サムエルは民に行った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後はそれることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主は偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」
(サムエル記上1 2 : 2 0ー2 5 )
サムエルは、士師としてイスラエルを導く第一人者の任を全うし、サウル王にバトンタッチするにあたり、全イスラエルに向かっていわば「告別説教」を語っています。自分が士師として潔白な生活を送ったことを主張し、民もそれに全く異議を差し挟みません。更に彼は、今まで主御自身が様々な士師を用いて民を救ってきたのに、この主を捨てて王を求めた、と民の罪をもう一度はっきりと指摘しました。そして言葉だけでなく、それに伴うしるしを主に求め、その結果として時季外れの雷と雨が降り、大いに民を恐れおののかせました。また民のために祈ること等を語っています。彼自身、預言者としての使命、祈ることと真理を伝えることを続けることを約束しています。祈らなかったり、祈りをやめることも罪なのですね。
そして、イスラエルの民が最も大切にしなければならないことを明らかにしています。それは「今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。」ということです。何かというと主以外の神々に走る傾向があったイスラエルの民には耳痛いことであったかと思われます。バアルもアシュトレトもむなしい。それらは何の力もなく、救う力もない。と明言します。また、説教の最後には「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。」と勧めます。
このサムエルが民に告げた勧めは、現代を生きる私たちにも適用されるのではないか、と思います。イエス様がファリサイ派の質問に答えて「最も重要な掟」を示しています。それは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」また「隣人を自分のように愛しなさい。」でした。(マタイ2 2 : 3 7-3 9 )主を主とする生活。隣人との関わり。十字架の縦棒と横棒。しつかり組み合わさって、自分の十字架(使命)となっていきます。私たちの信仰の生涯はせいぜい7 0~8 0年かもしれませんが、教会に受け継がれている信仰の系譜はそれ以上に長いのです。その流れの中で信仰者として生きていく幸いを覚えます。
私たちは独りぼっちではない。イザヤ書4 6 : 4を味わいましよう。