kmiyajima
主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。この僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の気分を良くするでしょう。」サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して連れて来なさい。」・・・
ダビデはサウルのもとに来て彼に仕えた。王はダビデを大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。
(サムエル記上16:14-17,21-23)
ダビデに主の霊が注がれた一方で、サウルからは離れました。そして更に悪いことには、主からくる悪霊にさいなまれるようになったのです。「主から」という言葉が出てくるように、サタンや悪霊すらも、主の支配のもとにあったことが分かります。サウルは度々悪霊におびやかされていました。そこで、家臣が「竪琴を弾く名手を探しましょう。」と提案します。
この頃、すでに「音楽療法」があった、ということが分かります。その提案をサウルが受け入れ、人材を探した時、ダビデが見出されました。このダビデは、竪琴に巧みであったばかりでなく、戦術の心得もあり、言葉にも分別があって外見も良いとまさに三拍子も四拍子もそろった人物と推奨されています。特に「主がともにおられる人」ということは大切なことでした。こうしてダビデは王宮に出入りする「音楽療法士」となったわけです。また武器持ちとしても用いられるようになり、将来王として国を治める基礎訓練を始めることとなったのです。もちろん、サムエルによって「油注ぎ」がなされたことを、サウルが知ったら大変なことになるという危険はありました。しかし、突然サウルを襲う悪霊による病的な症状を、竪琴を奏でることによって心安らかにさせ、気分を上向きにしました。
悪霊を離させることに実に効果がありました。
私たちが心に留めたいのは、サウル王に「仕えた」とあるダビデの姿勢です。もちろんサウルは王様でしたから主従関係という意味で「仕えた」になるのでしょうが、心身ともに「仕える」ということは努力がいることです。生前二宮幸雄牧師は、「我が家には女王様と王女様と召し使いがいる」と言っていました。当事者である私には、その言葉には限りない愛情を感じていました。自分は神さまから託された家族を、力の限り愛し抜こうとの思いです。それはイエス様が弟子たちの足を洗ったことに通じます。洗足は綺麗事ではすまないことです。汚くなる自分を承知で、目の前にいる人に出来うる限りのことをする。私たちは主イエスの愛に支えられています。「仕える」ことは主に愛されているからこそ、出来ます
サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招かれた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
(サムエル記上1 6 : 5b-7)
私たちが支配されやすい「ルッキング」に関して、今日の所は明解な答えを出しています。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と。だから私たちは安心して生きていかれます。
主はサウル王を退け、エッサイの息子の中に将来王となるべき者を見出しました。そこでサムエルを遣わし油注ぎをさせようとしました。主のご計画を知ったサムエルは、サウル王に殺されるのではないかと恐れました。そこで主は「主にいけにえをささげるために来ました」と言い、サムエルをベツレヘムに行かせました。主のシナリオ通りに彼も実行しました。
いけにえの会食にエッサイとその息子たちが招かれました。長男のエリアブは容姿に恵まれており、サウルを選んだ時と状況が似ていました。しかし、主は彼を退けました。アビナダブ以下、他の兄弟達も主はお選びになりませんでした。そこでサムエルはエッサイに尋ねます。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の息子が残っていますが、今、羊の番をしています。」ダビデは連れてこられ、主は「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」と宣言します。
