったり、「あんな人は絶対にゆるせない。」という憎しみにとらわれてしまったりして、私たちは愛することから遠ざかってしまいます。この愛を遠ざけてしまうもの、それが闇なのでしょう。競い合ったり、憎み合ったりして、本来の姿を忘れてしまうのです。神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない命、かぎりなく尊い命であることを忘れてしまいがちです。
そういう私たちを見るに見かねて、愛そのものである神様御自身が、人間となってこの世界に現れました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:1,14)神の愛そのものであるイエス・キリストは、私たち一人ひとりが神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない存在であること、競い合う必要などまったくないということ、互いに愛し合うことによってのみ幸せになれるのだということを思い出させるために、この世界にやって来られたのです。暗闇の中に輝く光、イエス様を喜んで迎えたいと願います。
ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。… 主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主が あなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。」
(サムエル記上24:5b-11,13)
兵を率いてダビデを追ってきたサウルは、洞窟に入って用を足そうとしました。ところがその奥に、ダビデと兵がひそんでおりました。ダビデの兵はサウル王を討つまたとないチャンス!と勧め、ダビデもひそかに近付いてサウルの上着の端を切り取りました。が、それにとどめ、サウルを討とうとしませんでした。切り取ったことにも良心の呵責を覚えたほどです。
「主が油注がれた方に、わたしが手をかけることをしない。」と言います。
たしかに、ここでサウル王を討取れば、もう逃げ回らなくていいのです。けれどもダビデは自分の利益となるよう行動するのではなく、神様を中心に物事を見極め、それを第一する生き方をするのです。
サウルの後から洞窟を出て行き謙遜に臣下として礼をつくします。証拠としての上着の端を見せ、自分には皮逆心が全くないことを言明します。自分を「死んだ犬、一匹の蚤」と呼び追跡するに値しない存在であると。復讐や裁きは主の御手に全く委ねていると言い切ります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ12:19)を思い出します。
サウルも悪霊の支配下にない時は、ものの道理もよくわかり、自分の非を悔い、感動して涙を流すほどでした。ここでダビデを褒め称え、王位は必ずダビデのものとして確立する、とまで言うのです。しかし、悲しいことに、サウルが正気に戻り、心が柔らかになったのは一時的なことでした。そのことをよくわきまえていたダビデはこの後、サウルと行動を共にせず、エン・ゲディの要塞に上って行きました。
私たちの生活において相手と争い、憎んだりしませんか。憎しみの炎以上に、悪魔を喜ばせるものはありません。燃え上がった炎は、双方を焼き尽くすまで消えません。悪魔の挑発にはのりたくありませんねえ。
相手と争ったとき、「自分が勝つか、相手が勝つか」と思わず、「悪魔が勝つか、神様が勝つか」と考えることです。憎しみに負ければ悪魔の勝ち、愛が憎しみを打ち破れば神様の勝ちなのです。主が勝利してくださる!