日本キリスト教団常陸大宮伝道所

宮嶋一夫

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。

             (ヨハネ福音書15:11-16)

イエス様は、私たちがご自分の愛にとどまり続けること、そして互いに愛し合うことをお命じになりました。この戒めは重荷ではなく、私たちが喜びで満ちあふれるようになるための祝福です。主の愛にとどまり、互いに愛し合うことで、喜びで満ちあふれる生活を送りたいものです。

 また「あなたがたはわたしの友である。」との言葉、嬉しいですねぇ。イエス様と弟子たちの関係は「主人と僕」ではない、と言うのです。「友」と呼び、またそれにふさわしい間柄になろうとされています。これは13節にあります「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と関わってきます。私たちは短絡的に「友のために」か、じゃあ私はどんな自己犠牲を払ったらいいのかとの思いに走りがちです。しかしイエス様は弟子たちを「友」と呼び、弟子たちを始めとする多くの人の罪を帳消しにするために、十字架にかかり命を捨てられました。その愛の大きさ、深さを覚えます。だからイエス様と私たちの間柄について、しっかりと確認しておきましょう。イエス様が「友」と呼んでくださり、その手をさし延べてくださっています。私たちはその手を握り返すだけでよいのです。そして「共にいます主」は私の友なんだ、と喜んで生きていけばよいのです。

 イエス様の友であるしるしは二つあります。イエス様の命じる愛の掟「互いに愛し合いなさい」を行うこと。それと父なる神様のみこころを知らされていることです。「互いに愛し合う」は実践ですから、それをするかしないかにかかってきます。けれども「神様のみこころを知らされている」については、「はて?」と思ってしまう方がいるかもしれません。そこで大切なのは、「祈って読んで賛美して」です。「主を主として過ごす」ことで、不安が確信に変えられます。信仰生活の基本を大切にしてください。恵みあふれる生活を送ることが出来ます。

 ここでもう一度覚えたいのは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」とのイエス様の言葉です。ここでイエス様は、私たちではなく、イエス様ご自身が主であり、主権者であることをはっきりさせています。イエス様は、私たちが実を結んで父なる神様の栄光を現すために、私たちを選んでくださったのです。

 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

             (ヨハネ福音書15:5-7)

 有名なぶどうの木のたとえの箇所です。「わたしはまことのぶどうの木」と主は高らかに宣言されます。そして「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(15:4))とつながることを強調されています。

 どうでしょうか?あなたは「主につながっている」という実感がありますか?ここで言われているのは一方通行のつながりではなく、双方向のつながりが問題とされています。主イエスからの手が差しのばされて、私たちをとらえます。また私たちの手が伸ばされ、主イエスの手を握ります。そのように双方が結びつくことによって枝は実をみのらせるのです。私たちの実力や良い性格が実をみのらせるのではありません。こういうことを聞きますと、この中には安心する方がいらっしゃるかもしれません。(笑)大切なのは、キリストという木につながってこそ、豊かに実を結ぶことが出来るということなのです。

 ふりかえって、私たちの生活の中で、主イエスと「お互いの手を握り合う」という体験をどこでしているでしょうか?私自身は、毎朝の祈りの中で、それを実感しています。だからこそ、「聖書を読んで祈る。そして賛美する♪」まずは信仰生活の基本をお勧めするのです。

 7節では「望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と言われています。注意しましょう。主は私たちの欲望を何でも満たしてくれるわけではありません。主イエスのことばにとどまりながら、求めることを学んでまいりましょう。「主よ、みこころにそって祈ることを教えてください。」と祈るばかりです。

 また9節では「わたしの愛にとどまりなさい。」と言われます。これは主イエスからの愛の招きです。父なる神様がイエス様を愛したのと同じ愛で、イエス様は私たちを愛してくださいます。何という恵みの中に私たちは招かれているのでしょうか。私たちはただ、主の愛を信じて、とどまり続ければいいのです。主の愛にとどまるとは、主のことばにとどまることです。私たちの今までの人生の中で「主が私を愛してくださった」という経験をした出来事を思い出してみましょう。そして主の恵みを深く味わって、前を向いて歩き出しましょう。ハレルヤ!

 

私事ですが、この度2週間の「糖尿病教育入院」をしました。おそれていたインシュリン注射は回避出来て、従来通り、経口血糖降下剤の服用を続けていけば良い、との診断でホッとしたところです。 「但し入院時のように適切な食事と運動を継続するように」と、主治医から指導を受けました。ヘモグロビンAicの値が改善されるように、きちんと生活ペースの確立に努めたいと思っております。

 

 『イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って体を見せなさい」と言われた。彼らはそこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。 「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

(ルカによる福音書17: 11-1 9 )

重い皮膚病を患った人たち、この人たちは社会から締め出されて集団を作って何とか生きていました。その境遇は惨めなものでした。ですから主イエスに出会って、「癒やしてください!」と叫ばず、「憐れんでください!」と叫んだのです。イエス様はその人たちを見て憐れみをかけられました。その「重い皮膚病」を癒やしたのです。祭司に体を見てもらい、皮膚病の完治を承認してもらって、社会復帰が可能となるのです。

