サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招かれた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
(サムエル記上1 6 : 5b-7)
私たちが支配されやすい「ルッキング」に関して、今日の所は明解な答えを出しています。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と。だから私たちは安心して生きていかれます。
主はサウル王を退け、エッサイの息子の中に将来王となるべき者を見出しました。そこでサムエルを遣わし油注ぎをさせようとしました。主のご計画を知ったサムエルは、サウル王に殺されるのではないかと恐れました。そこで主は「主にいけにえをささげるために来ました」と言い、サムエルをベツレヘムに行かせました。主のシナリオ通りに彼も実行しました。
いけにえの会食にエッサイとその息子たちが招かれました。長男のエリアブは容姿に恵まれており、サウルを選んだ時と状況が似ていました。しかし、主は彼を退けました。アビナダブ以下、他の兄弟達も主はお選びになりませんでした。そこでサムエルはエッサイに尋ねます。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の息子が残っていますが、今、羊の番をしています。」ダビデは連れてこられ、主は「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」と宣言します。
ここで心に留めたいのは、祝宴に招かれたのはエッサイの息子全員であったにもかかわらず、末息子ダビデはのけ者にされていたことです。エッサイも兄たちも、まだ少年だったダビデのことを軽く見ていたからでしょう。しかし、主はまさに取るに足りないと思われている者、見下されている者、人の目には無に等しい者をお選びになるのです。「天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:9)
末息子ダビデは血色が良く、目は美しく、姿も立派でした。目については、主イエスはこうおっしゃっています。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」(マタイ6: 22) ダビデの目の美しさは、彼の内にある光によるものでした。主に従う心からあふれ出す信仰の光と言えます。主はこのダビデの心をごらんになったのです。見かけの善し悪しは二の次でした。
ダビデは容姿端麗でしたから、やはり見かけが良いので、と私たちは思いやすい。しかし、主は見かけではなく心を見るお方。ダビデが実際に王となるにはまだ長い年月を要します。けれども、彼はさまざまな試練を通して、共におられる神に信頼することを学んでいきます。私たちもまた、主が見てくださる「信仰する心」を保って生きていけるよう祈りましょう。