日本キリスト教団常陸大宮伝道所

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10月10日、12日、14日の3日間、秋のバザーを開催いたしますので、奮ってお出かけください!

      

10月10日(火) 午後2時~4時
10月12日(木) 午後2時~4時
10月14日(土) 午前10時~11時
取り扱い品目:衣料 雑貨 食料品 手作りケーキ&クッキー

※コロナ感染予防のため、販売を分散して行います。
 マスク着用、手指の消毒をお願いいたします。

 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、……

サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイをエッサイはダビデ王をもうけた。

ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、……

ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

(マタイ1 : 1-1 7抜粋)

マタイ福音書冒頭のイエス・キリストの系図です。系図は旧約聖書になじみのない人にとっては、退屈きわまりないものです。しかしイスラエルの人々は系図を大切にしてきました。自分たちの民族から、将来救い主が誕生すると予告されていたため、部族や家系を重んじていたのです。

だから、マタイ福音書の最初の読者であるイスラエル人に向けて、イエスがアブラハム、ダビデから続くイスラエルの本流に属するお方であり、救い主であることを伝えようとしたのです。

この系図の特徴は、通常古代の系図に記されない女性の名前が挙げられていることです。5名の女性のうち最初の4名には、それぞれに有名なエピソードがあります。

3節のタマル。彼女は子孫の残すために策略を立て、義理の父ユダとの間に子をもうけました。(創世記38章)

5節のラハブ。異教の町エリコに住む異邦人で遊女でしたが、まことの神様への信仰と功績によりイスラエルの民に加わり、ダビデの先祖となりました。(ヨシュア記6章)

同じく5節のルツ。ルツ記に記されてありますように、異邦人でしたがその信仰と高潔な生き方により、イスラエルの一員となりダビデ王の先祖となりました。

6節のウリヤの妻。ウリヤの妻とはバトシェバのことです。ダビデとの不倫関係を思い起こします(サムエル記下11章)。

このように4人の女性たちには特殊な事情がありました。この系図から見えてくることは、男女を問わず、人間の弱さや罪、過ち、悔い改めと信仰、そしてそれを覆う神様の忍耐やあわれみと恵みを読み取ることができます。

神様はこうした人間の世界に、救い主を遣わしてくださいました。救い主は5番目に挙げられた女性マリアからお生まれになりました。ダビデの家系から救い主が生まれます。神様はそのお約束を実現なさるお方です。

私たちもまた、約束を実現なさる神様を信頼し、生きていきましよう。

 

 だからこう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を敵しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」もし人の過ちを敵すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

(マタイによる福音書 6:9-15)

「主の祈り」の3回目です。今日は「我らに罪を犯す者を我らが敵すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈る「赦し」の課題をしっ かりと受け止め、それを解決してまいりましょう。

キリスト教の本質は「愛と赦し」です。「赦し」が実行出来たら、 素晴らしいし、幸せですね。まず、「敵す」ことにおいて私たちはこだわりがなくなります。すると生きていく上で楽になるんですねぇ。「どうしても赦せない」と思っているうちは、心が重く、閉じ込められた状態になっています。 赦すことで、そこから解放されて明るく生きていけるのです。

では、どうしたら赦せるようになるのでしょうか。それは二宮幸雄牧師の言い方をそのまま引用すると「自分の物差しを捨てる」ことです。自分がしっかりと「自分の物差し」を手にして相手を測ることで、「足らない」とか「突出している」と裁いているのです。そして、あんなことをしているなんて、どうしても赦せない!となるわけです。しかし、その物差しを思い切って捨てる、あとは神様にお任せする。そうすると理不尽に思えたことも、そう だ、後は神様にゆだねていきゃあ良いんだとなります。どうぞ一度なりとも、自分の物差しを捨てて「神様任せ」にしてみてください。身も心も軽くなること、請け合います。自己中からの切り替えを!

主イエスご自身「赦し」をなさいました。ルカ福音書23章34節をご覧ください。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

ここに「愛と赦し」があります。私たちにはなかなか到達しえない境地かもしれません。しかし「イミタチオ・クリスティ」(キリストにならいて)キリストに倣う、その一歩一歩が大切です。それは主が望まれることですし、光射す道になるのです。赦しましょう!!

いいのです。聞いて信じる者として生きましょう。

   いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

        (テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:16-18)

 

 若かった40代の頃、牧師でありながら「本当にこんなふうに生きられるか!」と思った聖句であります。そこには信仰をダメにする3D(だって、でも、どうせ)が働いていた気がします。

 だって、こんな状況なんだから、喜ぶなんて言ってられないよ!

 祈るというけど、でも静まって祈る時間など、忙しくて取れないよ!

