日本キリスト教団常陸大宮伝道所

メッセージ

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少年サムエルは、エリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。・・・主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と応えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました。」と言った。しかし、エリが「わたしは呼んでいない。戻ってお休み」と言ったので、サムエルは戻って寝た。主は再びサムエルを呼ばれた。・・・主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。

                 (サムエル記上3:1-9)

 

 主の言葉が臨むのはまれであった時に、少年サムエルは主から呼ばれ、言葉を預かることになります。それは就寝時に起きたことでした。最初は祭司エリに呼ばれたと思ったのですが、エリは呼んだ覚えがありません。三度目に呼ばれた時、エリはサムエルを呼んだのは主であると悟り、サムエルに「僕は聞いております」と答えて、聞きなさいと伝えます。

 そうしてサムエルはエリの家に関する主のお考えを知ることになります。その内容が厳しかったゆえに、最初はエリに告げるのを恐れました。しかし、エリに促され全てを話します。エリも「主が御目にかなうとおりに行われるように。」と受け止めます。これを手始めに、サムエルは主の預言者として用いられるようになりました。「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」とあります。彼は「主の預言者として信頼するに足る人」になります。

 皆さんは、聖書を読んでいる時や、教会で説教を聞いている時、神さまが自分に向かって語っていらっしゃると感じたことがありますか?もちろん、サムエルのように神さまの声を、実際にこの耳で聞くケースはまれでしょう。けれども、私たちの心に神さまが直接語りかけてくることがあるのです。私たちクリスチャンの願いは、神さまの御心を知ることです。その為には「主よ、あなたの言葉を聞きたいです。私に必要なことを教えてください。」と祈ります。しかしですねぇ。そうして祈り願ったことが、示されたことが、「イヤ」だったり、「無理!」と思えたりすることがあるかもしれません。そういう場合にどうしたら良いでしょう。実はそういう時こそ、自分の生き方が「自己中」から「神さま中心」へと軸が変わるチャンス!都合のよいことだけ受け入れる生き方自体を変えて頂くのです。

神さまが御心を示してくださったら、それが自分にとってハードなことであっても、神さまを信頼して逃げずに受け止めようとすれば良いのです。神さまは決して私たちが重荷に耐えかねて、よろめき倒れることを望んではおられません。もっと「この私を主として頼ってほしい」と願っておられます。「主よ、お話しください。僕は聞いております。」と祈りましょう。

 

 

サムエルは、亜麻布のエフォドを来て、下働きとして主の御前に仕えていた。母は彼のために小さな上着を縫い、毎年、夫と一緒に年ごとのいけにえをささげに上って来るとき、それを届けた。エリはエルカナとその妻を祝福し、「主に願って得たこの子の代わりに、主があなたにこの妻による子供を授けてくださいますように」と言った。こうして彼らは家に帰った。主がハンナを顧みられたので、ハンナは身ごもり、息子を三人と娘を二人産んだ。少年サムエルは主のもとで成長した。

                 (サムエル記上2:18-21)

                  

 ハンナの祈りがきかれ、与えられた幼子は、乳離れをした後でエリのもとに置かれました。我が子を献げる感謝の祈りが記されています。

 「主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。

 主は貧しくし、また富ませ  低くし、また高めてくださる。

 弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ

 高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。」

 

 「主に仕える者」として献げる。母親としては辛かったことでしょう。エリのもとに置いたサムエルへ、毎年上着を縫って届けたと記されています。母親の愛が見えるところです。サムエルの感情については記されていませんが、エリのもとに置かれた自分の状況をそのまま受け入れていたようです。「少年サムエルは主のもとで成長した。」とあります。

 この「主のもとで」という言葉がキーワードになっています。実の親に育てられることこそ最善だ、という原理があります。しかし、その親が「毒親」だったり、過剰に「理解ある親」だったりすると、必ずしも最善とは言えないこともあります。一方で、主の祝福のうちに成長することはなんと幸いなことでしょう。私自身、「母の胎にいた時から祈られた者」として生まれ、その後も、主が守り導いてくださった、なおかつ献身へと導かれ、伝道者として立てられたことの幸いを身にしみて味わっています。

