日本キリスト教団常陸大宮伝道所

kmiyajima

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 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。

 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。

 わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。

 感謝の歌をうたって主の門に進み

 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。

 

                                     (詩編100:1-4)

 2025年度の教会主題は「賛美」。主題聖句はこの詩編100:2です。「喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」

 主は、賛美しながら御前に近づいてくるように、私たちに勧めています。主に近づく手段が賛美です。主に近づくとはどういうことなのでしょう。それは、主との交わりを深めていくことを意味しています。

 「賛美」という言葉には本来、心の中に主を大きくしていくという意味があります。賛美をすればするほど、私たちは主に近づくことが出来るのです。そして、私たちが主の臨在を実感できるほどに、心の中を大きく占領してくださるのです。

 礼拝を一言で定義するのは難しいことですが、あえてそれをするなら、「主が私たちに臨まれ、恵みを与え、その恵みに感謝をもって応える行為である」と言えましょう。賛美は、礼拝の一つの形です。

 旧約の時代、礼拝ではいけにえを献げていました。家畜などの捧げものをすることで、主をほめたたえ、主の恵みに対する感謝を表しました。礼拝の定義の一つに「神に最高の価値をお返しすること」があります。

 では現代の私たちが献げるいけにえは何でしょうか?

ヘブライ人への手紙13:15にこう記されています。

だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」イエス様が私たちの身代わりとなって、御自身をいけにえとして捧げてくださっています。ですから、これにまさるいけにえはもはや存在しません。私たちに残されたいけにえは、主をほめたたえる、この唇だと聖書は教えているのです。賛美が最高のいけにえなのです。しかし、私たちはともすると自分の状況に左右されやすいのです。主の恵みを覚え従うことが辛いと思える時があるかもしれません。

しかし、辛い時こそ、主を賛美してみて下さい。その中で、従うことを妨げる肉の思いを告白し、主に赦しと助けを願うのです。主の助けを願いつつ生きる!大切なのは、出来る出来ないでなく、従おうとする姿勢です。そもそも神様を信じることの目的は、神様を利用することではなく、神様の恵みによって自分自身を作り変えていただくことです。本当の幸せは自分が主によって作り変えられることです。賛美することで、さらに主との交わりを深めていきましょう。喜びがわきあがってきます。

 

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。


(ヨハネ2 0 : 1 5-1 7 )

 マグダラのマリアは、イエス様によって七つの悪霊を追い出して頂いた女性です。彼女はイエス様と出会ったことで人生を大きく変えられ、イエス様にずっとつき従っていました。そして、イエス様が十字架で死に、葬られるのも見届けています。彼女はイエス様を慕う想いにあふれ、愛をこめて遺体に油を塗ろうと墓にやってきました。しかし、イエス様の遺体はありませんでした。彼女は途方にくれ、泣き出しました。神様のみこころは、私たちの思いをはるかに超えます。まさにハプニング!
 イエス様のお体に香油を塗ることで、彼女の気持ちは癒やされるはずでした。けれども、体に執着するあまり、大切なことを見失いがちになりかねません。「わたしがあの方を引き取ります。」と言いました。キリストを自分の手元に「引き取る」ことはできません。
 そんな彼女にイエス様はやさしく「マリア」と声をかけられました。
マリアはその声を聴いて、はっと気づきました。このお声はイエス様!
イエス・キリストは呼びかけます。呼びかけて、生きているご自身を示してくださいます。
 なんと、イエス様が生き返ってそこに立っておられる! !
 マリアは復活の主イエスにすがりつこうとします。失っていた、あの温かい、親密な、ぬくもりのある交わりをこの手に取り戻そうとしたのです。しかし、イエス様はそのマリアをとどめられます。「まだ父のもとへ上っていないのだから。」と。そうです。主イエスは父なる神のもとに上り、弟子たちをとりなす者として働こうとしています。人々を慰める者として、彼らと共に生きる者として、さらに関わりをもってくださろうとしています。こうして復活の主は、弟子たちを永遠の命の世界へと導かれるのです。
 マリアは、主から離れずにいることで、自分の信仰を表し、主の復活の証人として名を歴史に残す人になりました。復活の主は、私たちの名も呼んでくださいます。主との出会いは私たちを力づけ、変えてくださいます。特別なことは出来なくても、礼拝にとどまり、みことばと祈りにとどまり、決して主のもとを離れないことで、思ってもみなかった祝福を頂くようになります。イエス様の復活を信じ、今も生きておられる主イエスと共に生き、その復活を証しする使命を果たしていきましよう。
 キリストに名を呼ばれ、目を開かれた人々によって、教会は生きて働くものとなっていきます。ハレルヤ!

