主イエスの逮捕

メッセージ

 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こること何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。

               (ヨハネによる福音書18:1-5)

   主イエスは、御自分の身に起こることを何もかも承知で、キドロンの谷の向こうへ出て行かれました。キドロンとはヘブル語で「暗い」という意味です。主はその谷に降りて行かれました。谷の「向こうへ」出るために、主は弟子たちを伴われて進んで行かれたのです。弟子たちのありさまに、私たちもなぞらえることが可能ならば、こう言えるでしょう。私たちに先立ってくださる方は、暗黒の向こうへと共に歩んでくださる。私たちを新しい命へと導く為に「暗黒を通って」それをなしてくださったのです。

 今、まさに暗闇の中、ユダが一隊の兵士たちを引き連れてやってきます。彼らの手には、明かりとたいまつ、そして武器がありました。そしてユダが先導役なので、闇であっても間違いなくイエスを逮捕出来ると意気込んでやってきたのです。残念なことに、彼らは「世の光」であられる主イエスを理解しようともしません。「救い」から隔たってしまうのです。

 主はユダの裏切りを知りながら、逃げも隠れもしませんでした。「だれを捜しているのか」を言われ、彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、「わたしである」と言われました。この表現は「エゴー・エイミー」という言い方で、かつて神さまがモーセに御自身を表された時に言われたものです。ということは、ここでイエス様が御自身の神性と主権を明確に宣言されたのです。ですから、彼らはその言葉を聞いた時に、後ずさりして、地に倒れたのです。イエス様の言葉に力と権威があったからです。

 そして、「わたしを捜しているのなら、この人々を去らせなさい。」とまでおっしゃります。弟子たちが巻き添えにならないように配慮しています。「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした。」という言葉が実現するために。良い牧者である主は、ご自分の羊たちを守るために、自ら命をお捨てになられたのです。人の目には、弟子の一人に裏切られ、無残な十字架の死を遂げたと映るかもしれません。けれども、イエス様は、自らの意志でいのちを捨てられたのです。「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」神の子の受難以外に、人間の救いはどこにもありません。くすしき恵みと輝く光を改めて覚えます。