 しかし「私はそんな恵まれた生育環境ではなかったわ」とおっしゃる方がいるかもしれません。そんな方からみれば「お嬢様育ちの苦労知らず」の人が言うことなんて・・・と思われるかもしれません。確かにその通り。性格形成や行動様式はその生育暦と深く関わりがあります。

 

 信仰者の生き方は「主のもとで」成長できるかどうかに関わってくるのです。逆に成長しない人に「アダルトチルドレン」なる呼び名もあるほどです。成長は、幾つになっても可能なのです。信仰が成長する為に必要なことは何でしょうか? それは「祈って、聖書を読んで、賛美する」ことにつきます。2002年、勝田教会にビジョンが与えられ、「牧師が祈る」だけでなく「牧師の為に祈る」教会に変わりました。主を愛し、主を賛美し、主の御用に用いてくださいと祈る時、私たちは更なる信仰の深みへと導かれるのです。「主よ、献げます。みむねのままに用いてください。」

 

 ハンナは言った。 「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたがたのそばに立って主が祈ったあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」 彼らはそこで主を礼拝した。

(サムエル記上1:26-28)

 熱心に祈ったハンナの祈りはきかれました。「主は彼女を御心に留められた。」(1:19)とあります。 苦しみ悩んだハンナではありましたが、主が絶望の底から引き上げてくださいました。私たちの人生においてもそういうことがあるのです。ひたすら絶望的な状況にあって、これは「祈るしかない!」と。そうです。 他に方法がなく、「この類いは祈りによらなければ解決しない」と感じて「祈る!!」そして、私たちの涙をぬぐってくださる方にお会いして、平安と希望を見出すのです。 (クリスチャンと言いながら、余りにも主に頼ることをせず、祈らない方が多いような気が致します。) 祈るとき、私たちは両手を組みます。心と思いと願いを両手で包みます。 「主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れくださる。」(詩編6:9)2章冒頭のハンナの祈り「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き御救いを喜び祝う。 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。 岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」 主による救いを高らかに賛美します。 祈りがきかれたことへの感謝があふれ出ています。

 私たちの生活において、どれだけ「神さまつながり」をしているだろうか、そこが信仰のポイントになってきます。 祭司エリに酒に酔っていると誤解されるほど熱心に祈っていたハンナ。 彼女は祈りの手応えを感じ、そして願った通りサムエルを産むことが出来ました。 そして規定に従って、わが子を祝福して頂く為に祭司エリの前に出て「あなたのそばに立って主に祈っていたあの女」と自らを現し、「この子を主にゆだねます。」と言い切ります。 祈り願って叶えられた!その感謝を表し、サムエルを献げます。

 「子どもが与えられ自分の悩みは解決した。」で問題解決、すべて終了!というのではないんですね。 ここがハンナの信仰が「篤い」と言えるところです。 主が為してくださったことへの感謝と共に、それに対してどう応えたらいいのか、それが分かり、実行にうつします。 説教の後に、讃美歌21の521番「とらえたまえ、われらを」を賛美します。 その4節で、「♪とらえたまえ、われらを。満たしたまえ、聖霊を。わがすべてをささげて 主のみ旨に 従わん♪」と歌います。 先週はペンテコステを記念して礼拝をささげました。 聖霊降臨を願う讃美歌を歌うタイミングの良さを覚えます。 神さまを自分の願いをきいてもらうATMかなんかのように勘違いしやすい私たち。 しかしハンナの信仰ならい、感謝をどういう形で表していくかを課題にしたいと思います。 「主よ、とらえてください。」

 

ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」

・・・ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。

            (サムエル記上1:10-11,15-17)

 

 「熱心に祈る」特に乞い願うことがあれば、そうなろうかと思われます。ハンナは子どもがいない故にもう一人の妻ペニナから、さげすまれ苦しめられておりました。悩み嘆いて必死に祈る姿は、祭司エリの目には、まるで酒に酔っているのかと見えるほどでした。だからエリから「酔いをさましてきなさい」と声がけされた時、「酒を飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」と答えました。祈りにはいろいろなスタイルがあります。ハンナにはハンナなりの方法があったのです。他人の目にどう映るか、それを気にしないで彼女は祈りました。