ここで心に留めたいのは、祝宴に招かれたのはエッサイの息子全員であったにもかかわらず、末息子ダビデはのけ者にされていたことです。エッサイも兄たちも、まだ少年だったダビデのことを軽く見ていたからでしょう。しかし、主はまさに取るに足りないと思われている者、見下されている者、人の目には無に等しい者をお選びになるのです。「天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:9)
末息子ダビデは血色が良く、目は美しく、姿も立派でした。目については、主イエスはこうおっしゃっています。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」(マタイ6: 22) ダビデの目の美しさは、彼の内にある光によるものでした。主に従う心からあふれ出す信仰の光と言えます。主はこのダビデの心をごらんになったのです。見かけの善し悪しは二の次でした。
ダビデは容姿端麗でしたから、やはり見かけが良いので、と私たちは思いやすい。しかし、主は見かけではなく心を見るお方。ダビデが実際に王となるにはまだ長い年月を要します。けれども、彼はさまざまな試練を通して、共におられる神に信頼することを学んでいきます。私たちもまた、主が見てくださる「信仰する心」を保って生きていけるよう祈りましょう。
サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの上に王とされたのだ。主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」
(サムエル記上1 5 : 1 7-1 9 )
サウル王の失敗、 その②です。 なぜサウルが王としての資格を奪われ、ダビデが新たに王として擁立されたかを説明する個所です。 彼をむしばみ始めていた神さまへの不従順は、ここでしっかりと明らかにされています。
「罪」とは何でしようか?それは、神さまの御心にそむくことです。
神さまの命令に従わないこと、それに尽きるのです。ですから、私たちもまた「今していることは『神さまがしてはならない』と言っていることかどうか」の吟味が大切です。
「アマレク人を聖絶せよ」とは厳しい命令です。遊牧の民アマレク人は、エサウの子孫でしたが、神さまを畏れず、出エジプトの際には、疲れて弱っていたイスラエルの民を背後から襲い、落伍者を切り倒すという卑劣な行為をしました。その時からすでに二百年ほど経過していますが、ここで神さまはサウルに、その刑罰としての「聖絶」を命じられたのです。
神さまへの献げ物として、容赦なく滅ぼし尽くせと。
サウルは戦いをしかけ、勝利します。ところが、サウルの不従順が表れ、彼はアマレク人の王アガグ及び上質の家畜を惜しんで聖絶しませんでした。つまらないもの、値打ちのないものだけ滅ぼしました。
サムエルは、サウルに会う前にその不従順について知らされていました。神さまはサウルに失望し、「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ」とまで告げました。サムエルも心を痛め、世を徹して祈りました。しかし、そのサムエルの怒りや悲しみを知らないサウルは、 カルメルに戦勝碑を立てて、自分自身をたたえています。サムエルに聖絶しなかった事実を指摘されると、サウルは責任を兵士に転嫁して、これら最上の家畜を残したのは主の供え物とするためだと言い逃れをしています。
サムエルが主から語られたことを告げますが、なおも先の主張を繰り返します。けれども服従の伴わない供え物は、主に喜ばれません。後に預言者アモスは広義を欠いた献げ物は顧みられないと言います。(アモス5章)
さすがにサウルは権威あるサムエルの言葉を聞いて、自分の罪を率直に認めざるを得ませんでした。(24節以下)サムエルの言葉はさらにむち打つように響きます。「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる。」(28節)サムエルのサウルに対する思いは、主イエスのイスカリオテのユダに対する思いに近いようでしょう。 今こそ 「主の御心に従います!」 と祈り願っていきましょう。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。(詩編100 : 2)
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
(ローマの信徒への手紙10:10)
教会年間主題が「賛美」これまでも様々な視点から賛美について御言葉の解き明かしをしてきました。さて。皆さんにお尋ねします。
賛美の効果って何でしようか?
