ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついに泣く力もなくなった。ダビデの二人の、イズレエルのアヒノアムとカルメルのナバルの妻であったアビガイルも連れ去られていた。兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。
(サムエル記上30:3ー6)
一難去ってまた一難。ダビデが身を寄せていたアキシュとの関わりで、イスラエル軍と戦うペリシテ軍に加わるかもというところから、運よく離脱することが出来ました。ところが、元の場所へ戻ったらアマレク人の攻撃を受けて、町は焼け落ち家族は連れ去られていました。なおかつ被害にあった者たちが「これも皆、ダビデのせい」とダビデを打ち殺そうとしました。厳しいですね。期待と信頼とが崩れると、悲しみを共に担うことが出来なくなります。自分を慰めることが出来ないと、それはリーダーへの不満、憤りになります。
しかし、この時ダビデは「主によって力を奮い起こした」とあります。
この世的には、うまく立ち回ったと思っていたダビデでしたが、思わぬ事態に進退きわまりました。けれども、神さまの出番を心得ていました。
主に託宣を求め「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる」との答えを得ました。途中で遭遇したエジプト人から必要な情報を聞き出します。案内させて追跡し、攻撃をしかけ奪還します。逃亡生活の中で、ダビデと神さまとの交わりは希薄になっていたかもしれません。けれどもここぞという時、「いざという時の信仰」によって支えられます。ダビデは家族や財産を奪還した一連の出来事を通して、神さまとの関係も「奪還」したのです。
また、追跡の旅の途中で挫折した者もおりました。攻撃が成功し、もとの場所へ戻ろうとした時、戦利品の分配はどうするかという問題も起きました。「共に戦わなかった者には戦利品を与える必要はない。」との声が出た時にダビデは言い切りました。「主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。」と、主の守りと加護に言い及び、皆同じように分配することを断言しました。
苦労した者、疲れて同じ働きを出来なかった者、人の目には功績の差は大きくても、主の目には特別に大きな違いがあるわけではないのです。
自分が主人公だと考えると功績の大小を重視します。けれども、一連の勝利の出来事は主がなしてくださったと覚えると、全てを主に帰し、感謝の思いを強くします。家族と財産の救出は、逃亡していたダビデ集団のきずなを強めました。
私たちの信仰生活においても同じことが言えるのではないでしょうか。
「主を主とする」あるいは「栄光在主」。こんな罪深い私にこだわり続けることなく、神さまの力を頼みとして生きていく。喜びがあふれ出ます。