ところが癒やされた十人のうちで、イエス様のところに感謝するために戻ってきたのは、たった一人でし た。九人は、主の恵みの癒しをまるで当たり前の当然の権利のように、感謝せずスルーしてしまったのです。

なんということでしよう!しかし、この九人のような振る舞い方を私たちがしないとは限りません。イエ ス様が十字架にかかり、流された血潮によって、私たちは罪の奴隷から買い取られて自由になったのです。その尊い十字架の恵みを知らんぷりするような「恩知らず」にはなっていないでしようか?ハツとさせられます。

しかし神様の恵みから遠いと思われていたこのサマリア人が、イエス様に感謝するために戻ってきました。 「感謝する」という言葉は「正しく」と「恵みを受け取る」という語から成っています。神を賛美し、 感謝を現したこのサマリア人に、正しく神の恵みを受け取ったこの人に、イエス様は「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と声をかけておられます。

私たちは主イエスの十字架によって神様との橋渡しをして頂き、何でも望むところを祈り願う事が出来ます。その祈りが応えられたとき、私たちはちゃんと感謝しているでしょうか?請求書ばかりつきつけて、叶えられた時にちゃんと領収書を発行しているでしょうか?

2週間ぶりに帰宅したとき、花壇のジャーマンアイリスと芍薬が見事に咲いていました。パンジーの花鉢も水やりの奉仕のおかげで、盛んに咲き誇っておりました。留守宅が守られたばかりでなく、チャペルを美しく装わせてくださっている!「神様、ありがとうございます」の言葉が出ました。どんな時でも、どんな状況でも、幸いなことに恵みを見出すことが出来ます。

主の恵みを正しく受け取り、「賛美と感謝」の日々を過ごしたいと願っています。主の御名はほむべきかな。

 

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。

(ヨハネの手紙Ⅰ  5:14 )

 

今日は母の日です。旧約聖書のサムエル記上にハンナという女性が出てきます。彼女には悲しいことに子どもがいませんでした。教会でハンナは「どうぞ男の子を授けてください。生まれたら、主におささげします。」と心をこめて祈りました。熱心に祈り続けているハンナをみた祭司工リは酔っているのかと誤解しました。しかし「酔っているのでなく、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」とハンナは答えました。エリは「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と言いました。

 

神様は祈りに応えてくださり、ハンナは男の子を産みました。サムエル(神の名)と名付けられた赤ん坊は、その後、偉大な預言者となりました。ハンナが深い悲しみの中から、神様を信頼し、心を注ぎ出して祈ったこと。その結果として、神様からの祝福を頂くことが出来たことを心にとめて祈りの模範にしたいなぁと思います。

 

わたしの両親は勝田教会の土地問題が出てきたときに、朝早くから起きて、礼拝堂で熱心に祈りました。「地主から返還要求が出されましたが、神様どうぞ教会が建っているこの土地を与えてください!」と。子供心にも、熱心な祈りってすごい!と感じました。

 

その祈りは、娘であるわたしたち夫婦が受け継ぎ、24年間かかって土地問題は解決を見ました。それも、わたしたちが思っている以上にすばらしい、「新会堂と新保育園園舎取得」という祝福の形も伴って。諦めずに祈り続ける、心を注ぎ出して祈る、その時、御心は成っていくのです。常陸大宮の開拓伝道もそうして御心が成っていく証しであります。

だから、こう祈りなさい。 「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように。天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

(マタイ福音書6:9-1 5 )

 

弟子たちはイエス様と共に生活をして、その知恵と力に驚いていました。そして、その鍵は「祈り」にあることを知りました。そこで「祈りを教えてください」とイエス様に願い、教えられたのがこの「主の祈り」です。

1.父なる神様へ呼びかけ、神様の栄光を求める祈りから始まります。祈りにおいて神様を優先する、これは大切です。主の御名が何ものよりも崇められ、栄光を受けるようにと祈ります。また「御国」、神様の支配がこの世界に実現するように祈ります。そして「御心」が行われるように祈ります。どうしてもわたしたちは自分の思いを優先しがちです。はたして自分は主のみこころに生き、従っているかが問われます。

 

2.続いてわたしたちの必要を求める祈りになっています。
日々の生活に必要なものを与えてください、と祈ります。
(わたしは幼い時、「にちようの糧を与えたまえ」と唱えながら、日曜ばかりでなく月曜から土曜はどうするの?と思ってました。)
また「負い目」と呼ばれている「罪」が赦されること、そして試練や誘惑、悪から守られることを祈り求めるようにと教えられています。

 

 特に罪の赦しについては、わたしたち自身も神様に赦された者として、人を赦す決意が伴う祈りです。人を赦さないと、神様に赦されていることが実感できないのです。 「難しいなあ」と思わされますが、そうしようと一歩踏み出したとき、「既に赦されている」という神様の恵みの大きさに気づかされます。なんと幸いなお祈りでしょう。

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