何かが「必要な」時、それを祈るのです。神さまはあなたの幸せを望んでおられます。祈りはきかれるのです。祭司エリも「イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように。」と言ってます。

 なかなか祈りがきかれない、という思いにとらわれることがあるかもしれません。しかし、祈りが無味乾燥に思えても、たゆまずに続けることです。干上がった土地だからこそ、恵みの雨が降り注ぐことを喜び迎えることが出来るでしょう。

 私の母飛田知恵子はいわゆる「祈り屋」さんでした。常に祈る。その祈りのリストは膨大で、彼女いわく「毎朝2時間は祈っている」と。親子だからか、娘としてあきれておりました。特に勝田教会員のどなたかに会うと「あなたのこと、ご家族の救いのこと、毎日祈っていますよ」と言っておりました。それに反発を感じていたのも事実です。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と聖書が言っているんだから、恩着せがましく当の相手に言うもんじゃない、と。けれども多くの方が、母の言葉を喜び、嬉しそうにしていました。「とりなしの祈り」は大切なんですね。

 

 今日はペンテコステ。聖霊が弟子たちの群れに降った記念の日。また、力を得た弟子たちが伝道に遣わされ、教会が誕生した日です。一同が一つになって集まっていた所に聖霊が降ったのです。現代を生きる私たちも、今このように礼拝堂に集い、主を賛美して力を得ます。「聖霊よ、降りてかわける心 恵みの雨にて 潤したまえ♪」祈り願って進みましょう。

 

喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。(詩編100:2)

 

兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

                                        (ローマ12:10-11)

 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。

                  (ヘブライ12:28)

 

 「主に仕える」という言葉は余りピンとこないと思われる人もいるでしょう。私自身も「仕える」なんて自分になじまない言葉のように思われたことがあります。けれども、先週一週間の皆さんの働きについて言えば。まさに「仕える」日々でした。おかげさまでバザーは11万4千円の収益がありました。こうして実績が目に見える場合は嬉しいですし、よく分かります。けれども普段は「仕える」ことは地味すぎて分かりにくいことです。(なかなか評価されないだけに、自分だけ犠牲を強いられているような気にもなるからです。)私自身、今回のバザーにおいて様々な感情に揺り動かされることがありました。特にある程度の数量を焼きませんと、バザーに来てくださった方々の要望に応じられないとのプレッシャーがあり、平安を保つというわけにはまいりませんでした。(きつめの言葉を受けた方、おゆるしください。)「仕える」ということは難しいと思いました。

 

 まず「仕える」と言った時に、相手を愛しているかどうかが鍵になってきます。「主に仕える」ということは「神さまを愛する」ことに他なりません。ではどうしたら、神さまを愛することが出来るのでしょう。まずは、神さまの愛に気づくことかなぁと思います。神さまは、私たちが愛する前から、私たちを愛してくださっています。恩知らずで、わがままで、欠点だらけの私たちを、あるがままに受け入れ、愛してくださっているのです。神さまの愛に気づくことから、神さまへの愛が始まります。そんな神さまの愛に気づくとき、私たちは喜びと感謝に満たされ、神さまを賛美せずにいられなくなるのです。

 神さまと愛の絆で結ばれたら、今度は「隣人を愛する」のです。大切なのは順番です。まずは、自分自身をあるがままに受け入れ、愛する必要があります。どれほど弱く、欠点だらけだったとしても、神さまはそんな私たちを「神の子」として愛してくださっています。御国の世継ぎとして受け入れてくれています。欠点だらけに見える隣人も「神の子」なのです。

 気をつけることもあります。神さまから愛されるために頑張る私たちは、愛することを仕えることを自分の努力の結果と勘違いします。しかし、神さまの愛に包まれて頑張る私たちは、頑張れること自体を感謝します。神さまの愛のうちで、あるがままに頑張って生きたいものです。

 

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