日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

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「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる」

詩編126編5節

 

(1)1~2節から、「偉大なことをなされる神を喜ぶという信仰」を学び取りましょう。

1節の「シオンの捕らわれ人」とは、何を示しているのでしようか。それは、紀元前5 8 6 年、隣国の強大な武力を持ったバビロニアが攻めてきて、多くのユダヤ人を首都のバビロンに捕虜として連れてゆきました。しかし、紀元前5 3 9年、ベルシャ王キュロスによって、捕囚となっていた人々は、ユダに帰国することを許可されます。これが、「シオンの捕らわれ人」の背景です。この詩人は、多分ユダ王国に残っていた人でしょう。傷ついた葦のような心となっている彼に、強烈なニュースが飛び込んできます。それが「主がシオンの捕われ人を連れ帰られる」と聞いたことです。モーセによってイスラエルの民が、突然、あのエジプトを脱出したのと同じことが今起きた。主が私たちを顧みて下さったという喜びに溢れ、声高らかに主を賛美したことでしょう。そして一度だけではなく、この出来事を思い起こす度に、何度も喜びに満たされたことでしょう。私たちは、心から喜べるのは、新しい楽しみや趣味ではなく、主の業であり主の御言葉です。このことを覚え偉大なことをなされる神を巡礼者のように繰り返し賛美したいと思うのです。

(2)3~ 4 節から、「ネゲブに川の流れをと祈りつつ待つ信仰」を学び取りましょう。

詩人は、今、落胆しています。「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いた」時、もうすぐ、バビロンから多くのユダヤ人が戻り、ユダの国は復興するとの喜びで心は膨らんでいたと思います。しかし、歴史をみると24年経過しても、エルサレムは復興せず、神殿も再建されません。この現実に詩人は立ち尽くすのです。そのような中で、「怒涛のようにユダの民を連れ帰って下さい」と祈るのです。イスラエルの民が繰り返して罪を犯し、主の裁きのよってバビロン捕囚となったにもかかわらず、そのイスラエルの民を再び顧み解放された。主の恵みは変わらない。必ず主は成し遂げて下さるという「全き信頼」です。信頼しつつ待つ信仰です。私たちも都上りの巡礼者のように、苦難にあっても、主への「全き信頼」を貫き、希望をもって析り続けましよう。

(3)5~6節の御言葉から、「主によって喜びの刈り入れがなされるという希望を持った信仰」を学び取りましょう。

5~6節は「未来」へと目が向けられた祈りです。エルサレムの悲惨な現状が、荒れた畑のように見えたのでしょうか、詩人は、素朴な農夫の働きに主の恵みを見ています。涙と共に種を蒔く、また種の袋を背負い、泣きながら出てゆくとは、何を示すのでしようか?廃墟のようになったエルサレムを見ることは、巡礼者にとって涙でしかありません。エルサレムが廃墟のようであることを知りつつ、私たち巡礼者はここに礼拝に来ます。それは農夫が毎年種を蒔くように礼拝に来ますという決意の表れです。「喜びの刈り入れ」とは、巡礼者たちの祈りに主が答えて下さり、あのバビロンにいる捕らわれ人が一斉に戻り、このユダの国が再建され、人々が喜びに溢れる時が来る。それが、詩人の歌う収穫であるということです。
そのことが必ず実現することを確信し、巡礼者はこの詩を歌いあげるのです。私たちも農夫のように福音の種を蒔きます。主イエスは、私たちが、福音の種を蒔き続けて御許に召された時、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえらる」との約束をしてくださっています。それであるならば、私たちは、主イエスから与えられる「栄光から栄光へ」という恵みを目指して、迷わず、気落ちせず、まっすぐに進んでゆきたいと思うのです。

 

 

「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。・・・」     (サムエル記上8:5-7)

          

「王を立ててください。」と、イスラエルの長老を始めとする人々がサムエルに迫った様子が記されています。一つには、祭司が裁きを行う体制が、もはや機能しないと感じたこと。それはサムエルの息子たちが、正道を歩むことなく、不正に手を染めていたことに対する批判もありました。また、神さまを主(主君)とすることよりも、他国のように自分たちの中から王を輩出して、そのもとで裁きが行われることこそ最善だと考えていたことによります。だからこそ、その申し出を受けたとき、彼らの言い分はサムエルの目には悪と映ったのです。神さまをないがしろにする行為だと。

 けれども、主に祈ったときに思いがけず「民の声に従うがよい。」との答えがありました。民のしてきたことが、主の御支配を無にすることだったと言うのです。「彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。」と言明します。出エジプトの恵みが簡単に忘れ去られ、主を退け王を立てようとする!!