 どうせ、感謝感謝なんて口先ばかりじゃぁない?ほんと偽善的よ!

という具合でした。この3Dに支配されると信仰は袋小路に入ってしまいます。あくまでも自己中心そのもの、神さまとの繋がりを重んじない姿勢です。

 それを打開するには、どうしたらよいでしょうか?自己中心の枠組みからいち早く抜け出るのが、最速最善ですが、なかなか出来そうで出来ないんですねぇ。3Dに代わる言葉を用いてみたらいかがでしょうか。

  だって→ だからこそ

  でも → それなら 

     どうせ→ どうせなら

 

 状況は変わらない。だからこそ、その状況をとらえなおす。辛い、しかしこれは主が与えた試練なのだと。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

(ヘブライ人への手紙12:5-6)

 でも、と言い逃れせずに「それなら」祈るチャンスを作る。模範的な祈りの姿勢をとれなくても、直訴のような叫びの祈りでいいのです。どこにいても祈りましょう。神さまはどこにでもおられます。

 「どうせ」を一歩進めて「どうせなら」神さま繋がりを最大限に利用することです。感謝するというギリシャ語ユーカリステォーは「神さまの恵みを見つける」という意味の言葉です。神さまの恵みは、日々の生活の中で、あふれるばかりに存在しています。しかし、自分中心で神さまに向き合おうとしないと、それが見えません。神さまは私たちを罰しようとするのではなく、私たちの幸せを望んでおられます。

 いつも喜ぶ、絶えず祈る、どんなことにも感謝する。私たちが自らに固執してしまうのでなく、罪の自分に死んで、キリスト・イエスにおいて生きようとする時、その生き方が可能になります。生をうけて72年、クリスチャン歴54年、伝道者になって44年、今を生きる私自身の実感です。

「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないよう にと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それが、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを 誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

(コリントの信徒への手紙 2 12:7-10)

 

祈りについて学びを深めてきました。熱心に祈る、あきらめずに祈る、主の励ましを受けて祈る、でした。そして、礼拝お休みという状況の中でも、喜んで、心を注ぎ出して祈ってきました。

 

ところで祈りの答えは3通りあります。①Yes (良し) ②Wait(待て)③No(ダメ)です。今日の 個所はNo! 「きかれない祈り」です。これは誰にとりましても、つらいことです。

 

伝道者パウロには持病があったようです。その為、福音宣教の業に妨げがあると思ったパウロは、それを取り去ってほしいと願いました。三度も集中して祈りました。しかし、答えはNo.  普通だったらめげてしまいます。けれどもパウロは自分の願い通りにならずとも、主から励ましを受けます。 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。 「主の恵み」なのです。キリストの恵みはパウロに対して十分に注がれていて、不足はないのです。そして「とげ」を含めて主が望む、一番良い状態にあることが示されたのです。

 

そうです。主のお答えは、いつも私たちの期待するような形で来るものとは限りません。だからこそ、パウロは不承不承ではなく、すべてそのまま受け入れ「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましよう」と、 最初願った時とはまったく違った態度で向き合っています。真実な祈りは確実に人を造り変えていくのです。

 

 パウロはこう考えたかと思われます。 「病気にならなかったら、私は何でも自分の力でできると威張った ことでしよう。でも、病気によって、主に頼らなければ何もできないことを知りました。私は弱いけれど、 主の恵みをいっぱい頂いているのです。」

 

二宮幸雄牧師も、ここ数年は痛みを抱えて生きておりました。顔をしかめて「イエスさま!」と訴えるさまに、その痛さが酷いものだと分かりました。 「主よ、この命を取り去ってください」と願わなかったといったら嘘になるでしょう。しかし、痛みを抱えながらも、喜びのメッセージを語ることが出来たのは、奇跡的なことでした。 「弱いときにこそ強い」をまさに体現しておりました。

 

祈りはよく「神様にお話しすること」と言われています。そして自分の願いを率直に申し上げることが出来るのは、クリスチャンの特権です。

 

ここで、祈りにおいて大切なことに、もう一歩踏み込んでいきます。会話ならば「言う」だけでなく「聴く」ことも大切です。願いを機関銃のように打ち込んでいくだけの祈りになっていないでしようか。祈るときに、「聴く」ことを大切にしたいのです。

 

「自分の思」が中心になっているところから、「神様の御心」をうかがうことに転換してみてください。「自分心」でなく「御心」、主なる神様のご計画を聴くのです。その時、 「きかれない祈り」と思っていたものが、主がお望みになるように導かれることを通して、実は「きかれている祈り」に変えられているのです。ハレルヤ!!

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