最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ。」
(マタイ福音書20:10-14)
賛美を主題に10ヶ月。賛美の効果3つ。①声を出すことで自分を解放する。②リズミカルになって、生活にめりはりが出る。③主を賛美することで、自分ではなく神さまを大きくするようになる。”栄光在主”
しかし、賛美の土台となる信仰生活、ここが弱いと、どうしても賛美はただ楽しむもので終わってしまいがちです。今日はその土台に着目しましょう。この答えを考える箇所としてマタイ20章のぶどう園のたとえを思い出します。あるぶどう園の主人が出かけていって労働者を雇いました。最初は午前9時、その後12時、3時に。最後には5時に雇い入れました。夕方になって賃金を支払う段になり、最後に来た人から一デナリオンずつ受け取らせました。最初に雇われた人は、もっと多くもらえるだろうと思ったにもかかわらず、同じく一デナリオンでした。不平がでます。
人間の常識からすれば、働いた分に応じてお金が支払われるべきです。しかし、神さまは、私たちと違った別の基準で彼らにお金を支払いました。
その基準とは実に単純明快です。「神さまの招きに応じて働きに来たかどうか」ということです。体力があれば朝から働くことはOK。けれども体力がなければ、暑い日中を避けて夕方から働くのが精一杯なのです。人は皆、このように神さまから与えられている体力に差があります。そうした体力の差は神さまからの賜物の違いですから、神さまにしてみれば評価の対象とはなりません。神さまの評価基準は「神さまの言葉に応答し、自分にできるところで働いたかどうか」です。信仰において大切なのは強い、弱いでなく、主に応答する「生きた信仰」です。
自分がどれくらい出来るかに関心をもち、出来ない自分に失望しやすい私たち。そうではなく、神さまを中心とした永遠を見る思いで生きていきたいものです。「からし種一粒ほどの信仰」(ルカ17:6)と主はおっしゃられました。生きて働く信仰、主の呼びかけに応答する信仰が決め手。
私たちの賛美する喜びはそこに根ざしています。そして、賛美を通して主と深く交われば交わるほど、自分の言葉で祈りたくなるものです。生きた信仰をもって主を賛美している人ほど、祈ることに飢え渇きを覚えるようになります。「賛美する群れ・祈り合う群れ・励まし合う群れ」常陸大宮チャペルはそこをめざし、主の導きのもとで前進してまいりましょう