全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。
(詩編100:1-2)
今年度の教会主題は「賛美」です。しかし「賛美」しなければならない、というのではありません。神さまは私たちに、日々新たな恵みを与えられます。そして、私たちの口から賛美を引きだそうとしておられるのです。賛美することで、神さまは私たちに出会いたいと願っておられます。
「題名のない音楽会」というテレビ番組があります。昨日放送されたのは、ウィーン少年合唱団の来日公演のステージでした。そこで、天使の歌声が聞けたのですが、最後に音楽監督の言葉が紹介されました。それは「歌うことよりも素晴らしいことは もっと歌うこと」でした。私たちに与えられた神さまを賛美するということは、さらに歌うことによって、より神さまに近づけることを意味します。
先週、讃美歌510番「主よ、終わりまで」を歌いました。礼拝の後で、ある姉妹が「私も讃美歌の言葉が身に沁みました。私の葬儀で、この讃美歌を歌ってほしいと思いました。」と語ってくれました。讃美歌の歌詞は私たちの心の扉を開いてくれます。時には喜びどころか悲しくてたまらない時があるかもしれません。しかし、讃美歌を口にすることを通して、私たちの悲しみは喜びに変えられるのです。それはなぜか、わかりますか?
それは私たちの耳がその言葉をいち早くキャッチするからです。そして、讃美歌を歌い上げる時、「そうだ、この通りだ!」と心に響くからです。口にした言葉が実体化する、と言ったら良いでしょうか。愚痴をつぶやきますと、ますますネガティブ思考に陥ります。その逆ですね。喜び賛美することで、前向きに切り替わることが出来るのです。愛唱讃美歌が何曲かあって、それをそらで歌えたらいいですね。
賛美の力はいろんな面で活力となります。久喜復活伝道所の山野裕子牧師が先年信徒の友に「整然とした礼拝でなくても」という文章を載せていました。その中で交通事故で高次脳機能障害を負った息子さんを含めて、共に献げる礼拝の様子を記しています。息子さんは歌詞が読めません。礼拝で周りの人の声を聞いて歌うので、皆に「大きな声で歌ってほしい」と頼みます。讃美歌に慣れない人は、息子さんの大きな歌声に合わせて歌うと言います。補い合っての元気な賛美の声は、隣の公園にも届きます、と。
時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから無分別な者とならず、主の御心が何であるか悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エフェソの信徒への手紙5:16-20)