イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
(ヨハネ福音書10:7-11)
イエス様は御自分を羊飼い、私たちを羊になぞらえ、「私は良い羊飼い」であると宣言なさっています。なんという幸い、なんという嬉しさ!!
それも、イエス様がいらしたことを通して、羊が豊かな命を受けるとおっしゃられています。私たちは主を知らなかった時、みじめで自己嫌悪のかたまりだったかもしれません。もしくは、主にあって初めて真理を知るまでは、この世の知恵に支配されたり、しがらみでがんじがらめになっていたかも知れません。しかし、「罪の奴隷状態」でありながら、それに気づかず生きてきた私たちに、主は出会ってくださり、永遠の命にあずからせてくださいました。私たち自身を養う牧草や水を見つけさせてくださいました。今日のみことばから、まずは私たち自身が受けている恵みを味わい知って、喜んでいきたいと思います。
そういう私たちの姿を見て、周りの方々は「クリスチャンって不思議な人たちねぇ」と言うかもしれません。そんな喜べない状況にあっても、ほほえんでいるし、愚痴らずに「神様ありがとう」と言えるなんて!
そうなんです。私たち自身も不思議に思います。「クリスチャンとして喜んで一日一日を精一杯生きていける」ということを。それには秘訣があるんですね。それぞれが祈りの生活、神様と格闘する生活を通してそれが可能になります。祈ることは綺麗事を並べることではありません。自分の思いをさらけ出して、主に吟味して頂くのです。時には悔い改めるばかりの時もあります。また不条理なことにもだえながら訴えることもあります。主はそういう私たちを顧みてくださり、広く深い愛で包み込んでくださっています。私たちはただ主に頼り、養っていただくだけで良いのです。
幸雄牧師は「クリスチャンとは気楽な稼業ときたもんだ!」と良く言ってましたが、その通りなんですね。その幸雄牧師が修士論文で扱ったのがこのヨハネ福音書10章、そこで展開したのが「教会論」でした。
羊飼いは門を通って羊に近づきます。柵を乗り越えてくるのは羊を奪う盗人であり強盗です。羊は傷つけられたり、殺されたりします。
羊飼いは羊に出会うために来ます。羊飼いが羊に出会うためには、ひとつの門を通るほかありません。罪の赦しという門。十字架という門を通って、イエス・キリストはこの罪人である私たちのそばに来てくださったのです。「主よ、あなたの命がけの愛に感謝致します。」ハレルヤ!