①大声を出すので、自分を解放することになる。
まぁ、カラオケ効果といったらいいでしょうか。賛美といえば声を出すこと。そして思いっきり歌うことで、自分をしばりつけていた枷を断ち切ることが出来るように思われます。しかし、下を向いてこの讃美歌をこんな風に歌ったらどう思われようか?なんて心配してる人には当てはまらないかもしれません。
②賛美の歌詞によって、思わず信仰の告白をすることになる。
賛美は、会衆みんなで同じ歌詞を歌います。時には自分の感情に添わない言葉を告白しなければならない時もあります。しかし、ピンチはチャンス!たとえば、落ち込んでいる時に「私は主に愛されている♪ 」という歌詞の賛美をするならば、感情ではそう思っていなくても、それを口にすることで変化が訪れます。歌詞の言葉がそのまま信仰の告白となり、自分自身でそれを感じ取ります。そして、いつしか落ち込んでいた心が主によって癒やされるのです。
③自分ではなく、神さまを大きくするようになる。
私たちはつい、自分が他人からどう見られているか、どんな評価をされるだろうかと心配します。そこで、つい自分自身を見映えよく見せようとします。イエス様はおっしゃいました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」(マタイ6:1-2)
偽善者という言葉には「演じる」という意味合いがあります。真心でなく、演じてしまう。それは最終的には自己完結で、神さまの恵みからほど遠くなってしまいます。しかし、賛美することで、そういうことに陥りやすい愚かな自分が「神さまの愛の広さ深さ」に触れて、自分にこだわることをしなくなります。むしろ神さまの偉大さを誉め称え、喜びの源がそこにあることに気づかされます。ちっぽけな自分に終始して、袋小路に入ってしまうのでなく、天窓が開けていることが分かります。賛美の歌詞に心開かれ、目を上げて、主を仰ぎ見て、すべてを委ねて生きていきましょう。
ヨナタンは、自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は間題ではない。」従卒は答えた。「あなたの思いどおりになさってください。行きましよう。わたしはあなたと一心同体です。」ヨナタンは言った。「よし、ではあの者どものところへ渡って行って、我々の姿を見せよう。そのとき、彼らが『お前たちのところへ着くまでじっとしていろ』と言うなら、そこに立ち止まり、登って行くのはよそう。もし『登って来い』と言えば、登って行くことにしよう。それは、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ。」
(サムエル記上14 : 6-10)
ペリシテ人との戦いにおいて、イスラエル側は人数でも武器の面でも甚だしく劣っておりました。三千人いた民も六百人に減ってしまいました。武器についてもペリシテ人は鍛冶屋を独占し、イスラエルに武器を作らせまいとしました。剣や槍を持っているのはサウルとヨナタンぐらいで、その他の者たちは石投げや杖、棒、農具の類いを持って戦いに臨んでいました。劣勢は明らかでした。この状況を打破したのがヨナタンです。
サウル王の息子ヨナタンは実に沈着冷静かつ勇猛果敢な若者でした。(後にダビデの無二の親友となります。)主に対する信仰によって行動します。
彼は父サウルにも祭司アヒヤにも知らせず、従者と二人きりでペリシテ人の先陣のただ中に切り込んで行く計画を立てました。一見、無謀と思えるものです。けれどもヨナタンは、このままじわじわと敵軍に圧倒され、敗北を迎えるに忍びなかったのです。二人きりであっても、大軍勢に勝る万軍の主の助けを信じて進んで行こうとします。討ち死にを覚悟で切り込んで行こうと、道具もちの従者に呼びかけました。「勇将の下に弱卒なし」と言われますが、この従者の答えも見事です。主人と一心同体であり、命令通り従うと言っています。
攻撃方法については、敵の言葉を用いて主は導かれると信じています。そしてその通り実践して敵を20人ほど打ち倒します。すると恐怖が敵陣に広がり、地震も起きて、敵の恐怖は極限に達したとあります。こうしてヨナタンの行為を主は良しとされました。これをきっかけにイスラエル軍の士気は高まり、勝利へと導かれます。
ヨナタンの信仰に私たちは知らされます。「主に信頼すればゆるがない」私たちはふだんの生活において、神ならぬものに頼ってしまいがちです。しかし、私たちの人生を守り導くお方は主にほかなりません。確かに私たちの個性は様々で、一様に「信仰深く、敬虔な方」と見られないかもしれません。牧師として「信仰を持ったらいい人になれますか?」と問われたら、「いいえ、性格は変わりません。しかし、生きる姿勢が変わります」と答えます。主を主とする生き方。その生きる姿勢は信仰という一本に貫かれています。木や石を拝むのでなく、見えないまことの神さまを礼拝し、すべてを委ねて祈っていく。その生き方は周りの人々も認めるところです。