 

5月28日、31日の2日間、春のバザーを開催いたしますので、奮ってお出かけください!

      

5月28日(水) 午前10時~11時
5月31日(土) 午前10時~11時
取り扱い品目:衣料品 雑貨 食料品 手作りケーキ&クッキー

※感染症予防のため分散販売をして行います。マスク着用、手指の消毒にご協力お願いします。
 

その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

(ヨハネ1 9 : 3 8ー4 2 )

イエス様が息を引き取られた後、墓に納められます。イエス様の遺体を引き取った人のことが紹介されています。消極的な信仰者であります。情けない弟子であります。その彼が、極悪犯罪者として十字架につけられたイエス様の遺体の引き取りを申し出たのです。ベトロを始めとする主だった弟子たちは散り散りバラバラになってしまい、十字架のもとにはいませんでした。しかしそんな時に、弟子ということを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ(有力な議員であった)が申し出たのです。没薬類を用意したニコデモについても、人々の目を気にして、夜イエス様を訪ねたような臆病な者でした。この二人のケースを知るにつけ、神様はどんな信仰者にも出る幕を用意してくださるんだなぁ、と思うところです。いざという時に発揮される信仰者の姿というのがあるんですねぇ。

今回の受難の記事を読み進めてきて、気になったことはイエス様は大祭司のところでもピラトのところでも、尋問に対してお答えにならなかったことです。反論せずに沈黙を貫かれたことです。神様のみこころが成し遂げられることに重きをおいたとしか思えません。十字架によってのみ為し得なかった罪からの救い。沈黙の尊さを覚えます。

主イエスの受難と復活を覚えるレント。その最後の週にさしかかりました。主の十字架のお苦しみを覚え、自分の罪のために打ち立てられたことに気づきながら、感謝の思いを深くしたいと思います。ヒトラーの圧制下、刑死したドイツの牧師ボンヘッファーの「沈黙しよう」を紹介します。

  

 

  沈黙しよう、みことばを聞いた後に。
  それは私たちの中に生きて住み、なお語り続けるから。
  沈黙しよう、暁に目覚めた時、
  最初に聞こえてくるのが、神からの言葉であるように。
  沈黙しよう、夜、眠りにつく時、
  最後に聞こえてくるのが、神からの言葉であるように。
  沈黙しよう、みことばを聞きたいからこそ。

 

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。                                     (ヨハネ19:28-30)

 兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た。・・・また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。      (ヨハネ19:34,37)

  イエス様の最後のお姿が記されております。

イエス様は十字架の上で、私たちの罪のために渇いた者となってくださいました。御父に愛されたひとり子として栄光に満ち満ちていた方が、御父の前で渇きを味わったのです。この時イエス様が経験した渇きは、どのようなものだったでしょうか。聖書の言葉が実現した、とありますのは詩編22:16です。「口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」いかに十字架上の姿が惨めなものであったか、うち捨てられたとあるようなものであったか、が現されております。讃美歌#280の3節「すべてのものを与えしすえ

死のほかなにも むくいられで」と歌われている場面です。

 そしてイエスさまは「成し遂げられた」とおっしゃいます。主イエスの十字架により、決定的なことが成し遂げられたのです。私たちのすべての罪をご自分が背負い、御父のすべてのさばきを受けてくださったのです。ここに私たちの救いが「成し遂げられた」のです。「主よ、私たちの救いを成就するために、あなたはどれほど苦しんだのでしょうか」と思い、胸がしめつけられるようです。

 

 イエス様が息を引き取られた後、兵士はイエス様の死を確かめるために槍でその体を刺しました。預言通りのことが起きました。詩編34:20-21「主に従う人には災いが重なるが 主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。

 私たちはこの個所を何気なく、そんな死の確認方法があったのだと読み過ごしてしまいがちです。しかしどうでしょうか。イエス様の体を突き刺したのは一兵士ではなく、本当は私たちの罪であります。私たちの罪の鋭い矛先が、救い主の体を貫いたのであります。自らが突き刺した方に相まみえて生きている。考えてみればそれが私たちの信仰生活であります。

十字架を仰ぐとはそういう意味も含まれています。私たちは十字架につけられたキリストを証しして生きる一人一人となっていくのです。レントの季節、心して生きたいと思います。主御自身に励まされて。「主よ、十字架につけられたきリストを宣べ伝える信仰の勇気をお与えください。」

 

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