 サムエルは王を立てたら、どんなに厳しい状況に陥るかを具体的に説明します。「あなたたちは王の奴隷となる。」とまで言い切っています。しかし、民はサムエルの声に聞き従おうとせず、「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」と言い張りました。主は「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と。

 ここでの民の問題点は、主が定め導いてくださる「みこころに沿った生き方」を捨てようとしたことです。自分たちの主張の先に、困難や苦境が待っていたとしても、とりあえず「他の国」と比較しても遜色ない体制作りこそが最善、最強だと思ったことです。人間の知恵が優先されています。

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)の聖句が警鐘のように響いてきます。

 これは、私たちも陥りやすい「罠」ではないでしょうか。信仰者として生きると、いわゆる「貧乏くじ」を引きやすい。なぜなら「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」(マタイ5章)は、踏みつけにされる危険をはらんでいるからです。しかしイエス・キリストに従おうとすれば、その生き方が模範になります。その幸いと恵みをしっかりと味わいたい。

 

 

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。(詩編100:2)

 

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(Ⅰテモテ1:15-17))

 

 クリスチャンとはどういう人を言うのでしょうか?罪を犯さない完全な人の集まりでしょうか。いいえ。もしそうならば、行いが完全な人しか救われないことになります。クリスチャンとは、イエス様を救い主と心から信じる人たちです。言い換えれば、イエス様の救いにあずかって、何が罪であるかをよく認識できるようになった人たちです。パウロがテモテに送った手紙でも、「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」と言っております。そう。ありのままの自分を見つめ、悪いところを素直に認め、主に直していただくのです。そうすることで、同じ罪を何度も犯すことはなくなります。まことの悔い改めは、同じ罪から私たちを守ります。

 逆に罪を隠す時、私たちはファリサイ派の人々のように、他人を赦せなくなり、さばきます。もし人をさばく心があると知ったら、自分の中に隠れている罪があると気づくべきではないでしょうか。罪を隠せば隠すだけ他人をさばきます。自分の罪が赦されていないので、他人も赦せないから。悔い改めの恵みは、主を愛する道であり、他人を神さまの愛でもって愛せる道でもあります。

 「賛美」はかたくなな心を砕きます。「賛美」には、悔い改めに導く力があります。それは、賛美にメロディーがあるからです。自分の気持ちにあったメロディーは、人の気持ちをホッとさせます。賛美はメロディーで感情を受容しながら、かたくなな心の扉を少しずつ開き、そこに神さまのメッセージを歌詞として心に運び込みます。信仰の種が心の中に賛美の言葉を通して蒔かれます。そして、悔い改めの恵みへと花咲くのです。

 賛美する時、あらかじめ決められた歌詞を歌うわけですから、本人の意思にかかわらずその言葉を告白しなければいけません。だからこそ、賛美を通して自分を変えるチャンスがあるということです。心から大きな声を出して賛美することで、歌う本人のセルフイメージを変え、信仰の土台作りがなされるのです。

 神さまを信じる私たちには、私たちを変えてくださる方がいつも共におられます。そう。主イエスです。主を賛美することで、私たちは外側のセルフイメージを変えていくと同時に、主は賛美する私たちの内面を癒やし、変えていってくださいます。どうぞ、思いっきり声をだして、心から賛美してみてください。賛美がもたらす恵みを共々に体験致しましょう。

 

 

サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの心の中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」イスラエルの人々はバアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。サムエルは命じた。「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。」人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、「わたしたちは主に罪を犯しました」と言った。サムエルはミツパでイスラエルの人々に裁きを行った。

               (サムエル記上7:3-6)

 

 サムエルがイスラエルの全体にまず勧めたことは、偶像を捨て、ただ一筋に主にのみ仕えることでありました。彼は、ペリシテの脅威から救われるには、一つ心になって、力ある主に立ち帰ること以外にないことを教えました。そこで、イスラエルの人々は、豊かな収穫の神としてカナンの地で拝まれていたバアルと、その妻とされている愛と戦争の神アシュトレトを捨て去り、主にのみ仕えるようになりました。サムエルは祈りの使命を果たし、民は断食をもって悔い改めの心を示しました。指導者としてのサムエルの働きが鮮やかに示されるところです。

 ところで、ペリシテ人は、祈りのために集まったイスラエル人の集会を、戦闘のための集結と誤解して、先手を打って攻撃をしかけてきました。イスラエルの人々は恐れ、サムエルに熱心な祈りをささげてくれるように願いました。サムエルはその依頼に応え、いけにえをささげて主に助けを求めて叫びました。「主は彼に答えられた(9節)」とあります。

 このように、彼らが主なる神に立ち帰っている最中に、ペリシテの攻撃が始まりましたが、この時主は雷鳴を用いてペリシテ軍を混乱させ、イスラエルに勝利をもたらしました。この個所で、祈りを「叫び」と呼んでいることが印象的です。求めが切実になってくると、また事柄が切迫してくると、祈りはどうしても「叫び」になる傾向があります。そして、その大声の祈りに、主も大声(雷鳴)で応答されたのですねぇ。私たちの祈りもまた、そうであっていいのではないかとも思います。お行儀良く、節度ある祈りは、周りからは歓迎されるかもしれません。しかし、緊急かつ必然な時に、私は叫びにも似た祈りがあってもいいかもしれないと思います。そして、それがまた自分自身に跳ね返って、クリスチャンとして生きる力、自らの信仰を奮い立たせる結果につながったらステキですね。

 サムエルは、記念の石を取り、「今まで、主は我々を助けてくださった(12節)」と助けの石を置きました。この後、ペリシテ人はサムエルの時代、二度とイスラエルの国境を侵すことはありませんでした。

 私たちもまた、神さまを仰ぎ見つつ、私たちの救い主イエス・キリストに望みをおいて生きたいと願います。「主よ、あなたにより頼みます。」

 

 

ペリシテ人は、祭司たちと占い師たちを呼んで尋ねた。「主の箱をどうしたものでしょう。どのようにしてあれを元の所に送り返したらよいのか、教えてください。」彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すにあたっては、何も添えずに送ってはならない。必ず賠償の献げ物と共に返さなければならない。そうすれば、あなたたちはいやされ、神の手があなたたちを離れなかった理由も理解できよう。」

「はれ物の模型と大地を荒らすねずみの模型を造って、イスラエルの神に栄光を帰すならば、恐らくイスラエルの神は、あなたたち、あなたたちの神々、そしてあなたたちの土地の上にのしかかっているその手を軽くされるだろう。なぜ、あなたたちは、エジプト人とファラオがその心を固くしたように、心を固くするのか。神が彼らを悩ませたので、彼らはイスラエル人を行かせざるえなくなり、イスラエル人は去って行ったではないか。」

               (サムエル記上6:2-3、5-6)

 

 神の箱を置いたことでペリシテ人の町々に、災厄が起こりました。そこで、神の箱を元の所に送り返そうとなり、占い師たちに返還方法を尋ねました。彼らは金の品物を雌牛の鞍袋に入れ、その牛車の上に神の箱を載せて送り返す方法を提案しました。これによって、迷信的不安を静め、幾分か残っていた疑い(これらの災厄には、本当にイスラエルの神の働きがあるのだろうかという疑問)をも晴らそうとしたのでした。罪過の為のいけにえが動物でなく、金と考えるのも異邦の民の特徴ですね。

 占い師たちは、出エジプトの歴史を少なからず知っていたようで、その方法はすぐに実行されました。また、牛車の牛についても、まだ乳離れしていない子牛を持つ2頭の雌牛に引かせ、どこへ行くかは牛に任せてみようとなりました。そして、子牛のところに行きたいという本能に逆らってまでイスラエルの地に向かうなら、この災厄がイスラエルの神からのものと断じ、そうでないなら、これは偶然起こったものだと結論づけようとしてのです。結局、2頭の雌牛は、子牛恋しさから鳴きながらも、子牛の方には行かず、右にも左にもそれずにベト・シェメシュに通じる一筋の道をまっすぐに進んで行きました。これによって、一連の災厄は主の手によるものであったことが誰の目にもはっきりと分かりました。

 ベト・シェメシュの人々は神の箱が返還されたのをみて、たいそう喜びました。主に感謝のいけにえを献げました。しかし、神の箱の扱いには慎重を期さなければなりませんでした。うっかりのぞいてしまった70人は、打たれて死にました。ここでも神の箱は脅威となります。今更ながら、聖なる神の御前に恐れおののき、自分たちでは神の箱を見守る責任を負いきれないと考え、十数㎞離れた所に住むキルヤト・エアリムの住民に、その務めをゆだねることを決意しました。そうしてキルヤト・エアリムの地に神の箱は20年間安置されました。

 神の箱に関して、敬虔な態度でこれに近付くことが求められました。

私たちの信仰生活においても「神さまを神とする」ことが大切です。

 

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